第50話 日高川の清姫

「さあいでよ。わが愛しの者よ!」


 秀久が鐘をつく。ゴォン……と鈍く大きな音が鳴り響いた。なんの変哲もないただの鐘の音……と、一瞬思ったがすぐに左近は知覚した。


「な、なんじゃ……この感じ……?」


 鳥肌が立ち、すぐ近くに何かがいる気配が漂う。暗く冷たい霊気の塊が船を包み込んだようだ。


 ……こ……どこ……?


 女の声。左近は後ろを振り向く。すると


「どこなの……あなた様……私のすべて……?」

「うおっ!?」


 いつ現れたのか、大蛇が甲板を這っていた。舳先から船尾に至るほど、長い身体。紫がかった青い体色のそれは、ぐねぐねと動きながら床の上を動く。水夫たちも、突如自分たちの持ち場を侵食されて、顔面蒼白となって固まっている。


「どこなのォ……?」


 細長い身体の先端部に、鎌首を持ち上げた頭部があった。左右に首を揺らし何かを探している。


「おう、清姫! ここだここだ! 」


 秀久がその頭に向かって声をかけた。


「ああ、ゴンサマ!!」


 蛇の頭が、ぐわりと大きく開き、顎から裂けるように上下に割れる。そしてその中から何かが飛び出した。まるで脱皮だ。


「権サマ! 愛しの権サマ! お久しゅうございます!!」


 何かは、妖艶な女の形をしていた。長く黒い髪に青白い肌、豊満な肉体。その者は、涙を流しながら秀久に絡みつく。


「酷いですわ権サマ! 小田原でお会いしたきり、呼んでくださらないのですもの!」

「悪かった悪かった。可愛い奴め」


 秀久は女の頭を撫でる。


「で、どこですの? 権サマの敵は?」


 キョロキョロと女はあたりを見回し、左近と視線が重なった。


「……へ?」

「アナタなのねぇっ!?」

「おわぁっ!?」


 秀久に密着していた女が、突如左近に飛びかかってきた。反射的に左近は太刀でそれを受け止める。長く伸びた爪と牙が、刀身にぶつかる。口から炎を吹きこぼしながら、蛇のような目で左近をにらみつける。


「ぎええ!? 権兵衛殿! なんじゃこいつは!?」

「清姫! 違うぞ! 左近殿は味方じゃ!!」


 秀久が慌てて止めに入った。


「本当ですの? コイツからはろくでもない霊気が漂っていますわ! 権サマをたぶらかす夜叉なのではなくて?」


 太刀に絡みついた爪をほどく秀久に、女が問いただす。 


「ちがうちがう。左近殿はオレに何ぞ興味ない。ほら、そっちの……石田治部殿の良き人じゃ!」

「ふざけたことを言うでない!!」


 左近と三成の声が重なった。一言一句違わない見事な同調だった。あまりにも見事すぎて、主従は同時に苦虫を噛み潰したような顔になる。


「じゃあ! じゃあ! 敵はどこですの? どいつを殺せばいいんですの? お任せください、私、権サマの敵はひとり残らず八つ裂きにして差し上げますわ!」


 女は早口でまくしたてる。


「ああ、敵は……」


 ドオンッ!!


 後方から爆音。直後に、右舷側の海面に水柱がたった。


「ちっ、お前らが乳繰り合ってる間に、攻撃が始まってしまったぞ!」

「おお、悪いな石田殿……ちゅうことで清姫、アレが……」

「キエエエエエエ!!!!」


 女は奇声を発しながら海に飛び込んだ。再び大蛇の姿に化け、海の上を蛇行しながらも唖然と突き進んでいった。


「何なのだあやつは……わらわの事をろくでもない奴呼ばわりしおって……」

「日高川の清姫。仙石殿の切り札だ」

「見ての通り怖い女だが、強いぞアイツ」


 三成と左近そして秀久は、舷側に立って大蛇を見送った。


「この鐘は紀州攻めの時に見つけた年代物でな。あの蛇神が宿っておったのだ」

「それはまた……剣呑なものを見つけちまったのう……」

「なんでも大昔、悪い男に騙されたらしくてな。話を聞いてるうちに懐かれてしまった。まったく色男は辛いわい」


 秀久は豪快に笑う。波の向こうでは大蛇が海賊船に絡みつき、甲板に炎を吹き付けていた。 

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