陸、 月の世界 1

 目覚めたとき、そこは白の世界だった。果てのない皓々たる一面の荒野。俺たちは大きなクレーターのような盆地の中腹、そこに横たわる巨大な岩の陰にいる。感覚的には、一度目を閉じてまた開いただけでしかないが……。

「ここが、月の世界……?」

 周囲を見渡す俺に、隣のアオが淡々と付け加える。

「うん。でもま、地上から見てた月そのものじゃあ、ないけどね」

「そうなのか?」

「そ。あんたの知ってる月は現し身。こっちの月はその写し身。早い話が鏡像みたいなもんね」

「……ん?」

 言っている意味がよくわからない。俺が依然、首を傾げていると、月見山が砂時計を回収しつつ補足する。

「つまりは、別世界、ということです」

 なるほど、別世界か。まあ、今はとりあえずそれで納得しておくのが簡単だろう。

「生身でもちゃんと息ができるでしょ。そんでもって、会話も成立する」

 グッと伸びをするアオに続き、月見里も身体のあちこちを動かして点検している。

「それに、身体の感覚も地上とあまり変わりませんね。むしろ心地が良いくらいです」

「ここにはユエが多いからでしょうね。あんたはどう?」

 尋ねられた俺は軽くその場で屈伸、次に跳躍、大きく息を吸って吐いた。

「んー、ほとんど変わらない。月っていうより、単に殺風景な荒野に飛ばされたって言われた方がしっくりくるくらいだ」

 それでも、見上げた漆黒の空に一つだけ煌々と輝く熱球があることで、ここが地上ではないと認識できる。

「じゃあ問題ないわね。とりあえず、油断はしないで。既に敵地よ」

 俺はその言葉を受け、忘れていた白いパーカーのフードを被った。

 クレーターの縁を上りきると、目の前には途端に、大きな都市が広がっていた。背面に広がる荒野には建造物など何一つないのに、数歩先からは、まるで見えない境界線でも引かれているかのように景色が違う。整えられた地面に壁。見上げれば中空を埋め尽くすほどの高層建築。しかも全て、余すところなく白、白、白。光り輝き、目も眩む白一色。それはもう、建てたあとに全面を石灰で塗り固めたのかと、そんな冗談を思い浮かべそうなくらいの白の世界だった。

「すっげ……!」

 あまりの光景に口を開けて見惚れていると、くいっとアオに手を引かれる。

「ほら。行くわよ」

 どうやら目の前の大通りではなく、脇にある裏路地のようなところに向かうみたいだ。道中、俺は興奮とともに再び零す。

「おいおい、すごいところだな、ここ。地兎や俺みたいな黒髪は目立って仕方がないぞ」

「なんでちょっとニコニコしてんの? 気持ち悪」

 ……最近のアオはちょっと毒舌がすぎる気がする。

「まあ、白が正義の社会だからね。建物は白くなきゃいけない決まりがあるの」

「そんな決まりがあるのか。どこぞのギリシャの島みたいだな」

「ああ、なんか地上にも、似たようなところがあるんだってね」

「ですが、都市としてのレベルはドバイかシンガポール並みです」

 落ち着きなく周囲を見渡す俺とは対照的に、月見里は建物一つひとつを冷静に観察しているようだった。こんな機会でもなければ、是非観光でもしてみたいところである。

「そういえば、ここに来る前にあんなにいた地兎たちはどこへ行ったんだ?」

「転移元が同じ場所でも、転移先はある程度調整することができます。仲間たちには、都市の周囲に、均等に潜伏するよう指示しました」

「なるほど。どうせ俺たちは別行動だから、無闇につるんでバレるよりは安全か」

「あんたたちが帽子さえ取らなきゃ、いきなりバレるってことはよっぽどないわ。変に意識しないで、堂々と歩いて」

 アオの指示で、俺は屈めていた姿勢をすぐに正す。一方の月見里は、言われるまでもなく背筋を伸ばし凛としていた。さすが肝が座っていらっしゃる。

「あと会話は最小限ね。ここでは言葉の違いは目立つわ」

 お口にチャック!

 そうしてしばらく街中を進むと、次第に様子がわかってきた。確かに景観の基調は絶対的な白だが、広告看板や売り物、往来を行く天兎たちの衣服までもが一色統一ということはない。よほどのことがない限り、俺たちの外見を理由に何かが起こることはなさそうか。

 感じるのは、拭きれない異文化感と、それから、周囲にあふれる文字らしき■■■たちへのわずかなストレス。でもまあ、意識しないように努めることは可能だ。

 頃合いを見てアオが尋ねる。

「そろそろ慣れた? もう少し速度上げるわよ」

 俺たちは首で頷くだけに留め、あくまで自然に、移動を急いだ。

 目指すは街の中心。もっとも標高の高い丘の上に聳える、塔のような建造物――『月宮殿』。周囲に悟られずできるだけそこに近づくというのが、この作戦の第一段階だ。

 アオによれば、月宮殿は天兎の教えの総本山で、地理的な中心にあるというだけでなく、社会的にも天兎の世界の中心なのだそうだ。

 そしてそこには、燭台がある。アオのような灯詞の儀の遣いが、地上に降りて得る人間の言葉の炎――天兎にとっては神様である人間から与えられる祝詞があるのだ。

 黙々と街を進み、俺たちはようやく、月宮殿のすぐ傍まで漕ぎ着けた。路地の影から目を向ければ入口はもう目と鼻の先だが、ここからはどうしても、紛れ込むというわけにはいかない。

 警備がいるのだ。しかも往来を行く兎の数も極端に減っているので、近づけばまず見つかる。

「この辺りが限界かしら。時間は……とりあえず間に合ったみたいね」

 壁に身を寄せながら、空を見上げるアオが言った。

 俺は最小限の動きで手首の腕時計に目を向けた。普段の時刻確認はスマホだったので慣れない所作だが、スマホは先日、アオが床に投げつけて壊してしまった。

 現在は、日本時間で午後十時十二分。そしてもちろん、俺たちが時間を気にしているのには理由がある。作戦開始を事前に打ち合わせているというのはあるが、それだけではない。

 空では太陽が、黒い円に覆われている。まるで三日月のように輝く太陽。その細い糸のような姿が、今も着々と侵食され続けている。

 そう、今日は皆既月食なのだ。

 太陽、地球、月が一直線に並び、地球の影に月が入るということ。地上で言うところの月食は、月上で言えば日食となる。それは、月に太陽の光が当たらなくなる時間。月上が月の反射光で照らされなくなる時間。地上にとっての新月のような状況が、この月上で起こる時間。

 つまりは月の兎にとっての斎日。

 やがて空からの陽光が、はたと消えた。同時に、アオがわずかに身体をふらつかせてしゃがみ込む。背後の月見里も同様に、彼女たちはみるみる縮んで、地面に重なる衣服の中に沈む。

 白く輝いていた街が、薄く大きな影にすっかり包まれた。

「ここでは周囲のユエが豊富な分、月の光を浴びられないその瞬間にだけ、皆が一斉に兎の姿となるようですね」

 ヒョコっと可愛らしい黒耳と頭を出した月見里が、理解と実感の伴う声でそう呟いた。

 アオも同様に、折れた白耳と頭を出し。

「地上のときのように、個体差からくる兎化の時間のブレはない。それはつまり、戻るときもみんな同じってこと。あたしたちの作戦は、光が戻るまでに終わらせる必要があるわ」

 その通りだ。この月上での皆既日食、通常であれば約一時間四十五分のタイムリミット。

「服はもういらないわね。はいこれ、あんた持って」

 アオはいつも懐に忍ばせていた白い匕首を俺に渡した。同時にもう一方の手で、月影にくくり付けた紐を肩に掛けている。用意のいいことだ。

「では、私も」

 続いて月見里からは砂時計と、それから拳銃。いつ見てもこの黒光りは物騒この上ない。さらに彼女は彼女で、その小さな指? に指輪をはめ直している。

 兎となったアオと月見里はめいめい準備を整えると、揃って俺の両肩に飛び乗った。彼女たちの短い両手には、手鏡が一つずつ抱えられている。そっくりの動作でそいつを地面に振り落とし、破壊によって解放された光を皆で浴びる。

 それは初めての感覚だった。身体が内側から熱くなるような、溢れる泉から力が湧き出てくるような、そんな感覚。

 すっ、と一つ、深呼吸をする。

 それから俺は、自身に満ちたユエを足元に集め、思いきり地面を蹴った。これまでの跳躍とはまったく異なり、経験がないくらい高くまで一気に跳ね上がる。

 すぐ傍の塀の上、続いて隣の二階建ての屋根。さらに付近の三階建ての屋根。風に乗るように、まるで俺までもが兎になったかのようにピョンピョンと、建物の上を走り繋ぐ。

 高台を上る階段を経由して、最後に着地したのは月宮殿の二階テラスだ。

 ひやりとした空気が肌を撫でた。次の瞬間、開けた背後からいくつもの鯨波がこだまする。

 振り向くと、眼下には白い街。遠くその外周から黒の大群――地兎の同胞が押し寄せている。ここから見れば一匹一匹は小さな点に過ぎないが、それらが集まって発する気迫は絶大。全方位から問答無用、街の中心であるこの場所へ向かって雪崩れ込む大きなうねりだ。

 街の各所には慌てて対応しようとする天兎の姿が見受けられるが、勢いづいた地兎の群に右往左往するばかり。何しろ天兎の側にとってこれは奇襲で、その上、本来であれば大人しくやり過ごしたい斎日のはずだ。拮抗を取るまでには、よほど苦労するだろう。

 俺が俯瞰するわずかな間にも、両陣営による黒と白の境界線はずるずる街の内部へと至る。

 前線から遠い、ここ月宮殿においても、にわかに動揺が伝播していた。テラスに漏れ聞こえてくる物音だけでその様相がわかる。大群とは別に、俺たちのような別働隊が既に侵入していることに、気づく余裕はなさそうだ。

 俺は静かに拳銃を取り出し、撃鉄を起こす。握った凶器の重さに、思わず口から零れ出た。

「今更だけど……兎の姿でもみんな、戦うこと自体はできるんだよな」

 答えは左の肩の月見里から返る。

「はい。この姿でもある程度は銃や刀剣、宝具を扱うことができます。それから多少のユエも」

「だよな。じゃあ、早めに終わらせよう」

「そうですね。両陣営とも、怪我をする者は極力少ない方がいいですから」

 すると右肩で、アオが意外そうに言った。

「あら、初めは正面からの戦争なんて考えてたくせに、随分と甘いこと言うじゃない?」

 対して月見里は、特に戸惑うこともなく答える。

「それは他に方法がなかったゆえの、いわば苦渋の決断です。けれど今は、宮東さんの提案と協力で、それ以外の道が見えました。話が穏便に進むのであれば、それに越したことはないと、私はずっと思っていますよ」

 途端、尋ねた側のアオがなぜか無言になった。じっとその瞳で月見里を見ている。

「ここにきて、見栄や嘘など申しません。私たちの目的は初めから、月の世界を壊すことでも、天兎たちを消すことでもない。事が済んだあと、この地で生きること。地兎と天兎がともに生きること。それこそが悲願なのです」

 月見里は凛々しく、そして信念のこもった笑顔でアオを見た。

「子、親、兄弟、恋した相手、信じた仲間……大切な存在と別れるのは、もうたくさん。ですから、私たちは可能な限り殺しません。殺されないために、殺さない。これも重要な戦略です」

 それは嘘偽りない、月見里の本心なのだろう。彼女は初めから、己が使命と、その行く末だけをずっと、ただひたすらに考えてきた。今日のこの作戦が、兎たちにとってもっとも有益と考えているからこそ、彼女は今こうして、ここにいるのだ。

「ふぅん、なるほどね」アオは少しだけ視線を落としたが、やがてすっきりとした表情で言った。「ま。その方が、後々平和になるのも早いかもね」

「はい。この革命が無血革命であるならば、それほど嬉しいことはありません」

 両肩に乗る二匹の兎の気配が、同じ色に染まったのがわかった。

 俺は無言で笑って銃を構え、引き金に手をかける。


 発砲された弾は、透明な窓を貫き、亀裂を生んだ。俺は握った銃をそこに叩きつけて割り、中へと突入。いくらか上階までが吹き抜けとなっている空間に躍り出た。

 即座に内部構造を確認。上も下も右も左も全て白。円形の内壁に沿うようにして、螺旋回廊が上へと伸びている。ここはちょうどその踊り場だ。

 階下には天兎がわらわらとひしめいていた。どうやら街への出撃準備に追われているようだ。

 しかし今この瞬間、揃って俺たちに視線が注がれる。そしてすぐに、下から延びる回廊を伝って天兎の群が迫り上がってきた。

 こちらも上へ向かわなければ。

 俺はすぐに回廊を駆け上がり始めたが、予想通り、上階からも天兎がぞろぞろ下りてくる。

 止まって迎え撃つか、避けてすれ違うか迷ったとき、左肩からピンポン球くらいの水弾が一つ発射された。水弾は回廊に当たって爆ぜ、そこを走ってきていた天兎が数匹、衝撃でぽーんと吹っ飛んでいく。

「止まらないで、進んでください」

 月見里が言い、俺はその指示に反射的に従って地を蹴り続けた。

「おい、あれって大丈夫なのか!?」

「平気ですよ。威力は抑えましたし、自重が軽いので、多少下に落ちても平気でしょう」

 それを聞いて見やると、階下の回廊や途中の踊り場に着地する兎たちの姿が散見された。

 けれどそうやって飛ばされたうちの一匹が、上手く勢いに乗って目の前に向かってきている。

 すかさずアオが、俺の右肩から頭の上に移動し、閉じた傘でそいつを叩き伏せた。

「ちょっと、あんたはこっち側の心配してよ! 避けられそうなのは自分で避けて!」

「お、おお、悪い!」

 ごもっともだ。俺たちにだって、敵の心配をできるほどの余裕はない。

 俺はできるだけ速度を落とさず、天兎たちを踏んで転ばないよう気をつけながら走った。

 銃はひとまず懐にしまう。俺が走りながら撃とうとしても、まともに狙いはつけられない。だったら、群がる兎たちの中で俺だけが人の姿であるという体躯の利を活かし、力押しで突き抜ける。槍や棒のような長物を持っている奴は優先的にかき分けて回廊から払い落とす。銃や弓のような飛び道具の処理はアオを信じて任せる。進路の確保と追手の阻止は月見里の担当だ。

 相手が皆、白い毛玉なので危機感は薄いが、如何せん相対する数が多い。兎は兎でも単なる小動物ではないわけだし、武具や宝具で攻められれば当然、痛手を負う。勢いを失って足が止まればただでは済まない。今の俺の役目は、何はともあれ進むことだ。

「しゃおらー! 止まんな紫苑ー!」

 頭の上でアオが傘を振り回して叫ぶ。いつのまにかパーカーのフードは脱げていた。

「おいアオお前、髪の毛掴むな! 痛いだろうが!」

「あの……とりあえず、あまり揺れないでもらえますか」

 月見里もしれっと無茶を言う。そんな彼女は俺の首の後ろで踊るフードに収まっている。

 駆けるうち、やがて正面からの敵影は減っていった。できるだけ無視し、受け流してきているので、後ろは増える一方だが、さすがに無限に増援が来るというわけでもないようだ。

 前が消えれば走りやすくなる。俺はこの先ガス欠にならないように注意しながら、両足に最低限のユエを回した。ユエを使えばパフォーマンスは増す。でも疲労も増える。慎重な駆け引きを、自身の中で相談する。

 そんなことをしていて、俺はふと思い当たった。

「月見里、さっきから結構ユエ使ってるように見えるけど、問題ないのか?」

 見た感じ、アオの方はちゃんとセーブしていたようだし、傘で殴って多少の補給もできたのかもしれない。けれども、月見里が今も絶えず牽制に撃っている水弾は、突入時から数えてもう、かなりの数になるはずだ。こうして尋ねている間にも、左方階下で銃を構えている天兎に一発放っている。

「わかりません。ですが、これ以上手を緩めれば追いつかれます。突然気を失うかもしれませんので、そうなったら、あとをよろしくお願いします」

「倒れたら捨てるわ! 死ぬ気で気張りなさい!」

 背後から俺たちに至ろうとしている長槍を薙ぎ払いながら、アオは強気に発破をかけた。

 実際、捨てるまでもなく、月見里が倒れたら溢れ来る追手への対応が間に合わなくなって作戦終了だ。たぶん俺たちは背中から制圧される。

 それでもどうにか追いかけてくる毛玉から逃れ、全員倒れずに回廊の終点まで辿り着いた。そこは、今見ている天井のさらに上へと入り込んでいく、いわば上階への入口だ。

 ここまで上ったのはおそらく十五階層分くらいだろう。外観から考えても、最上階までは残り数フロア。この吹き抜けを上りきったのは大きい。

 俺たちが回廊を渡り終えたところで、月見里は下に向けて水弾を発射する。そこに雷撃を加えて爆発を起こし、回廊の終端を破壊して追手を彼岸に分断。勢い余って飛びかかってくる天兎もいたが、そうした数匹はアオが処理した。

 俺たちは息つく暇もなく上を目指す。

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