冬の森の死体安置所
土師・ゲオルグ
第一幕「冬の森の死体安置所」
1.冬の森
目前、どこまでも続くかのような雪景色が広がっていた。少女が吐き出す息すらも白の世界に溶けてゆき、轍すらも存在しなかったかのように消えている。吹雪は降るというよりも横から叩きつけると言ったほうが良いくらいで、強風に飛ばされそうな身体を支えるのも苦労する。
「この道をまっすぐ行けば、目的地だ」
門にいた衛兵の言葉を信じた私が馬鹿だった。
少女――イルミナ・ロッキンジーの目前には、道どころか何も見えない。全く、どこに道があるというのか。
話には聞いていたが、実際に目にすると凄まじいものがあった。
「今度の冬はいつもよりも厳しいものになるだろう」
冬用の装束に着替え、壁の向こうの説明をひとしきり受けた後に、事も無げに衛兵は言った。
イルミナは立ち止まり、後ろを振り返る。自分がつけた足跡は既に消えていた。既に日は暮れつつあり、眼前に広がる景色と相まってイルミナは世界に取り残された気がしてぞっとした。最後に出た建物である門は、白い世界の遥か向こう側。ひとつ息をついて、背中のリュックから葡萄酒の入った瓶を取り出す。被ったフードの下、鼻までぐるぐる巻きにしたマフラーを下げ、瓶に口をつける。飲むのは一口だけにしておいたが、あっという間に身体が火照り始めた。
前方に目を戻す。針葉樹の森に入ったらしい。うずたかく、まるで魔物かのような樹木が左右にそそり立っていた。辛うじて木々の間にそりが一台ほど通れそうな空間がある。これが衛兵が言っていた道なのだろう。
ここで止まっていても凍死してしまうだけだ。意を決し、イルミナはその道とも言えないような空間を歩き始めた。
暫く歩いていると、真っ白な空間に明かりが見えた。イルミナは胸をなでおろし、その明かりに向かう。
十分ほどかけて明かりの前にたどり着いたイルミナはがっかりした。その明かりの元は吹けば飛んでしまいそうな小さな建物で、イルミナが目的としている場所とは思えなかったからだ。しかし慣れない雪の中歩き続けたイルミナの体力は限界だった。明かりを見て気が抜けたのか、膝から下が自分のものではないようにガクガクと震えだした。今日はこの小屋で休ませてもらおう。
小屋のドアをノックする。しばらく待っても返事がなかったので、もう一度、今度はより強くノックをした。この猛吹雪だ。聞こえなかったのかもしれない。
だが、たっぷり五分は待ったというのに返事はない。その間イルミナは何度も、それこそドアが壊れるんじゃないかという強さでノックし続けたにも関わらず。
しびれを切らしてイルミナはドアのノブを捻る。鍵がかかっているかとも思ったが、拍子抜けするほどあっさりとドアはこちら側へと開いた。
小屋は、見た目よりは広く感じた。その理由は天井が高く、まるで吹き抜けのようだったからだ。後に聞いた話によると、こうすることで室内の熱を逃がさないようにするらしい。
室内は簡素な作りだった。なにかしらの樹木で作った飾り気のないテーブル、その上にはイルミナをここまで導いたであろう古ぼけたガスランプが頼りない明かりを放っている。そして同じ素材の椅子が二脚。煉瓦で作った暖炉があり、火が燃えている。その上に鉄製の鍋が置いてあって湯気が上っていた。隣でロッキンチェアーがゆらゆらと揺れている。
室内にあるのはそれだけだった。何度見回してもそれだけ。読書家のイルミナは本棚がないことに酷く驚いた。
小屋には誰もいなかった。明かりがあり、暖炉が燃えている以上人がいない訳はないのだが、それに考えを回すことが出来ないほどイルミナは疲れきっていた。顔の半分以上を隠していたマフラーを乱暴に剥ぎ取り、被っていた毛糸の帽子をとって深く息を吐き出す。
そうしてようやくひとごこちついた。
長く綺麗な金髪が暖炉の炎に揺れる。雪で傷まないか心配だったが、それは杞憂だったようだ。
衛兵は邪魔になるから切ったらどうだ、と言っていたが信じられなかった。この美しい金髪は祖母譲りであり、取り柄のないイルミナの唯一とも言える自慢だからだ。
「お前にはこの美しい髪があるじゃないか」
身長も低く未成熟なその身体は度々少年と間違えられ、からかわれ、イルミナはよく祖母に泣きついた。その度に祖母はその皺だらけの手でイルミナの頭を撫でながら優しい声をかけてくれたのだ。
その祖母もイルミナが成人を迎える前に他界してしまったが。
デリカシーがないからこんな場所に飛ばされるのだと、祖母との話を絡めつつ皮肉たっぷりに言ってやろうかと思ったがやめておいた。ひょっとしたら彼らも同僚になるかもしれないから。
そう、同僚。
イルミナも年頃になり、祖母の遺した蔵書で得た知識を有効に使うため、王都に出た。――それなのに。
ぽた。
服についた雪が溶けて、滴る音で我に返った。
それと同時に身体が酷く重いことに気がついた。まるで鉛か何かを仕込まれたようだ。先ほどここを見つけた嬉しさから葡萄酒を一気に飲んでしまったからだろうか。
イルミナの思考は更に鈍くなる。立っているのも億劫で、つい目前にあったロッキンチェアーに座り込む。
――少しだけ、そう、少しだけ眠ろう。
規則的に揺れるロッキンチェアーが心地よく、イルミナの意識は深く沈み込んでいった。
暖炉の薪が爆ぜる音で目が覚めた。
頭は多少すっきりしたものの、身体のだるさは取れていない。やはり、かなり疲れていたのだろう。
ロッキンチェアーに埋めた身体を無理やり起こすと、目前のテーブルに手を組みイルミナを見つめる人間がいるのに気づいた。
男だった。
短く刈り込んだ黒髪、遠目からでもすぐ分かる大きな傷が、その頭から左目にかけて走っている。無事な右目は鳶色をしており、感情の読めない目線を遠慮なしにイルミナへと投げかけていた。身長はそこまで高くはないようだったが、がっしりとした体つきをしていて岩のようだな、とイルミナは思う。年齢はイルミナの少し上くらいだろうか。その無骨な顔には皺はないように見えた。
たっぷり一分ほど見つめ合ってから、記憶が戻ってきた。
「勝手に入ってごめんなさい!」
イルミナは慌てて立ち上がろうとするが上手くいかない。その様子を男は無骨な右手を振って制した。
座っていろ、ということだろうか。イルミナは立ち上がりかけたその身体をもう一度ロッキンチェアーに委ねる。揺りかごのように揺れる椅子は心地よく、そのままもう一度眠ってしまいそうになった。頭を振り、意識をはっきりさせようとする。
あの男の家に上がり込んだのは、こっちが悪い。しかし、あの何を考えているか分からない瞳は少し怖い。だから、イルミナは眠らないように話すことにした。
「本当にごめんなさい。私、疲れてて。この森にあるっていうモルグに向かうように言われてこの冬に来たの」
男が太い眉を僅かに持ち上げた。
イルミナは王都に向かうと、泊まる宿を探すよりも先にギルドに向かった。王都はとても広く、いくつもの職業があり、それを斡旋するのがギルドという場所だ。盗賊や物乞いなんかは流石にないだろうが、職業よろづ承りとかいう大時代的看板に偽りはないらしく、職全般はギルドの恩恵ないしは搾取を受けていると言っても過言ではない。職場が辺境であろうとも先ずはギルドへ向かう。産業革命が起こって久しいが、最先端を標榜する我が国家にしてはずいぶんとアナクロなシステムだと誰もが思っている。政治的な思惑が絡んでいるのだろうが、そんなことはいち市民であるイルミナに関係などない。
もちろん口には出さずにあれこれ思考しながら申請書類にペンを走らせる。記入が終わり、窓口をいくつか回され、ようやくひとごこちついたところでギルドマスターだという女性に呼ばれた。その女性は昼だというのに、胸が大きく開いたまるで娼婦のような真っ赤なドレスに身を包み、香水の匂いをふりまいていたのでイルミナは頭が痛くなった。
「トーカ村、ねぇ。あんな田舎からはるばるよく来たわ」
ドレスのものより真っ赤な紅を引いた唇から漏れる言葉にイルミナは少しむっとしたが、もちろん表情には出さない。
女性は、イルミナの書いた書類にすごいスピードで目を通していったが、ある一点で止まった。そこは趣味、特技の欄だった。
「へぇ、あんた、文字が読めるんだ」
化粧で大きく見える瞳を更に大きく見開いて、女性は意外そうに零した。
ここでいう文字というのは、今イルミナが書いた公用語ではなく、遥か昔に失われたとされる古代文字のことだ。イルミナの祖母が遺した蔵書には古代文字の文献も多くあった。その量は王立図書館に匹敵するくらいだったのだが、イルミナはもちろんそんなことは知らない。ただ、形見として遺された本を読みふけった。
「だったら丁度いい。図書館で欠員が出た仕事があるからそれを紹介しよう。向こうに問い合わせてみるからまた明後日に来て」
それだけ言うと、女性はくるりと座っている椅子を反転させ、イルミナの書類を「済」と書いてある場所に放った。
イルミナは気が強い質である。普段であれば、これだけ待たされ、あらゆる窓口をたらい回しにされ、たったの二言三言で終わったことに対する怒りが口を突いて出たはずであるが、今日に限ってはすべて赦せた。
その日、イルミナは興奮して遅くまで眠れなかった。王都に来てすぐに仕事が見つかったのも僥倖であったがその仕事が図書館で出来るなんて!
読書が大好きなイルミナにしてみれば、本に囲まれて仕事が出来るなんて夢のような職場だ。
珍しさで立ち寄った市場で押し付けられた葡萄酒がこんなに早く役立つなんて思いもよらなかった。葡萄酒どころか、アルコールなんて口にしたこともなかったが、これは祝杯だ。少しくらいいいだろう。あっという間に瓶の底まで飲み尽くし、酩酊した状態でイルミナは故郷の両親に手紙を綴った。
翌々日、イルミナは未だに酒が残っているかのような重い頭を小突きながらギルドに向かった。
「これじゃあ、宿酔いどころか三日酔いだよ」
あまりの頭痛の酷さに訳の分からない独り言を零すが、それはキラキラと輝くドレスを纏ったギルドマスターの言葉にどこか遠くに吹き飛んだ。
「今すぐ支度して。あんたの職場は、冬の森にある
何故? どうして?
イルミナが疑問を挟む余地もないほどあっという間にギルドのスタッフによって支度を整えられ、気づけば、衛兵と話をしていた。
図書館じゃなかったのか。モルグと古代文字がどう関係していると言うのだ。
イルミナの恨み言は、吹雪にかき消された。
「……という、ことなんです」
男は、モルグの名を出した時こそ表情を出したが、それ以降は押し黙ったまま、イルミナの話を聞いていた。腕を組み、顔を俯かせていて表情は伺えない。ひょっとしたら寝ているのかも。イルミナがそう思うくらいに反応がないのだ。
薪が爆ぜる。その音にも男は反応しなかった。
イルミナはそっとため息を落とし、窓の外を見る。
吹雪は落ち着いたようだったが、話しているうちに夜も更けてしまったようだ。塗りつぶしたような暗闇が広がっている。
ぎしり、という音にイルミナは男に視線を戻す。男は立ち上がって、イルミナが入ってきたものとは別のドアの向こうに消えた。
――あんなドアがあったなんて気付かなかった。
男がドアを開けた時に風は入ってこなかった。つまり、奥にも部屋があるということだ。見た目より
この小屋は広いのかも知れない。
程なくして男は戻ってきた。その手には手紙が握られている。イルミナの前に立つと、その手紙を手渡してきた。
ざらついた、再生紙を利用した僅かに灰色がかった便箋。表には流暢な筆跡で「親愛なる、ザック・ノーガーへ」とある。この男の名だろうか。
裏には何も書いていない。ただ、赤いシーリングワックスには見覚えがある。イルミナはロッキンチェアーの隣に置いてある荷物から一通の手紙を取り出した。同じシーリングワックスで綴じられた手紙。ギルドの紋章が押されているその手紙は、ギルドから渡された辞令だった。
顔を上げると、男は無表情のまま口を動かす。
「モルグの管理人、ザック・ノーガーだ。イルミナ・ロッキンジーだな。ギルドから話は聞いている」
予想通り、というべきか、男は固く低い声でぶっきらぼうにそう告げた。
ここがイルミナの職場であり、この男が上司らしい。
その時イルミナの脳裏をよぎったのは、これ以上雪中を行軍しなくてもいいという安堵ではなく、この無口な男と上手くやっていけるだろうか、という不安だった。
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