普通にしかなれない少女の話
――どうやったって、私は「普通」にしかなれない。
考え事をしたい時には、いつもここに訪れる。
何も持たず、着の身着のまま歩く。茜に燃える夕日が私に影を差した。
そのまま燃えてしまえと、空を見る。パステルカラーの街並みが、私の記憶と不揃いだ。
いつのまに、こんなに時間が過ぎてしまったのだろう。
あの時を、後悔しなかった日はない。
たった一人の大切な親友にとても癒えない傷を作ってしまった。
あの時から、何年か経つ。その時見ていた世界と、今の私が目にするこの世界とでは、せいぜい見え方が変わったくらいで、何も変わっちゃいない。無論、私にとっては。
その変わる前の世界の記憶だけが鮮明で、変わった後の今はぼやけてしまっているのだった。
もしやり直せるなら、私はすぐにでもやり直したいと思う。
やり直したとて――。
「……
呟く名前は、思い出せる記憶と混ざって甘く口の中で溶けていく。その味はとても甘くて、私にはとても苦い出来事の証明人だ。
サイドを白いリボンで纏めた、伸ばし続けて腰まで届く黒髪が夏のはじめのじっとりとした風にあおられる。無地の白シャツに黒のパンツだったからはためいたのはそれだけだ。
左手で踊る髪を軽く抑えると、変えたばかりのシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「……」
あの時を境に、どこかに行ってしまった白音がいつか帰ってこないかと、地元の高校を選んで進学したけれど、結局白音は帰ってこなかったし、私は親の転勤の影響ですぐに遠くの高校へ転校が決まった。
だから、ここ――神社に伸びる山沿いの百段以上続く階段の一番上まで来たくなったのだ。
階段から真っ直ぐ眼下は遮るものがなく、遠景に渡って町を一望できる。ここから、白音との思い出のある場所が沢山見えるのだ。考え事をするふりをして、それを思い出すために来ているのかもしれなかった。
観光客も初夏のこの時間帯にわざわざやってくる事もなく、ましてや地元の人にとっては年に一度祭のために来る場所だ。時折ふらっと訪れる私にとっては、閑散としているほうがありがたい。
「……はぁ」
ゆっくり歩いても何回も足を上げたり下げたりしていると息の一つも切れるもので、上り切るころには頬が少し熱くなっていた。
軽く手で顔を扇いでから、いつもの場所に座る。
右端の、一番綺麗な場所。
そこに座って、膝に手をついて手のひらに顎を乗せる。下から吹き上げる風に長い髪が踊った。前髪が目に掠って痛かったけれど、払う気にはなれなかった。
見下ろす先、白音との日々。思い出が淡い炎に包まれて、だんだんと輪郭が薄くなってきた。遠くから迫ってくる赤とオレンジが曖昧な空に覆われて、私の大切で愚かだった思い出が全部燃やされてしまうようだった。
「もう、私は――さよならしちゃうのか」
明日になれば、転校先の学校へ行く。明後日には初登校だ。新居には何度か足を運んだ。新しい町のコンビニエンスストアにも行った。生活に支障はない。不自由も。
何かが無いとすれば、それはここから見える景色くらいなものだった。
――ねぇヒメ、あのね!ヒメが好きなの。
――私も大好き、白音!
――ううん、違うの。きっと。あのね、私はね……。
「………白音」
景色は燃えても、胸の奥にずっと残るこの記憶が、私を縛って離さない。
後悔しなかった日はなかった。
好きだと言ってくれた白音の本当の気持ちを蔑ろにしてしまった事で、白音は……。
私の唯一の親友の、
最後にちゃんと、謝りたかったな。
脳裏に過る、白音の柔らかな笑顔と弾む声、兎のように跳んだ肩までのボブカット。
学校の先生は言う。失敗は大切な事だ。そこから学んで次に活かしなさい。
母や祖母は言う。間違えていけないという事はない。それを恐れる事が一番の間違いだ。
心の中で、私が言う。失敗も間違いも出来ない事なんて、この世界は余すほど用意してるじゃないか。
後悔しない日はなくても、私の犯した事を悔いた所で白音の傷は癒えやしないから、きっとそこに意味なんてなかった。
綺麗ごとで繕ったって、多くの場面で失敗は許されない。次なんてものはない。
それこそ、可能性が横たわっているだけだ。
なら悔いるべきは、過去に囚われ続けたこの日々なのだろうか。
それすらも、黄昏の茜に焼かれて定かではなかった。
「――そろそろ、行こうかな」
別れを告げて、汗ばむお尻を持ち上げて洗濯板みたいな目の前に広がる下りの階段を行こうとしたときだった。
私の「もう一つの可能性の糸」が
――ガサ。
いつもの席の右手側、整った雑木林の木陰から何かが通る音が聞こえた。それくらいなら普段も聞くが、それが私の方に近づいてきているようなのだ。
突然の事に固まってしまった私は、「それ」が低木の間から顔を覗かせるまで動けなかった。ともすれば、何かが私を引き留めているかのような……。
「……ふぅ」
一仕事終えたみたいな息をついた「それ」は、唖然とする私を見ているのかいないのか、気だるげな調子で続けた。
「久々だなぁ、ほんと。で?あー、お前が
「えっ、あ、いや、そう、だけど……なんで、私の名前を、というか、ええっ!?」
物陰から現れたのは、一見するとこれといった特徴のないどこでも見かけそうな三毛猫だった。
――仰向けの状態のまま宙を漂っていて、それなのに頭だけ正面を向き、人間の言葉を話しているという点を除けば。
「さて、俺が見えるという事は、お前は資格があるって事だ」
「しかく?」
何の事か分からず、両手の親指と人差し指で長方形を象る。
しかく、そんな間の抜けた声は普段は出さないのに。
この珍妙な猫は夢か現実か、現実だったらとうとう私はおかしくなったのか、ともあれ話を続けた。
「違う。資格だ、可能性を手繰る条件がお前に揃ったって事だ」
「………その前に、あの、あなた、は」
頭の向きと体の向きがちぐはぐで見ていると酔いそうになる。猫は何事もないかのように私のすぐ近くまで漂ってきて、口元を曲げた。
「俺は猫だ。裏返しの猫とでも呼ぶがいい。俺には理の隙間を縫って不可逆を捻じ曲げる力がある」
前足と言うべき部位で耳をくしくしと掻く、「裏返しの猫」とやらは、そんな事を宣った。
「……何それ?」
「おいおい、分かってくれなきゃ困るぜ。俺もお前もな。いいか、要するに、俺はお前に起こる出来事の別の可能性を探り当てて、その可能性がある場所にお前を送る事ができる。ま、舵取りすんのはあくまでお前自身だがな」
そう言うと、裏返しの猫は喉を転がすような唸り声をあげて身体を捻り、回転しながら地面に着地した。足が地面に触れると、顎先が天を向く。反発し合う磁石みたいだ。
裏返しの猫はとことこと、驚きで腰を微妙な位置で浮かす私の方へ歩いてくる。猫らしくごろごろと喉を鳴らし、猫らしからぬ言葉で、まあ座れと促した。
「さて、さっきも言ったがお前には資格がある。俺を使って出来事を捻じ曲げる資格だ」
「……」
「なんだ、まだ俺の事疑ってんのか?」
「だ、だって、そんな、頭が」
口元を手で覆い、裏返しの猫を指さして声を震わす私を見て、猫はんなぁ、と鳴いた。
不気味さを感じる間もなく、突然の事に驚く余韻も与えずひたすら話を続ける猫を、どうしてか私は受け入れていた。
なぜだろう、と考える前に、猫は口を開く。
「……よし、いいだろう。特別だ。お前に俺の記憶を見せてやる。だからそれで信じろ。その上で聞く――」
ずっと後になってからもっとこうすれば良かったと思う事があれば、それが後悔というのだろう。
この猫の、歪んだ口元が夕闇にぼやけて見えなくなっていて、私は気づけなかった。
これは、都合のいいやり直しなんかじゃない。
だって、この世界には――。
「やり直したいと思っている事をやり直せるとしたら、お前はどうする?」
決してやり直せない事が溢れているのだから。
※
パズルみたいに、バラバラな記憶。
ベンチと、炭酸飲料。
高校生の少女がずっと後悔していたことがある。大好きだった彼に自分の気持ちを伝えられなかったことだ。
――やり直したいと思っている事をやり直せるとしたら、お前はどうする?
裏返しの猫が大人になった彼女に笑いかけると、彼女は彼とベンチに座って炭酸飲料を飲んだ文化祭の日を思い浮かべた。
裏返しの猫のおかげで過去に戻った彼女は高校生の時には気づけなかった、彼が彼女へ抱いていた想いを確認するという新たな可能性を現実にした。
ピアノと、楽譜。
大学生の青年がずっと後悔していたことがある。ストリートピアノの演奏中に事故にあった少女を助けられなかったことだ。
――やり直したいと思っている事をやり直せるとしたら、お前はどうする?
裏返しの猫が社会に出て働きだした青年に笑いかけると、青年はストリートピアノで少女が演奏をしていた日を思い浮かべた。
少女に近づくために必死になってピアノの練習を続けていた青年は、少女がピアノを弾く前に自分から演奏をはじめ、少女を事故から救うという新たな可能性を現実にした。
それらの記憶が夢にしては――明晰夢の類を見たことがない姫瑠が見る夢にしては――あまりにもはっきりしていたから、それらが鮮明に示すのは、裏返しの猫が、姫瑠には想像もつかない次元の力を有しているという事だった。
そのパズルに、たった一つ埋まらない隙間があるとすれば、それは――。
蛍風姫瑠は後悔しているあの日をやり直すのか否か、という事だけである。
※
どういう原理で記憶を見せているのか、私に二つの記憶を与えた猫は満足そうにごろごろした。エジプトの有名な石像みたいに座ると、退屈そうな声色を出す。
「で、どうだ?俺の力が分かったか?」
退屈そうなのに、ピンと張った髭がぴくぴくと震えた気がした。
「いや、まあ……それなりには」
「そうか。ま、そういう事だ」
「というか、それよりも前に……その、頭が」
「ああ、もうお前らはホント、そこばっか気にするよな。やかましくてしょうがない。おい、じゃあ聞くがお前の身体はなんでそうなってんだ?」
猫は私の周りをぐるぐると歩きまわり、時折爪をひっこめた猫の手で私の身体を変な手つきで撫でてくる。ひらひらした髪の毛の所だけやたらと長い間撫でていた。
「なんでって、それが、普通だから?」
「ほら、そんなもんだろ。普通なんて言葉で括るぐらい曖昧なんだよ。生まれた時からその身体その器だったんだ。生存戦略との合理性はあってもそれ以上の理由なんてない」
「はぁ」
「要するに、そんな事聞くんじゃねぇ、知るか」
最後に髪の毛をふわふわさせてそれを猫の手で何往復か追ってから、裏返しの猫は私の正面に戻ってきた。
座ると地面に付いてしまう私の長い髪を触る。さらさらして、ちょっとじっとりした。
「さて、改めて聞くが、資格のある者よ。やり直したい日はあるか?」
「…………………………」
答えあぐねているうちに黙りこくってしまった。それをどう取ったか、猫はなーおと鳴いてみせる。
やり直したい日――。
後悔しない日はない。
私の大切なたった一人の親友を傷つけてしまったあの日。あの日に戻れて、あの子にもっといい言葉をかけてやれたら、どんなに幸せだろう。
――でも、私は、さっき。
「……ほお、これはこれは。面白い事になるなぁ」
「………?」
唐突に――現れた時からその話まで、何もかも唐突な猫が、また唐突に――笑みを浮かべた。
何事かと身構える私に、猫はこう言った。
「やっぱり、やめだ。やめやめ。お前には今聞いたってしょうがない」
「えっ、ええっ?」
「なんだ?やり直したい日があるのか?」
「い、いや……なんで、そんな急に」
「安心しろ。今は、まだ俺が可能性の糸を手繰り寄せる時じゃないって言ったんだ。またすぐに来るさ。ああ、きっとすぐにな、何度も」
それだけ言うと、猫はまた足を天に向けて、宙に浮かんだ。
そのまま私に尻尾を向けてどこかへ消えていく。
「あ、そうだ」
と、猫は何とはなしに私を振り返って言うのだ。
「願ったのは蛍風姫瑠だ。他の誰でもなく、な」
じゃあな、と残すと裏返しの猫は今度こそ本当に虚空に消え去った。
猫がいなくなると、境内の静けさは思い出したようにあたりを包み込み、黒いビニールテープみたいな色の空が落とす闇を助長するみたいだ。
普段ならいくら暗くったって何とも思わないその場所が、なんとなく怖くなった私は、足早に階段を下りる。
「……何だったんだろう」
階段を下りながら、木の葉の間をすり抜けてくる涼しい夜風に背中を押されると、裏返しの猫との会話がだんだん現実味を失っていくようだ。本当に、気でもおかしくなってしまったのかと腕を抱く私に、猫の与えた記憶の不気味なくらいの鮮明さが訴える。
現実だ。紛れもない、現実だ。
闇で隠れていく束の間の風変わりな現実は、私の脳裏に引っ付いて離れなかった。
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