陸、 月の世界 2

 だだっ広かった吹き抜けと打って変わって、やや小さめの廊下や部屋がしばらく続いた。相変わらず壁は白一色で、窓はなく、少し進んだだけで階下の騒音はほとんど聞こえなくなった。

「ここ、普段は禁止区域ね。一般の天兎は入れない場所だわ」

 アオの口ぶりは慣れている様子だった。彼女は儀式の遣いをやるくらいだから、少なくとも『一般』ではないのだろうが。

「へぇ。言われてみれば、ちょっと舞台裏っていうか控え室っていうか、そんな感じだな」

「うん。本当はお偉いさんや教皇がいるような場所だけど……こんな事態だし、もうとっくに逃げてるかもね」

 だからこんなにしんとしているのか。

「街の戦いへの対応に追われているのか、ここまで入り込まれることを想定していないのか……さて、どうでしょうね」

 月見里が訝しげに呟く。

「何でもいいわ。でも、とりあえず警戒はして。あの回廊を越えた連中が追ってくるかもしれないし」

「もちろんです。私も、このまま上まで素通りとは思っていません」

 そう話す彼女たちの体毛は、ピンと張り詰めていた。このまま上まで行けたらいいなぁ、なんて思っていた俺だが、どうやら甘い考えだったらしい。

 しかして予想通り、そこから数階上がると、いきなりワンフロア全てをぶち抜いたような広い円形の空間に出た。おそらく直径三十メートル程度。上は平天井で十分高く、出入口は前後に二つ。俺たちの上ってきた階段が真後ろにあり、真反対に、さらに上への階段があるだけだ。

 その階段の奥から、緩慢で重い足音が聞こえてくる。

「■■■■■■■」

 聞き取れない言語とともに現れたのは、やや太めの体躯をした天兎。右肩に驚くほど大きな薙刀を担いでいる。それは兎どころか人間でも扱うのに辟易しそうな、全長およそ三メートルもあろうかというほどの大物だ。

 奴の言葉に、俺たちの中でアオだけが顔をしかめた。彼女だけは何を言われたのか理解できるのだが、おおよそ触りのいい内容ではなかったらしく、返答は荒かった。

「ふんっ! あんた、せっかくの煽り口上なら、こっちのわかる言葉で言ってほしいものね!」

 奴はその太い首を一度だけ傾げ、しかしすぐに納得したように喉を鳴らす。

「ん、あー、あー。えっと……これで、あってるかな?」

 非常に低く、渋い声がぬるりと出た。

「地上の国の言語だよね、これ。僕が昔行った国ではほとんど聞かなかったけど、とりあえず覚えておいてよかったよ」

「さすが、枢機卿ともなるとご博識ね」

「はは、照れるねぇ。でもね、枢機卿だから博識なんじゃないよ。博識だから枢機卿なんだよ」

 口調には妙な貫禄さえある。そして一応、物知りの自負はあるようだ。

 アオは俺の頭からピョンと飛び降り、露骨に嫌な顔をしてみせた。それから小さな声で、後ろの俺と月見里に向けて言う。

「あいつ、高官の中でも結構な武闘派なの。かなり厄介よ」

 すると月見里も続いて俺から降り、同じく小声でアオに応じる。

「枢機卿ということは、教皇を直接補佐する役回りということでしょうか。かなり影響力のある立場と考えてよろしいですか?」

「そうね、そんな感じ」

「では一度、対話を試みましょう」

 一歩前へと出る月見里に、アオは「はぁ?」と調子の外れた声を出す。「あんた……ここまで来て律儀ねぇ。絶対無駄だと思うけど」

 月見里は毅然と声を張った。

「卿、お一つよろしいですか?」

「……ん? 何?」と奴は月見里に視線を移す。

「あなたは天兎の教えについて、どのように考えておられますか? 多くのユエを持ち、神と月に祝福されているという天兎が今、こうして月に住んでおられます。ですが地兎である私も、このように、多くのユエを有しているのです」

 言いながら月見里は、黒く小さな右手を差し出し、その手のひらの上にユエの光を灯してみせた。俺が指先に灯すよりもさらに輝きの強い、大きなユエを。

「へぇ、確かにね」奴は素直に驚いた様子で言った。「今、兎の姿でそれだけ使役できるなら、極めて大きなユエをその身に宿しているんだろうね」

「はい。これはまさしく、天兎の教えの綻びではないですか?」

「そうだね、うん。まあでも、あれって綻びだらけの教えだからね」

 何気ないその言葉に、しかし俺は驚いた。そしてきっと、月見里も。

「僕も含め、お偉いさんはみんな知ってることだけどね」

 アオだけが平然と、それでもいくらか憎らしそうに「ほらね」と零す。

「今更そんなことで騒いで、どうしたいのかと思いきや……ああ、それでキミか」

 奴は退屈そうに首を捻っていたが、ふと、何かを嗅ぎ取ったように鼻を鳴らして俺を見る。

「さっきから気になってはいたんだけど……キミは、人間だね? まさかこの月の世界に来られる人間がいようとは」

 驚き、笑顔で、そして同時に、垣間見えていた思案顔は了得へと変わった。

「そうかそうか。これはすごい。そして……うん。キミたちの思惑はわかったよ。となると……ここは是が非でも通せないかな」

 警告の意の表れだろうか。奴の声は、次第に重くなっていく。

 けれども月見里は、特に臆した様子を見せない。

「それを聞いて安心しました。逆に言えば、私たちがこの上まで行けば、まだ希望はあるのだと……そう解釈します」

「そうだね、うん。天兎の教えには綻びがあるけど、それを知っているのは一部の特権階級だけ。それに、確かに綻びがあるとはいえ、天兎が人間を神として崇めているのは紛れもない事実だ。天兎の世界は、人間の言葉には逆らえない」

 ならばと、俺は試しに尋ねてみる。

「んじゃあさ。ここを通してくれって、言ってもいいか?」

 途端、奴は声を上げて大口で笑った。

「はっはっは。いやいや、いやいや、それは駄目だよ。逆らえないのは、あくまで天兎の世界――集団としての話なんだ。僕は別に、一般の天兎みたいに教えを強く信仰しているわけでもないし、それに……キミの言葉が力を持つのは、この上の燭台に炎として――祝詞として、灯ってからだからね」

 奴は肩に担いだ薙刀をゆっくりと下ろした。

「キミたちの言いたいことはよくわかるよ、うん。なんなら、キミたちの方が正しいのかもしれない。でも僕もね、一応ここの守りを任されちゃってるわけだし……ほら、仕事はちゃんとやっとかないとでしょ。できるだけ頑張りましたって言わないと」

 伝わってくる気迫とは裏腹に、口から出る言葉は随分と緩い。

「それはそれは……真面目なんだか不真面目なんだか」と思わず漏れたこれは本音だ。

 そして、奴の体重が爪先に乗ったのがわかった。全身から呼吸による上下運動が隠れ、視線が鋭くなる。

 アオと月見里は、長い耳をピンと立てた。

「紫苑、通り抜けるなら、まずあんたが最優先よ。あんたさえ通っちゃえば、あたしと紅音はどうとでもなるから」

「賛成です。必ずしもあの方を倒す必要はない。こちらの目的はこの部屋を突破することです」

 アオと月見里の意思疎通が瞬時に完了する。どうやら軽口や冗談の挟まる余地はないらしい。

「わかった。隙を見て狙ってみる」

 俺は小さく頷いた。

「相談は済んだ? 僕はね、大人しく引き返すのをお勧めするかな」

 言いつつ奴は、俺たちを順に見る。俺もアオも月見里も、揃って反論の視線を投げつける。

「んー……できれば殺したくはないんだけど、かといって約束もできないよ? 僕もまだ若輩者でさ。いやはや申し訳ないね」

「大丈夫、お互い様よ。無血革命も、老害一匹斬る程度なら誤差範囲だから」

 吐き捨てるように笑みを浮かべたアオは、言うが早いか、正面から奴に突っ込んだ。

 月影を構え、傘を左に逆手で、仕込み刀の柄を右手で握り、居合の要領でもって斬りかかる。

 けれど奴も、アオの突進とほぼ同時に身体を引き、バックステップで懐に入られるのを防いだ。距離を取りつつ巨大な薙刀で応戦。難なくアオの一閃を捌く。

 奴はその後も方向を変えながら徐々に後退を繰り返し、アオを近づけすぎないよう立ち回った。傘と刀の両方で大胆に攻め込んでいくアオに対し、奴は冷静に、かつ器用に、刃と柄の両方を使って着実に斬撃を受け流す。

 勢いではアオが勝っている。近づけば近づくだけ、薙刀に対しては刀が有利だ。距離を保とうとする相手を追いかけるように、逃さないように、アオは圧をかけている。しかも真正面よりやや右側から攻めることで、巧みに奴を部屋の左側へと誘導した。

「宮東さん。私が先導します。続いてください」

 月見里に声をかけられてはっとする。そうだ。白兎二匹が刀剣を振り回しているシュールな光景に目を奪われている場合ではない。

 月見里は右側に開けた空間を、内壁に沿って回り込むように走って出口へ向かった。

 しかし、そのときだ。アオと斬り合っているはずの敵の視線が、ぐんっと鋭くこちらへ向いたのがわかった。奴は瞬時にアオの刀を正面から受け、勢いを殺さず弾く要領で押し上げる。

 するとアオは、まるで上からゴムで引っ張られたかのように天井へと吸い込まれた。

 どうにか身体を反転させて逆さまに着地するも、上手く衝撃を逃せなかったようで、天井には鋭く亀裂が入る。重い衝撃音が響き、白い砂礫がパラっと降った。

 その隙に奴は、これまでの緩慢な動きからはとても想像できない俊敏さで、俺たちの方へと飛んできた。

 あまりの速度に驚いた月見里がすぐさま俺の前に立ち、指輪をはめた左手を構える。

 それでも、敵の接近があまりに速い。小さな水弾を一発放った程度ですぐに詰め寄られる。大振りの蹴りをまともに食らった月見里は、入口の方へと一直線に吹っ飛ばされた。

 危機感から、俺はほとんど反射的に懐の匕首を構えていた。鞘から取り出す暇はなく、そのまま両端を持ってユエを流し込む。

 目の前で脳天から振り下ろされる巨大な白刃。俺は咄嗟にその下へと滑り込み、刃の根本を、額の上に掲げた匕首で受け止める。

「ぐ、がぁっ!」

 身体が足から床にめり込むかと思うほどの衝撃だ。全長五十センチもない兎とは思えないほどの力。刃の先端で受けていたら、即座に頭がスッパリだったろう。ついでに匕首にユエを込めていなかったら、匕首そのものもたぶんスッパリだ。

 すぐに左方から月見里の援護が入る。蹴り飛ばされて地に伏した状態からの水弾。それでも敵は、俺の前からは退いた。俺は痺れる腕をさすりながら月見里のところまで戻る。

「あいつ、やっばい! 馬鹿力だ!」

「ごほっ……そのようですね。アオさんが軽々と天井に弾き飛ばされたのを見ても、相当のものかと」

 ゆっくり起き上がりながら、月見里は視界の端でアオを見る。

 アオはもう既に床に下りていて、その視線にも気づいたようだ。発破が飛んでくる。

「ちょっと紅音! ひよってないで、あんたもちゃんと戦いなさいよ」

「ひよった覚えはありませんが……意外とあなたが優勢でしたので、気を抜いたのは認めます」

「千二百年も寝こけてるから、身体が鈍ってるんじゃないの?」

「断じて、そんなことはありません。そもそもあなたの身のこなしが異常なのですよ。その少ないユエで、天兎の世界をこれまで生きてきただけはあります」

「いちいち一言多いのよ!」

 会話の様子からして、アオも月見里も致命傷はもらっていない。

 そして身のこなしという点においては、敵もまた、群を抜いているとわかった。力、速さ、体捌き、薙刀の練度。一度横をすり抜けようとしただけで痛感した。俺だけではない。たぶんもう、アオも月見里も気づいている。

 あいつを倒さずにここをやり過ごすことなど不可能。倒すしかない、と。

 月見里が小声で言った。

「申し訳ありませんが、ここからは少し、傍を離れることになると思います。宮東さんは、自身の安全を第一に考えてください」

 俺が頷くよりも早く、月見里が前へと出ていく。

 同時にアオも強く駆け出す。出口の前に佇む敵に斬りかかっていく。突進、けれども接触の直前で敵の左に回り込む。

 一方、右側には月見里がいる。挟撃の形となるが、敵はまたバックステップ。

 するとアオは陣形を崩さぬようにさらに回り込み、壁や天井をも足場に使って距離を詰める。

 目で追うのがやっとの動きだ。

 それでも、しかし、敵に届かない。敵はアオの攻撃を最小限の動きで受け流しつつ、逆方向から飛んでくる月見里の水弾も漏らさず斬り落としている。さらに俺への注意も怠らない。戦況全体を常に把握しているとわかる。仮に俺たちのうち誰かが、戦うのをやめて出口に走ったとしたら、瞬時に冷静に、それを背中から攻めるのだろう。そういう態勢を崩さない。

 しかし逆に言えば、俺が出口に走らない限りは、敵は俺に向かってこない。見ている分には何もしてこないのだ。

 ならば、見る。しっかりと見る。敵を見る。

 俺は匕首を懐にしまい、代わりに拳銃に手をかけた。

 敵は頻繁に後退する傾向にある。積極的に攻めているわけではない。アオ相手に近づきすぎず、有利な距離を保ちたいと考えているからだろう。だからこそ一辺倒にあとずさるわけではなく、こまめに方向を変えて、壁に退路を阻まれないようにしている。

 基本的に、敵の視線の先はアオだ。当然だろう。もっとも近くにいて、もっとも攻撃を放ってくるのだから、そのアオを見ていなければならない。

 次点で月見里。遠距離からの水弾を警戒している。できるだけ射線に入らず、アオが月見里の邪魔になるように立ち回るためだ。

 そして俺。俺への注意は常時ではなく断続的。たまにチェックすればいいという程度。

 俺はゆっくりと動く。敵から目を離さず、姿勢を低くして、機を窺う。斬り合いから生まれる金属音。月見里の水弾が飛び交う光景。全てをつぶさにとらえ、戦いの中で、狙う。敵がアオの斬撃を避け、月見里の水弾を斬り落とし、後退する、その瞬間――。

 俺は発砲した。

 音に、敵の耳がぴくりと動く。そのまま後退していれば間違いなく銃弾が命中していたはずだ。しかし奴は、瞬時にそれを察知して動きを止めた。

「なっ!」

 そしてまたも急激な速度で薙刀を操り、横薙ぎにアオを攻める。

 アオは驚きながらも反射的に閉じた傘で身を守る――が、その衝撃で宙を舞った。しかも飛んだ先には月見里。二匹は重なり、そのまま同体となって壁に激突する。

 奴は薙刀を構え直しながら言った。

「んー、いい発砲だったね。でも、次はその銃と弾、両方にユエを込められるといいね」

 確かに俺は、手に握った拳銃にはユエを込めた。けれど、飛んでいく弾には、まだユエを込められない。そんなことまで見抜かれている。

「驚いたなぁ。てっきり二対一だと思っていたら、まさかの三対一だったよ」

「抜かせ。初めっから三対一だよ」

 言い捨てるようにして、俺はアオと月見里に駆け寄る。

「おい、大丈夫か!?」

「んのっ!」

 アオは起き上がってすぐ、こちらに一瞥もくれず、再び弾丸のごとく飛び出していく。

「あ、おいアオ!」

 まったく聞く耳など持っていない。かなり頭に血が上っているようだ。

「ったくあいつ……。月見里は、大丈夫か?」

 尋ねた先の彼女は、アオと対照的にひどくげっそりしていた。

「うっ……アオさんに、身体を思いきり踏まれました……」

 それは……気の毒に。どうやら、アオは月見里を足場にして飛んでいったらしい。

 その後もアオは敵へ向かって攻め続けているが、もはや勢いだけと言ってよかった。

 俺は月見里の身体を両手で起こしてやる。それから、一つ尋ねた。

「なぁ月見里。雷撃は、使わないのか?」

 実はこの部屋に来てからすぐにも気になっていた。思い返せば月見里は、月に来てからほとんど雷撃を使っていない。

 月見里の持つ指輪は水弾と雷撃の両方を使うことができる。俺が思うに、この指輪の強みは、その二つが使えることだ。弾の大きさを変えて飛ばすことのできる水弾。素早く視認性の低い雷撃。さらには二つを組み合わせて行う水蒸気爆発など、二種の攻撃で多様性を生み、敵の処理する情報量を増やすのが強みなのだ。水弾一辺倒では、基本的には銃器とさほど変わらない。

 月見里は苦々しい口調で答えた。

「この指輪、使っていて気づいたのですが……水弾は、消費したユエの分だけその径が増す。対して雷撃は、消費したユエの分だけ、到達距離が増すのです。これはつまり、距離に応じて威力が減衰するということ。今のこの姿では、離れた相手にはほとんど何もできません」

 ……なるほど、そういうことか。

 この日食の間、兎の姿では、十分にユエが使えない。だから遠くまで届かせるために多くのユエを使わなければならない雷撃は、遠距離攻撃の択にならないのだ。

「水蒸気爆発を使わないのは?」

「先方は、極めて大きな薙刀を扱います。水弾の爆発で攻撃しようにも、爆発が届く範囲に入る前に、水弾を切り落とされてしまうのです。事実、あの方はここまで一度も、すれすれで水弾をかわすということをしない。切り落とすか、完全に距離を取る。水蒸気爆発による攻撃方法を、知識として知っていると考えるのが妥当でしょう」

「もうネタは割れてるってわけか」

「はい。だから雷撃は使っていません。とはいえ、今の状態では水弾の方もそれほど大きくはできませんので、ご覧の通り、牽制や援護がせいぜいですね」

 月見里の判断はもっともに思えた。そういうことならば、雷撃を無闇に使っても意味がない。

「結論、私の水弾では、どうしても決定打とはなりえません。ここはやはり、アオさんから一撃入れる必要があるかと」

「そうなるな……」

 しかし、月見里の水弾と俺の銃弾で援護を重ねても、ここまで成果は芳しくない。しかもアオは若干ヤケ気味で、今のままやり合っていたら、先にバテるのは間違いなくアオの方だ。

 それでも放っておくわけにはいかないということだろうか、月見里はまた、敵と斬り合うアオの方へと前進する。

 最後に俺はもう一つだけ尋ねた。

「なぁ。逆に、至近で雷撃を放つとして、どのくらい使い物になるんだ?」

「……密着状態で多少強めなスタンガン程度、でしょうか。雷撃の方が消費するユエに対して威力は大きいので、当てることができればそれなりに有効とは思いますが……先方は、アオさんで追うのがやっとの体捌き。それを思うと、私にはとても……」

「……そうか」

 密着状態でスタンガンって……それはもはや、まるきりスタンガンそのものだ。

 月見里が援護に戻っても、敵は顔色一つ変えずに出口を守る。アオの攻め方にも慣れ始めているようで、もう何度か、天井や壁にアオを突き飛ばしている。

 俺はその光景を見て考えた。今のままではおそらく、ここを突破することができない。

 敵は徹底して待ちの姿勢だ。なぜなら、敵の目的は俺たちを攻撃することではなく、ここを通さないことなのだ。それはとても合理的な立ち回りと言える。

 一方、俺たちは一刻も早くここを抜けたい。ここで足止めされ続ければ、後ろから増援が来るかもしれない。そして何より当然だが、時間には限界がある。作戦のタイムリミット――日食の終わりまでまだ猶予があるものの、ここを越えられない限りいつかその時は訪れてしまう。

 消耗戦など論外だ。向こうから攻めてこない分、どうしたって敵の方が余力は残る。

 結論、答えは短期決戦しかない。

 ふいにまた、アオがこちらへ飛ばされてくる。ちょうど俺の立っている場所から、右に少し走れば受け止められるくらいのところへ。

 俺は迷わず飛んで出る。

「ぐおっ……と!」

 飛び込みざま、腹の真ん中に両手で抱えると、衝撃に備えていたのであろう彼女は驚いた。

「あ、あんた……なんでわざわざ」

「なんでって、壁よりは俺の方が痛くないだろ」

 すると彼女の驚き顔には、うっすらと朱色が加わって。

「は、はぁ? 別にどっちだって痛かないわよ! お節介な飼い主ね」

 すぐにそっぽを向いてまた飛び出していこうとするアオの脚を、俺は咄嗟に掴む。

「待て待て! ちょっと、冷静になれって!」

 勢いを奪われたアオがベシッと床に落ち「ちょっと何すんのよ馬鹿紫苑!」

 そうするうちに、月見里も傍にやってきた。

「なあ、このままやっててもジリ貧だろ?」

「じゃあどうするってのよ!」

「ここらで一発入れるんだよ」

「はぁ!? だからさっきからそのためにやってんでしょ! いいからもうちょっと待ってなさいよ! 引き気味で待ってる奴に一発入れんのは難しいんだから!」

 その通りだ。待ちに徹する敵には隙も少ないのが道理。

 ならば……攻めさせて、隙を作り出せばいい。

「カウンター、ですね」

 俺の意図をいち早く察したらしい月見里が、隣で言った。

 アオの方は「それができりゃやってるっつの!」みたいな顔をしたが、俺は構わず続ける。

「まあまあ、聞けって」

 できればやってる。もちろんアオだってそうだろう。でもできない。アオだけでは。

 俺はアオと月見里に小声で思惑を話した。アオは最初、ひねた顔で聞いていたが、しばらくして真剣な表情になった。俺はそれを、アオの同意として受け取る。

 彼女たちは最後まで黙って聞き終えると、やがて、同時に頷いてくれた。

 部屋の中央に立って薙刀を持て余している敵が問う。

「ここから引き返す相談かな?」

 対してはアオが、躊躇なく言い返した。

「まだそんなこと言ってんの? しつこいわよ」

 敵はわかりやすく肩をすくめる。

「んー、だってキミたちじゃあ、この上には行けないよ。届かない希望は追うだけ損でしょ?」

「それは一理あるかもしれない。でも、まだ答えは保留にしたの」

「ん? 意味わかんないんだけど?」

「そりゃあね。わかるように言ってないから」

 つっけんどんなアオの口調に、敵はさらに呆れて笑った。

「頑固だねえ。何……そんなに戦いたい?」

 これにもまたすぐに反論するのかと思ったが、しかしアオはそこで黙った。

 そして一呼吸。再び、傘と刀を握り直し。

「……戦いたいわけじゃない。でも今は、逃げたくないの。ずっと逃げてきたもんだから、逃げるのはもう、飽きちゃって」

 それは目の前の敵ではなく、きっと、自身に向けた答えだった。

 不敵に笑う。

「だいたいさ、ここに来た時点でもう今更でしょ。何を言われても、あたしたちは引き返さないわ。あたしたちはどうしたって、この先へ行く」

 するとアオは、高く飛び上がって俺の頭に乗った。

 続いて月見里も肩に乗るのを待ってから、俺は右手を顔の前で掲げる。

「そういうわけなんで、じゃ!」

 挨拶一つ、ダッと出口に向かって走る。ルートは最初と同じ、右回りだ。

「……呆れたよ。まだ僕を倒さずに通ろうと思っているなんて、さ!」

 語尾を荒げ、巨大な薙刀を構えた敵が目にも留まらぬ速さで近づいてくる。

 そうくるのはわかっている。前に出ない徹底した受けと回避のスタイルを貫く敵も、俺が出口に走れば、止めにかからないわけにはいかないのだ。

 薙刀が振り下ろされる直前、頭上のアオが飛び出していって傘を開いた。大輪の白傘が刃を受け止め、互いの視界を遮断する。

 俺は足で急ブレーキをかけて方向を変え、傘の陰から僅かにずれて拳銃を構える。

 同時に、アオのすぐ後ろにいる月見里も、水弾を飛ばした。

 もちろん、視界がないのだからある程度は当てずっぽう。敵の意識が削げればいい。

 そして敵も、いつまでも傘に刃を交えていてはユエを吸収されるので退く。

 瞬間、傘が天井へと飛び上がった。天井を足場に、急降下してアオが斬りかかる――のではない。飛び上がったのは傘を持った月見里だ。

 敵は上からの斬撃を予測して反射的に薙刀を高く構え、ゆえに、自らの懐に下方から飛び込んでくるアオへの反応が、一瞬だけ遅れる。

 アオは両手で刀を握り、力いっぱい、下から薙刀の柄を弾き上げた。

 宙に飛んでいく薙刀と入れ替わりで、傘を手放した月見里が天井から降下する。敵の背後に着地してその背に左手を添え――。

 バシィッっと激しい音を伴う雷撃を食らわせた。

「ぐぁっ!」

 これまでの悠長な喋り方とはかけ離れた、短い悲鳴。敵の白い体躯がビクッと伸びて。

 さらに月見里はもう一発、とどめとなる雷撃を、再度見舞った。

 数秒後、ふわりと舞い降りてきた白い傘が床に当たる。そのカッという澄んだ一音が、戦いの幕引きとなった。

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