3.仮面
イルミナは思い切り叩きつけるように自室の扉を閉じた。こんなに怒ったのは冬の森に来て初めてのことかもしれない。
ちらりと時計を見る。時刻はまだ早い。普段であればロッキンチェアーに揺られながら暖炉の揺らめく灯りのもと読書をしている時間である。それをせずに部屋に籠ったのは、当然読書をしていると視界に入るザックのせいだった。
「ザックがあんなに薄情だったなんて!」
足音からも怒りの焔が立ち昇る勢いで寝台へ向かい、枕を投げ――ようとして思いとどまった。枕に罪はない。代わりに思い切り身体を寝台へ向けて投げ出す。罰を受けるべきザック・ノーガーはササフラが帰ってからも無言のまま、普段通りに仕事と、趣味である木工細工に精を出していた。イルミナにはそれも業腹だった。彼らはイルミナなんかより遥かに長い付き合いのはずだ。絆と言うべきものは存在していないのかもしれない。何せ、あのザックだ。すべての物事から切り取って(あるいは切り取られて)、手を離しているような男なのだ。だが、あの態度はないのではないか?
「そうか、と言った」
ササフラの言葉にどう返したのか、その返答がこれだった。
イルミナが口を開け、呆れた表情で見つめていると「どうかしたか?」と言わんばかりに眉を寄せていた。額面通りの意味だろうと、その表情から理解できた瞬間には踵を返し、部屋へと向かう。夕食の準備なんかしていなかったが、今のザックを見ただけで怒りが爆発しかねない。人間は一食抜いたところで死にはしないから問題ないはずだ。
それを思い出しただけでまた腹が立ってきた。ばたばたと足をばたつかせ、何とか心を落ち着ける。
寝台から視線を横に向けると、壁に設えている姿見が視界に入った。そこには当然不機嫌そうな少女が映っている。慌てて顔を逸らし、落ち着けるように大きく息を吐いた。
イルミナは鏡が嫌いだった。そこには残酷な現実がはっきりと現れるから。
何も知らないあの頃のイルミナには、夢や希望が溢れんばかりにあった。それらは自室にある姿見に向かうたびに擦り切れ、積み上げたそばから崩れゆく。その歪で名状しがたい内面を形成したものは、たった一枚の鏡だと言っても過言ではない。
そばかすだらけの頬。丸い顔。低い鼻。自慢の金髪を伸ばして顔の線を隠してみても大差はない。親譲りのくせっ毛を羨まれることもあったが、劣等感の塊であるイルミナには何も響かない。真っすぐ伸びた美しい髪に憧れるのも当然だった。
彼女にだって絵本に出てくるお姫様みたいに誰もが愛してくれると思っていた時期がある。いつかは白馬に乗った王子様が迎えに来て、幸福な人生を送るはずだった。
イルミナはそんな夢をいつまでも見ていられるほど自信家でもなければ、甘い泡沫に逃げ続けるほど夢想家でもなかった。童話や物語の中で、可憐な少女たちは鏡に自己を投影し才覚に目覚める者もあれば、あるいは自身の持つ武器に気付き、それをもって願いを叶えることになる。彼女たちはいつだって美しかった……そうでなければ価値がないとばかりに。だからこそ後世まで語り継がれるのだろう。イルミナだってそう考え、心から物語を楽しんでいた時期もある。ただ人より夢から醒めるのが早かっただけだ。
イルミナは幼少の頃から本と育ってきたため、精神的な成熟が同世代では格段に速かったと自負している。例えば友人たちが人形遊びに没頭していた時、彼女は人形が纏うドレスの成り立ちを調べていた。例えば少女たちが「おまじない」に夢中になっているのをしり目に、彼女は占いを科学的に解き明かそうとする本をむさぼった。
もちろん友人たちと居るときは、同じように無邪気に笑っていたのは言うまでもない。他者と違う振る舞いをすることで取り除かれるのは、村社会ではままあること。時として子供の方こそが他人に残酷になれることを、イルミナは知っていた。この瞬間まで自身が異物であるという自覚を持ち、排除されることなく上手く立ち回ってこれたのは、友人たちより優れていたからだ――そうイルミナは考えている。
それらは誰にだってある、青の時代と呼ばれるもの。誰しもが持ちうる陳腐な思考を、他者より容姿が劣ると思いこんでいた彼女が、自身を守る
友人だけではなく、親妹ですら知らない少女の本性は、彼女が嫌厭してきた貴族たちと同じ虚栄や自尊心に塗れたただのヒトである、そう絶望したのはいつの事だっただろう。鏡はいつだって正直だ。汚穢に満ちたイルミナの心中すらも暴き出す。
それらを隠し通すため、イルミナはトーカ村を出る必要があったのだ。幸い王都では誰もイルミナ・ロッキンジーという個人に関心がない。職場も理想的だった。静謐な空間の元、知識を貪ることが出来、面倒極まりない他者との交流もない――はずだった。
ザック・ノーガーという少年は、イルミナ・ロッキンジーが無垢だったあの頃を想起させるような男だった。彼の無骨な優しさは少女を癒すときもあれば、傷口に
様々な感情で糊付けしたイルミナの仮面を、いとも簡単に剥がしてしまう――彼に抱いている感情は、やはり恐怖そのものだと彼女は感じている。
そのはずなのに。
――何故、あたしはこんなに苛ついているのだろうか。
その結論にたどり着き、両手で顔を覆い瞳を閉じると、浮かんでくるのはザックの不機嫌そうな顔だった。自然と顔が綻んでいるのに気付くと、イルミナは自分しかいない自室だというのに思わず立ち上がって独り言で言い訳を始める。
自身の感情をかき消すように、大声で聞いたものが顔を顰めてしまいそうな罵詈雑言を放っていたイルミナは、何故かそこであの写真を思い出した。ひょっとして、あの小さな男の子はザックなのではないだろうか。あの小さな手を置くべき場所を迷っているような少年が、今のザックとどこか重なって、一瞬で消えてゆく。
飛躍し過ぎか。
何せあの写真を撮った射影機は軽く半世紀は昔の代物なのだ。機械に疎いイルミナにもそれは理解できた。それを最近使ったということも考えづらい。何せ先の戦争でもって、あの射影機の現物は全て消失してしまいこの世に存在しないから。つまりあの写真がザックだとしたら当時の技術の粋をつぎ込んだ射影機を使える大金持ちであり、すでに御年七十近いということになる。馬鹿馬鹿しい。
腹が鳴った。
思わず赤面し、誰もいないのは当然なのに辺りを見渡す。一食を抜いたところで死にはしない。死にはしないが、人間性が死んでしまう気がして、イルミナはため息を落とし立ち上がった。
晩餐の間に入ると、今度はイルミナが眉を寄せる番だった。扉を開いた正面、いつもザックが陣取っている暖炉前に彼の姿がない。代わりに左手、キッチンから微かに物音が聴こえる。もしかして、腹を空かせたザックが出来もしない料理をしているのかも。これ以上気が滅入るような物事を増やすのはよしてほしい。ザックは生活能力が皆無なのだ。どの程度なのか、彼の力量を見るために簡単な家事を任せたことがある。悲劇を通り越して惨劇そのものである有様を見て以降、約束ごとに『ザック・ノーガーはキッチンに入るべからず』といった一文が加わったのは言うまでもない。
余計な仕事を増やさないで欲しい。憂鬱な気分で覗くと、別の意味で眉を寄せることになった。
確かにキッチンにいたのはザックだった。だが彼がしているのは料理ではなかった。
「何してるの?」
後ろ姿に声をかけると、驚くでもなくちらとイルミナを見て肩を竦める。彼は湯を沸かし、ポットに注いでいただけだった。手順など見なくても分かる。いつもイルミナが飲んでいるハーブティー。確かザックは飲まないはずだ。
「珍しいね」
つららのように冷たく尖った声が出てしまった。内心反省しながら彼の所作を見守る。
ザックは無言のままポットからお茶を注ぐと、イルミナの前に差し出した。表情は一切変わらないが、イルミナにはその意味がわかった。
これは、彼なりの反省の証なのだ。
噴き出したイルミナをザックは睨むが、何も怖くなんてない。良かった、いつものザックだ。イルミナは安心してカップを受け取った。礼の言葉代わりに壁にかけてあるエプロンを身に着ける。
「夕食、ちょっと遅くなるけどそれくらい我慢してね」
いつの間にか機嫌が直っている。それどころかこれは良い部類だ。平時であれば三日は引きずる怒気が霧散している。その理由から目を背けるようにイルミナは包丁を手に取った。
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