肆、 地兎 3

 幸いにも戦いは激化することなく、アオと月見里が倒れたのを境に完全に止まった。標的であるアオが倒れたのだからそれも当然だ。あれから白兎となったアオは文字通り力尽きたように眠り、同時に黒兎となった月見里も、兎化の影響からか眠りについた。

 残されたのは、月見里の謎の発言だけ。その真相を確かめるため、アオと俺は一時、地兎たちの保護下におかれた。アオはこのマンションの十五階、俺はその一つ下、十四階の空いた一室で、それぞれ休息を取ることになった。

 地兎の監視のせいで部屋から出られなかった土曜は飛んで、日曜、深夜。眠るベッドで掛け布団を剥がれて飛び起きると、俺の前にはふわりとしたブラウス姿の女性が立っていた。

「おはようございます」

 時計が示すのは午前一時。なんて時間に起こすんだ、と突っ込む前に先を続けられる。

「改めまして、杏朱と申します。以後、お見知りおきをお願い致しますね」

 月見里と似たソプラノの、さらに柔らかく甘やかな声で、深く頭を下げられる。地兎の毛並みと同じ真っ黒の黒髪が、ややウェーブの入ったローポニーテールで結われていて、服装と同じく清潔感を感じさせる。外見からして、人間であれば二十代中頃といったところだろうか。

「杏朱って……屋上でずっと月見里の傍にいた……?」

 そして俺に躊躇なくスタンガンを食らわせやがった、あの。

「はい。人の姿では、夜久(やく)杏朱(あんじゅ)と名乗っております。お気軽に、杏朱、とお呼びくださいませ」

 あまりに堂々と敵意なく話しかけてくるものだから、逆に俺の方が戸惑ってしまう。ついでに、こんな時間に平然と俺の寝込みの横に立っていることにも。

「今しがた、お連れ様が目を覚まされましたので、ご報告です。準備が整いましたら、一つ上階にございます紅音様の部屋まで、お越し頂きたく存じます」

 杏朱は笑顔で俺にそう告げると、落ち着いた足取りで去っていった。

 残された俺は、ひとまずベッドライトの明かりを頼りに立ち上がる。午前一時の室内にそれ以外の光源はなく、地上十四階の窓には分厚い梅雨雲だけが見えた。漠然とした雨音が耳をつくばかりで、無音の中にいるよりもいっそうの静けさを感じてしまう。

 遅々として準備を終え、どうにか二十分ほどで部屋をあとにする。中廊下と階段はまるでホテルのような絨毯張りで、俺はその豪華さにいちいち驚きながら十五階へと向かった。

 階段を上った先に、姿勢良く立つ杏朱が待っている。ちょうど近くの部屋から現れたアオはそれを見るなり顔をしかめたが、対して杏朱は、柔らかく微笑むばかりだった。

 杏朱の先導で月見里の部屋へと進む。扉をくぐり、黒とブラウンを基調としたシックな造りを窺いながらリビングに出る。仄暗く黄色い照明の中、真っ先に目に入ったL字のロングソファに、月見里が背を伸ばして腰掛けていた。

 開放的なリビングの一角には小さなテーブル、さらに脇にはダイニングテーブルがあり、洒落たキッチンにカウンターまでもが設えられている。また別の隅には、手すりのついた階段。どうやら中二階があるらしい。こういうのをメゾネットタイプというのだったか。東と南に面した内壁は大部分が窓になっているらしいが、一面に黒いカーテンが掛けられていた。なんとなく、そのカーテンは長らく開かれていないように思えた。

 そして何より気になったのは、この部屋から生活感が決定的に欠けていることだった。まるで貸出前のモデルルームのようでもあった。

 俺は少し尻込みしつつも、促されてソファに座る。俺とアオがL字の、月見里とは違う方の辺に腰掛け、杏朱は入口付近で待機姿勢となった。談笑どころか普通に会話すらも始まるか怪しい空気だったが、意外にもすんなりと最初に口を開いたのは月見里だった。

「お二人とも、体調に問題はありませんか」

「あ、ああ……まあ」

 曖昧に答える俺に続いてアオが、不機嫌な表情そのままに言った。

「そういうのはいいわよ。あたしは核心部分だけ聞いてとっとと帰りたいんだから。茶番に付き合わせないでくれる?」

 いつもにも増して遠慮なく毒を吐くアオ。

「で、どういうこと? あたしはあんたの母親じゃあないけど?」

 直球で訊くなあと思ったが、まあ確かに、アオは前置きとかそういうまだるっこしいのは嫌いなタチだ。

「わかりました。では、直接本題から」

 対する月見里は、アオの態度をまったく気にしたふうもなく進める。

「あのとき、私がアオさんにあのようなことを言ってしまったのは……アオさんがあまりにも、私のお母様に似ていらっしゃったからです」

「……アオが、月見里の母さんに?」

「はい。正直なところ、違うと分かった今でも、まだ驚きを隠せないほどに瓜二つ。まるで本人を目の前にしているかのようです。宮東さんからすれば奇怪な話と思われるでしょうが……私のお母様はこの国でいうところの、その……かぐや姫、ということになっていまして」

 あれ、なんかどっかで聞いたような話が……咄嗟にそう感じずにはいられなかったが、しかし、この手の話を冗談と疑わないくらいには、俺はもう十分、彼女たち兎という存在に慣れてしまっていた。

 そして月見里の語る話が極めて衝撃的であることを、俺は遅れて理解する。

「私のお母様は、天兎なのです。そして、お父様が地兎。大昔のこの国で二人は出会い、私が生まれました」

 横目で窺った隣のアオは、既に心底驚いた表情をしていた。それも当然だ。これは、アオの出生にも関わる話。アオの母親はかぐや姫で、月見里の母親も同一人物。さらにその父親が地兎ということは……。

 聞かされる内容に気圧されながらもアオが尋ねる。

「……カグヤは、あたしの母さんよ。じゃあ何……あんたがあたしの、姉さんってこと?」

「はい。昨日から私も考えておりましたが、そう理解するのが適切かと」

「あたしの父さんが地兎……じゃああたしは、混血なの?」

「ええ。実のところ私も、天兎と地兎の混血です」

 そう。二人は天兎と地兎でありながら姉妹で、そしてハーフなのだ。

 月見里はあくまで落ち着いた眼差しで見つめ、アオが事実を受け入れるまで待っているようだった。俺でさえ、驚いていないとはとても言えない。ならば事の張本人であるアオの驚愕は計り知れないだろう。

「い、一応訊くけど……」あまりに長い沈黙に、俺はたまらず口を開く。「今の話だと月見里は、確かにハーフなんだろうけどさ。でも、アオもそうとは限らないよな? 例えば、ほら、異父姉妹っていうことは?」

 苦し紛れの可能性に、答えたのは月見里ではなく、隣のアオだった。

「……どうでしょうね。絶対とは言えないけど、でもたぶん、その線はないわ。母さんが月で父さんと姉さんのことをあんまり話さなかったのも、地兎であることを思えば当然だし、それに……あたしのユエの少なさは、父親譲りだったってことでしょ」

 その声色には、複雑で様々な感情が込められているように思えたが、それでも一番はっきりと窺えたのは、納得だった。

「……やっぱりっていうかなんていうか、つまりはあたしも、本当に劣等種ってわけね」

 ポツリと息だけで、囁くように零れた呟き。

 けれども、それに対してはいやに強く、月見里が述べた。

「劣等種ではありませんよ」

 反論か叱咤か励ましか、月見里の表情からはいまいち判断が難しい。

 アオは月見里から視線を外し、あえて話を逸らすように先を続けた。

「まあ、別にいいわよ。そんなことはさ」

 そんなこと、と言ったのはきっと強がりだ。

「ねぇ、あんた、紅音だっけ。母さんはこの地であんたを生んでから、月に渡ったはずよね?」

「はい」

「じゃあ……そのときにはもう、母さんのお腹ん中にあたしがいたのね。そのあと月で生まれたあたしが、せめて外見だけでも母さんの白さを継いだのは、幸いだったってことかしら。それであたしも黒かったら、いったいどうするつもりだったんだか」

 ことさらどうでもよさそうに吐き捨てるのが、かえってアオらしいと思った。

 もしアオが、月で唯一、黒かったら。

 それでもきっとアオの母親は、その身の限りアオを守り、育てたのだろう。そしておそらく、アオも同じ想像をした。だからこそ彼女は、彼女の母親に向かってあえて投げやりに毒づいている。呆れたような表情の中、わずかだけの悲しげな笑みで。

 その様子を見ながら月見里が言う。

「あなたは月で、白く生まれた。だからお母様と一緒に生きられた」

「そうね」

「ですが私は……黒く、地兎として生まれました。お母様が月へ行くとき……あのとき、幼い私はついて行きたいと縋りましたが、許してはもらえませんでした。月は、私には危ないところだからと」

 月は白い天兎の世界。黒い地兎はそこには住めない。だから地上で、人間に紛れて生きていく。そういう決まりなのだと、月見里は母親に諭されたという。

「ただ、お母様もお父様も、それが本当に正しいとは、思っていなかったようです。だから、そういう世界を変えたいのだと言っていました。家族皆で一緒に生きられる世界を作る。そのためにお母様は月で、お父様は地上で、できる限りのことをすると」

 家族皆で……それはなんと小さく当たり前な、けれど大それた願いなのだろう。

「アオさん、どうぞ教えてください。お母様は今、月で……どうされていますか?」

 月見里は、それまで淡々と語っていた表情をほんの少しだけ歪ませ、そして尋ねた。

 アオは釈然としない様子で「はぁ」と零し、丁寧に作ったような冷めた表情で告げる。

「母さんは、もう死んだ」

 直後、月見里の表情が固まった。もしかしたら崩れるかもしれないその先を見るのを、俺は恐れた。無意識に目を背けようとするよりも一瞬早く、手が上に引かれる。

「悪いわね。でも事実よ」アオがぶっきらぼうに立ち上がっていた。「聞きたいことはそれだけ? じゃあ、あたしは帰るわ」

 こちらを無言で見つめる杏朱の脇を、アオは俺を連れて躊躇わず通り抜けた。扉を抜けて中廊下へと出る。月見里と杏朱が追ってくる様子はない。

「お、おい……アオ」

 そうしてエレベーターホールまで辿り着くと、常に扉が開いている一階と直通のものにアオ

は迷わず乗り込んだ。センサーで扉が閉じ、豪奢な建物に相応しい広い箱が無音で下っていく。

 その間、俺の右手を彼女の左手が強く強く握っていて、その感覚に、無性に意識を奪われた。

 一階で扉が開き、やはりアオは無言で進んでいって

「なあ、待ってくれアオ! そんなに急いでどうしたんだ」

 エントランスへ繋がる角を曲がったところで、突然、彼女が正面から飛びついてきた。

「おわっ!」

 俺はバランスを崩し、その場で後手に尻餅をつく。

 そして数秒、のち。胸の中から、小さく聞こえた。「よかった」と。細くくぐもった、わずかに湿った声だった。

「……よかった。あんたが無事でよかった。また私のせいで誰か死んだわけじゃなくて……紫苑が生きてて、本当によかった……!」

 他に何の気配もない石張りのこの空間で、アオの声はとてもよく響いた。思わず抱きとめた腕の中の彼女は、瞳を涙滴で光らせている。それは、昨夜アオがここに来てからずっと、今の今まで押し殺していた気持ちの表れだったのかもしれない。

 ベールのようにはらりとかかる銀の髪を、俺は丁寧によけ、彼女の目元を親指で拭う。

「アオ……」

 背中に回されている彼女の腕には、きつく、痛いくらいの力が込められていた。

「本当……悪かった。危ないことさせて。でも、来てくれて、ありがとう」

「そりゃ来るわよ。あんなの聞いたら、来るに決まってるじゃないっ!」

 叫ぶように答えた彼女は、腕によりいっそうの力を込める。

 再び「悪かった」と言おうとした俺の口は、しかし、一瞬噤んだあとにやがて

「……ありがとう」と零していた。

 アオは俺の胸に顔をこすりつけるようにしながら、一度大きく息を吸って訊く。

「けどあんたは……あの紅音ってのが、好きなんでしょう?」

 ……それは……そうだけど……でも。

 俺は迷いながら、アオの頭に片手をそっと置く。

「たとえそうだとしても、それでも……お前のことが心配じゃないわけ、ないんだ」

 今になって、改めて思う。一つ話が間違えば、アオは無事では済まなかったかもしれない。そう考えると体温がすーっと下がって、けれどアオに触れている部分だけが、燃えるようにただ熱かった。

 しばらく淡い照明に照らされながら、俺たちはそのままでいた。

 俺はアオを下から抱きとめているので動くことができない。

 変わらず回されている腕は、彼女の心音と体温をはっきり俺に伝えたが、やがて落ち着いたのか、そこから緊張とともに力も抜ける。

 そうしてアオが、まるで拗ねたような、いじけたような声で言った。

「……あんたの気持ち、さ。そんなに言いたいなら、言えばいいと思うわ。どうせ振られるんだから」

「おまっ……」

 なんて身も蓋もないことを。

「だって、あんたももうわかったでしょ。あのこはやっぱり地兎だった。普通に考えたら、兎と人は相容れないわ。だから前にも言ったのよ。『合わない』って」

 ああ、そういえばいつだったか、そんなことを言われた気がした。学校の屋上で、アオが初めて月見里を見たときだ。「合わない」と確かに言われたが、あれはそういう意味だったのか。

「あのときは、あのこが本当に地兎かどうかまだ確証がなかったから、あれくらいしか言わなかったけど……」

 でも、俺は今日ここで、決定的に知ってしまった。

 月見里は地兎だった。知ってしまえば、もう知る前には戻れない。

 そうか。もしかしたらこれは、言う言わない以前の問題なのではないだろうか。初めから、俺と彼女は別の世界の……俺は人間で彼女は兎。

 ……いや、違う。違わないけど、でも違う。俺の中の何かが違うと叫んでいる。

 俺が月見里のことを今日まで好きで、彼女にこの想いを伝えると決めたこと。そのことと、彼女が兎であったことは、まったく関係がないはずだ。たとえ相手が兎だとしても、俺は――。

 ぼんやりと思考を巡らせているうち、いつの間にか目の前には、俺を見上げる瞳があった。

「それでもあんたは、やっぱり……あのこが、いいんだ……」

 アオの顔が間近にある。彼女の蒼い瞳の奥が、俺を映して揺れている。

「でも、だったらさ……兎も人も関係ないなら、あたしにだって……」

 そう囁く、彼女の言葉。その言葉に、その声に……俺はまるで意識を吸い込まれそうな気持ちになった。頭の中から、少しずつ少しずつ、色々なものが抜け落ちていって、やがて。

 今ここにいる、目の前の彼女を、ただただ見つめことしかできなくなった、そのとき――。

 視界の隅のエントランスから、突如、数匹の地兎が現れた。血相を変え駆け込んできて、ある者はエレベーターに、ある者は階段に、飛びつくようにして上階へと消える。続いて人の姿――しかし頭から飛び出た長い黒耳を隠す余裕もない――をした連中が続く。皆々、アオと俺のことなど見向きもせずに。

「紅音様に伝達」「杏朱様にも」「戦える者を集めろ」「武器を」

 押し寄せる地兎たちの波の中、慌てふためく声の断片が聞こえてくる。外ではまた、ダンダンと警戒の足音が響き始めていた。

 一体全体、何事だ。混乱し始める俺がそう思ったのとほぼ同時、外で大きな声が響いた。

「こォんばんわァ。お客さんですよォ」

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