間奏曲

彼方――かれの・かた――

 その日、マリッサ・ロッキンジーは心底つまらなさそうに窓の外を降りしきる雨を眺めていた。


 雨は飽きることなく、かれこれ一ヶ月近く振り続けている。雨季に入ると、それなりに降るのは知ってはいたが、それでも例年は降ったり止んだりで、ここまで毎日のように降りしきるのを見るのは初めてだった。

 姉が出て行ってしまった為、この部屋は彼女のものになった。姉が寝起きしていた二段ベッドの下もマリッサのものになったし、書物だらけで足の踏み場もないような狭い部屋は、それらがなくなっただけでとても広くなった。彼女のお気に入りのぬいぐるみを飾るスペースもたくさんあったし、本棚は絵本だけで難しい本がないのはとてもいいことだったが、あの口やかましく、いつも喧嘩ばかりしていた姉がいなくなっただけで、何となくこの部屋に居づらくなった。

 だからマリッサは雨が嫌いだった。外に遊びに行けなくなるから。

 仕方なく絵本を眺めていたのだが、激しくなった雨音に混じって微かに何かを叩く音が聞こえた。絵本を閉じ、耳を澄ましてみると、それはドアをノックする音だと気づく。

 今この家にはマリッサしかいない。彼女の父は仕事、母は隣町に住んでいる親戚のところへと出かけている。


「知らない人が来ても、ドアを開けたら駄目だからね」


 マリッサが留守番する時には、この言葉を聞かされる。それを分かっていたので、彼女はダイニングの椅子をドアの前まで引きずっていき、その上に立つとドアにある覗き穴から外の様子を伺った。

 そこには、真っ黒な雨合羽をまとった男が立っている。頭に乗せている鍔の広い帽子はずぶ濡れで、その下から見える長い銀髪からは水滴がぽたぽたと際限なく落ちていた。男の顔はとても小さく、茶色をした瞳は宝石のように輝いている。薄い唇は笑みをたたえ、それだけでマリッサの警戒を解きかけた。

 しかし、決定的だったのは、彼が手に持っているものだった。

 右手には真っ赤な薔薇の花束。そして左手には、彼女の大好物である村外れのパン屋で作られている、シナモンシュガーの揚げパンが入った紙袋を下げている。

 マリッサはすぐさま椅子から飛び降り、足でずらすと鍵を開いた。


「やぁ、誰もいないかと思ったよ」

 男は高い声でそう言うと、鼻をすすった。マリッサは首が痛くなるくらい見上げ、「どちら様」と、いつも母親が言っている言葉を真似て言った。

「これはお姫様。私は、姉姫であるイルミナ様の知り合いでクレッシェンド・ノーガーと申します」

 そう男は恭しく膝をつき、頭を垂れた。

 これは勿論冗談だ。いくらマリッサが子供とはいえ、彼女も、姉であるイルミナもお姫様ではないことは知っている。冗談めいたやり取りを楽しもうと、マリッサも麻で作られたワンピースの裾を軽く持ち上げ、澄まし顔で男に名を告げる。

「私はマリッサよ。クレッシェンドね。ようこそ」

「ありがとうございます。マリッサ姫。とてもいい名だ」

 男はそう言うとマリッサの手を取り、軽く口づけをする。

 その物腰の柔らかさと、姉の名を出したことでマリッサは完全に警戒を解いて部屋に導こうとしたが、男はそれをやんわりと断った。

「今日は荷物を持ってきただけだから」

 マリッサはもう少しお姫様ごっこを楽しみたかったが、花束と、シナモンのいい匂いがする紙袋をマリッサに手渡したので文句のあるはずがなかった。色気よりも食い気、この辺りはまだ子供だと言える。

「食べていいの?」

「もちろん。マリッサは今日が誕生日なんだよね? それは心ばかりのプレゼントだよ」

「この花束は?」

「それもプレゼント。マリッサくらいの淑女だと花束は貰いなれているだろうけれど」

「そんなことない。とても嬉しいわ!」

「喜んでいただけたようで何より。もう一つ」

 男は、レインコートの中から大きなくまのぬいぐるみを取り出した。


 ――あんなものが入っていたなんて。まるで魔法のレインコートだわ!


 マリッサは目を輝かせて受け取ると、大きく頭を下げて礼を言った。

「ありがとう!」

「どういたしまして。そしてここからはお願いなんだけれど」

「なぁに?」

「これをイルミナに渡して欲しいんだ」

 男が最後に、そして一番大事そうに取り出したのは、一通の手紙だった。

「うん、分かった。イルミナも誕生日プレゼントを送ってくれることになってるから、そのお返事の手紙を書くときにこれも入れておくわ」

「ありがとう」

「どういたしまして。でもどうして直接渡さないの?」

「それはね、まだぼくがイルミナや、彼女の同僚に会うことができないからなんだ」

 男は優しく笑う。直後に、少し悲しそうな瞳になった。

「マリッサ。どんなに辛いことがあったとしても、くじけちゃ駄目だよ」

 意味は良く分からなかったが、彼女は素直に頷き、「ちょっと荷物を置いてくる」と、両手いっぱいに抱えたものをダイニングテーブルに置いて玄関に戻るが、既に男はいなかった。

 最初から最後まで、まるで絵本に出てくる魔法使いのような男だった。彼の頭に乗った、大きめの三角帽子がそれを物語っているようにマリッサは思った。


 その後、帰宅した両親にしこたま怒られることになったのだが、男がイルミナの名を出したと言うと、その怒りは多少おさまったようだった。

 生まれて十年間で最もハッピーな誕生日の終わりに、マリッサは眠い目を擦りながら姉に手紙を書いた。

 自分の近況であったり、素敵な誕生日プレゼントを貰ったことだったり、イルミナが送ってきた数冊の絵本に対する礼だったり、揚げパンが美味しかったことだったり、大きなケーキをたくさん食べてしまったことだったりと、多岐に渡り、便箋の数は十枚を超えた。

 最後に男に貰った手紙を入れる前にもう一度見てみる。

 それは、お世辞にも上手だとは言えない走り書きに近い文だった。文字の読み書きが同世代の誰よりも上達しているマリッサだったが、何と書いてあるのかは結局分からなかった。


 ところが実は、その手紙にはむしろ達筆だと言える程の綺麗な文字で「親愛なるイルミナ・ロッキンジーへ」と書いてあった。その下には、彼の悪戯なのか驚く程小さく「ついでに、ザック・ノーガー」と。マリッサが分からなかった理由は、単純に知らない文字だった、というだけ。


 この、古代文字で綴られた手紙がイルミナの手元に届くまで、長い年月を経ることになる。



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