第4話

 夕暮れ色に染まった公園の池に、一台のボートが滑り出す。

 夢香はボートの反対側に座ったようなていで、オールが作り出す水面のうずを楽しそうに眺めていた。

 静かだった。ぱしゃ、ぱしゃ、と水のはねる音だけが規則的に続き、ボートはゆるやかに進んでいく。


『佐藤先輩、ボート漕ぐのうまいんだ』

「誰でもできるだろ、こんなの」

『そうでもないですよ。あたし、やってみたことあるけど、右と左がバラバラになってぐるぐる回っちゃいましたもん』

「……そんな事態になる方が珍しいだろ」

『そうかなあ』


 ふたたび静けさが訪れる。夢香が黙ってしまうと、静かになる。

 ふと麻人は、聞いてみたかったことを聞いてみる気になった。


「なあ」


 言いかけてから、これまで彼女をちゃんと呼んだことがないのに気が付いた。


「その……あ、東」


 夢香がぱっと目を上げてこっちを見た。

 かと思うと、ぶうーと頬を膨らませる。


『何ですか、初めて呼んでくれたと思ったら東って。夢香、ゆめか、ゆーめーかー! 名前でお願いします、りぴーとあふたーみぃ、ユメカー!!!』

「わわ、わかったよ、そんじゃ……夢香」

『きゃーん、名前で呼んでくれたぁ♪ デートっぽいぃ。うれしいぃ♪』


 またぴょんぴょんする。生身ならボートが転覆する。

 麻人は今日何度目かのため息をつき、それから思い切って、言った。


「ひとつ確かめたいんだ。夢香は、どうしてそうなった?」

『そうなったって、何がですか』

「つまりその……どうして死んだのか」 


 夢香はきょんと目をしばたたかせた。


『あたし、死んでませんよ。こうして先輩としゃべってるじゃないですか』

「違う。そうじゃなくて、どうして霊体になったって聞いてるんだ。昨日の話じゃないけど、おれはいまだに、君が幻覚じゃないって証拠を持ってないんだよ」


 夢香は麻人を見つめる。少し傷ついたような視線だった。彼女はしばらく麻人を見ていたが、やがて水面のほうに目をそらしてしまう。

 だが、麻人のほうは言うしかなかった。確かめたかったのだ。夢香の実在を。


「昨日、言っただろ。夢香の口からは、おれが知っていることしか出てこないって。ということは、夢香がおれと違う人間かどうか、判断する材料がないってことだ。今日一日の何もかも全部、幻って可能性も否定できない」

『……先輩、あたしが存在しないと思ってるんですか』

「そう思いたくないから聞いてんだよ!」


 夢香は答えない。

 麻人は黙ってボートを漕いだ。夢香も黙って、景色を見ていた。


『……。うーん、実在の証明か』


 それは、だが、そんなに長くは続かなかった。

 ややあってこちらを向いた夢香の表情は、明るかった。


『それが欲しいなら、先輩も、あたしに言ってください』

「? 何を」

『もちろん、“好き”って』

「はあああっ!?」


 今度は麻人が、ボートが転覆するくらい飛び上がる。

 だが夢香はにこにこ顔を崩さない。


『だってー、あたしだって、ご褒美欲しいですもん。それにあたしのカンですけど、先輩、あたしのこと気に入っちゃってくれてるでしょー?』

「な、なな何で、そう思う根拠はどこに……」

『だって、あたしのことが別にどうでもよかったら、あたしが夢でも幻でも、何でもいいはずじゃないですか。だけど先輩は、あたしが幻じゃ嫌だって思ってくれてる。実在していてほしいと思ってくれてる。それはつまり、先輩があたしに抱いたトクベツな想いを、嘘にしたくないってことでしょ♪』


 よくもまあ、そんなうぬぼれたセリフを自分から――そう言おうとしたはずだが、麻人の口から言葉は出なかった。

 たった一日、一緒に過ごしただけの夢香。他の人には見えず、存在するか、いや、したかも怪しい夢香。それでも麻人の中に、夢香の言を否定しきれないだけの何かがあった。「トクベツな想い」は、もしかしたら、芽ばえ始めていたのかもしれなかった。

 いつしか夢香は、まっすぐにこちらを見ていた。

 ボートは止まっている。麻人が漕がないからだ。麻人はただ、目の前の夢香を見つめていた。綺麗だ、と思った。オレンジ色の夕日を受けて、きらきらと揺れる水面も。光の中の夢香も。


「……おれは、……」


 ふっと夢香がほほえんだ。


『ま、いいや。やっぱ無しで。あたしに見惚れてくれただけで十分ってことにしときますね』

「……誰が見惚れた?」

『え、見惚れてませんでした? 夕日の中のあたし、なんか可愛くないですか。どうです?』

「な、ないない、見惚れてないっ!」


 夢香が肩をすくめる。


『冗談ですよぉ。でも、あの……たぶんそろそろ、あたし消えます。うそでもいいから、何かステキなこと言ってほしかったなってのはあるかな』

「え。消える?」


 ふと、麻人は気づいた。さっきまではっきりと見えていた夢香の輪郭が、ぼかされたように淡くなってきていることに。


『そうなんです。実はね、今日一日、先輩にちゃんと見えるようにしていたいなと思って……がんばって先輩にパワー送ってたんですよね」

「……パワー? それって、霊を信じねぇ奴にも霊が見えるようになる的な……?」

『そうそう、そういうことです。ていっても昨日まであたしも知らなかったんですけど、霊体側が相手に送る思いの強さっていうのが、相手に自分の姿を見せるパワーに変わるみたいなんですよね。昨日、先輩があたしに気づいてくれたときに、そういうことか!て分かって……あ、ちなみに思いっていうのは、普通だと恨みとか怒りとか憎しみだと思うんですけど、あたしのは……えへへ、そういうことです♪』


 夢香はまた頬に手を当ててくねくねし始めたが、その姿はゆらゆらと揺れて、どんどんどんどん、透き通ってきた。


『でもね、やってみてわかりました。やり続けてると消耗して、突然限界が来るんだなって。だから、もう、ちょっと……』

「ゆ……夢香。おい!」


 透ける。透けていく。反比例するように、沈んでいく夕日の色は、どんどん濃さを増しつつあった。

 夢香が目を細める。ふんわりとした笑みが浮かんだ。


『佐藤先輩、ありがとう。今日一日、楽しかった』

「待てよ」

『最後にもう一度、言いますね。あたし……先輩のこと、好きです。えへへ』

「おい、夢香!」


 麻人はオールから手を離す。夢香に向かって差し伸ばす。


「待てよ! 夢香! おれも――おれも――」


 途端、夢香は消えた。


 ――夢香が好きだ――


 最後まで言い終えることができただろうか。

 夢香がいた痕跡は何もない。なのに言葉の残滓だけは糸をひき、空間を漂い、やがて、するすると溶けていった。

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