第84話 茶々

 この日、茶々は女房衆に起こされ、いつも通り朝餉あさげを取っていた。

 ここ名護屋での生活にもすっかり慣れた。茶々は太閤秀吉の側室だ。世継ぎである鶴松の生母として、正室ねねとともに大阪城の奥向き取り仕切っていた。その鶴松が早世し消沈していた所、秀吉の名護屋滞陣に随行するよう命じられた。

 九州の何もない土地に築いた城、と秀吉から聞いた時は、幼少期を過ごした近江小谷 (現・滋賀県)の山城を想像した。

 しかし、訪れてみればそこには都が作られていた。巨大な天守を持つ本城を中心に、諸大名の陣屋が並び立ち、城下には堺や博多の商人たちが店を開いている。半年前まで原野だったとは思えない壮麗な城だった。


「淀様、増田様が面会を求めております」


 食事が終わり、女房の一人が膳を片付けようとしている時だった。


「増田殿が?」

「いかがいたしましょう? 時刻を改めていただきますか?」


 茶々はまだ身支度を整える前だった。


「いえ、この時刻にやってきたということは、何か急な用向きでしょう。控えの間にお通しなさい」


 増田長盛。秀吉が寵愛する、奉行衆首脳の一人。もちろん顔は知っている。が、茶々と特別関わりのある人物ではなかった。

 今の茶々にはお役目がない。ねねがそう取り計らってくれた。一人息子を喪って間もない彼女を気遣っての事だろう。

 歌を詠み、月を眺め、能を観る。豊かではあるが、どこか張りのない日々を過ごしていた。そんな自分に、実務に忙殺されているはずの増田が何の用なのか?


「今日一日、お屋敷よりお出にならないようお願いいたします」


 身なりを整え、増田を呼ぶ。彼は部屋に入ると、うやうやしく頭を下げ、茶々にそう頼んだ。


「屋敷を出るな、とは? 本日は殿下とともに能を観る予定でしたが……?」

「朝より城外との連絡がつきませぬ。何者かからの攻撃を受けております」

「攻撃? ……どういうことです? 見ての通り、平穏そのものではありませんか?」


 茶々は部屋の外に目を向けながら言った。抜けるような青空に雲が浮かび、庭木にとまった鳥がさえずっている。火矢も飛んでこなければ、軍勢の掛け声や鉄砲の音も聞こえない。というより、日の本最大規模の軍勢を駐留するこの巨城を、一体誰が攻撃をするというのか?


「そう。平穏な事がおかしいのです。太閤殿下は諸将に、大規模な調練を本日行うよう命令しておりました。にも関わらず鬨の声一つ、聞こえてこない」

「それは……予定の変更などではないのですか?」

「いえ、私の知らぬ所で予定が変わる事は、ございません」


 即答。実務を取り仕切る奉行衆の幹部だ。それは確かにそうかもしれない。


「それと城外より登城する者が、この刻限なっても誰一人出仕せず、逆に城内の者は門より外に出ることができないのです」

「出ることが……できない?」

「門の外に向かって歩き続けるといずれ、戻ってきてしまいます。本人は真っ直ぐ歩いているつもりにも関わらず」


 増田の説明することを頭で思い描く。が、何を言ってるのか理解が出来ない。そんな事があるのか?


「今、その方面に明るき土御門久脩殿に調べていただいております。また、石田治部少輔との連絡も試みております。本日中に問題は解決させるゆえ、何卒本日はご予定はお取り止めくだされ」


 増田は頭をさらに低くし、茶々に頼んだ。


「……殿下は、いかがしております?」

「それが、わかりませぬ」

「は?」

「昨日より誰にも会わぬと仰せられ、お部屋に篭っておられます。近侍の小姓たちすら中へ入れてないようでして……」



      *     *     *



 狐につままれたような話だった。増田の説明はどうにも要領を得ない。門から出ても知らぬうちに戻ってくる。体験してみなければ、どう言う事かもわからない。実際に城門まで出向いて試してみようかとも思ったが、増田にあそこまで請われたら、この部屋にいるしかない。


「この城が攻撃されているですって?」


 その言葉には敏感にならざるを得ない茶々だった。彼女はこれまでに二度、居城を攻め落とされた経験がある。落城の悲惨や屈辱を二度、身をもって味わっている。

 それらの時のような混乱や怒号、悲鳴はなく、ひたすら静かな「攻撃」。

 本当に攻められているのかすらわからない。けど、増田がそう言った以上、事実なのだろう。さっきの説明はほとんど理解はできなかったが、秀吉の側近が、無能者や虚言を好む男であるはずがない。


 いつの間にか、陽はだいぶ高くなっていた。が、それにしては静かすぎる。いつもなら、港の方から喧騒が風に乗って流れてくる時刻。だけど、今日はそれがない。

 城内もしん……と静まり返っている。外から登城してくる者がいないのは、事実らしい。


「何かが起きている……?」


 その正体はわからねど、それだけは確かだった。

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