第一章 第一話~ノンビーヌラ~
「え?」
転移した僕の第一声だ。転移した異世界の美しい様子を詩人のように語ってみようかと思っていたのだけど、人間っていうのは本当に驚いた時ってなんの感想も出ないものなんだなぁ……。そんな自分の思い浮かべていた異世界と、実際の異世界のギャップに僕は驚いていた。
「な、何? どうなっているの?」
とりあえず前後左右を見渡してみた。左右はシミや汚れなどがこびりついた汚い壁で、後ろ……も壁か。いや、正確には建物の壁かな? どうやらここは路地裏のようだ。左右の広さは僕が両手を広げたらギリギリ届きそうな位の狭いもので、壁際には無造作に投げ捨てられ、長時間放置されたゴミが散乱していた。う……酷い匂いだ。卵が腐ったなんてレベルじゃないな……鼻に殺虫スプレーを吹き込まれたみたいな感じで鼻の奥が熱くなり、自然と眉間にしわが寄る。とりあえず鼻をつまんでおこう。さっきの人は僕をなんて場所に転移させるんだ……もう少し場所を選んでほしかった……
「暗いなぁ……今は何時なのかな?」
照明器具一つない裏路地は薄暗く、今が昼なのか夜なのかわからない。左腕の腕時計を見てみるけど、この時計の指す時間がこの世界とリンクしているとは考えにくいし、当てにならない。とりあえず空を見て判断しよう。そう思い僕は空を見上げる。
「…………なんだ? あの紫のものは?」
狭い路地裏から見上げた先にあったのは青空でも星空でもなく、サツマイモの皮みたいな色をした空だった。木星の表面みたいにうねうねしているけど……もしかして雲? 紫色の? 異世界らしいけど、大分ファンタジー色がつよいなぁ……父さんと母さんもこの世界にいるらしいけど、大丈夫だろうか?
「っと、その前に路地から出よう。ここにいると鼻が曲がっちゃうよ」
とりあえず前方に進んで裏路地から出よう。そう思った僕はトランペットと鞄を背負いなおして歩き始めた。出鼻を挫かれたけど今度こそ異世界転移の幕開けだ! 父さん、母さん、待ってて! すぐに見つけ出すから! 意気揚々と裏路地から出た僕の前に広がっていた光景は……
「な、なんだ!? これ!?」
目の前に広がる光景に僕は目を疑った。ここは見たところ大通りのようで、日本で言うと商店街のように出店や通行人などがいて、賑やかに活気があふれている場所なのだろうけど、そこにあったのは全くの真逆の閑静なものだった。
建物はひび割れや老朽化が目立ち、今にも倒れそうなものばかり。
地面はかつて石畳で舗装されていた形跡があるが、石は砕け、それによって生まれた凸凹によって足をとられそうになっている。
人はいるにはいるが、腰に布を巻いたほぼ裸同然の姿だったり、藁で出来たマントのようなものを羽織って地べたに寝ていたり、とてもいい暮らしとは見受けられない。
更には無人で商品の置いていない露店。刃こぼれした包丁。散らばった紙類に血痕……
「と、とりあえずラージオって人を探さないと……」
僕は近くにいる人に声をかけることにした。辺りを見渡して誰かいないかと探してみると、十m程先の建物の壁に、二人組の人が座り込んでいた。壁に寄りかかり下を向いているから性別や歳まではわからないけど、とりあえずあの人で良いか。一つため息をついた後、ゆっくりと歩み寄った。
「すみません」
「………………」
返事がないな……寝ているのかな? 僕は手を伸ばして左に座っていた人の肩を揺すってみた。
「すみませんってば……」
三度ほど肩を揺すった頃、その人の顔から何かが地面に落下した。なんだろう? 僕は落ちたものを目で追ってみた。コロコロとスーパーボールほどの大きさの球体は、跳ねることなく地面を転がっていき、地面の凹凸に引っ掛かって停止したので目を凝らして見てみる。白色に球体で……なんだろう。赤い糸みたいなのがついている……中央には黒い……
「っ!?」
カッと目を見開いた。喉から声も出ず、息の仕方も忘れてしまった。目の前の人間から落ちたもの、それは眼球だった。それになんだ? 触った右手に違和感が……暗くてよく見えないな。僕は手の平を顔に近づけてみた。
「ああああああ!?」
白くうごめくものが大量にくっついてた。蛆だ! ウジ虫が僕の手にくっついていた! それも一匹や二匹じゃない! 少なくみても三十匹はくっついている! 僕は慌てて手を振ってウジ虫を落とした後、ズボンの裾で手のひらを擦った。そして慌てて後ずさりして目の前の二人を再度観察してみると、この薄暗い天気でよく見えなかったが体中蛆まみれで蠅がたかり、血痕のようなモノが地面に広がっていた。そう。僕が声をかけていた二人は死体だったのだ。
「うっ! おぇええ!!」
死体に触ったというショックで胃液が込み上げ、口いっぱいに溜まった胃液を足元に吐いてしまう。足は震えて体に力が入らない。汗も止まらず水気を含んだ上着は不快で気持ち悪い。もしかして周りで壁に寄りかかっている人達は……
『人殺しだぁああ!!』
「ひっ!?」
街中に響き渡る怒号。や、ヤバイ! この場所は本当にヤバイ! 僕は回れ右をして言う事を聞かない足を叩きながら活を入れ、今来た路地裏へと飛び込んだ。
「はぁはぁ……マシな場所を選んでよと思ったけど、どうやらマシな場所だったらしい……」
乱れた呼吸を整えながら気持ちを整理する。先程までは吐き気を催すほど不快な匂いを放っていた薄暗い路地裏が、今は安住の地に感じる。メタスターシって名乗ってたっけ? ちゃんと僕の事を考慮して転移させてくれたんだ……。鞄に入っていた水筒を取り出して軽く口に含み、うがいをして口の中の胃液味を消した。そして再度飲み物を口に含んで飲み込むと大分気持ちが落ち着いた。それにしても……
「なんて世界なんだ……!」
思っていた異世界転移とはまるで違った。異世界転生や異世界転移を扱った小説や漫画なんかは何作も読んでいるけど、これは想像を絶していた。昼か夜かもわからない紫色の雲が広がる空。汚い空気。死や殺人が常に隣り合わせの世界だなんて……
「父さんと母さん……大丈夫だろうか?」
こんな世界だとは思いもよらなかった。もっとファンタジーいっぱいのメルヘンで幸せに満ち溢れた世界だと思っていたから、二人の安否がより一層心配になってきた。だけどメタスターシさんが僕に語り掛け、転移させたということはまだ生きているはずだ!
「よし……いくか」
それから何分経ったかもわからないが、とりあえず心拍数は元の速さに戻り、気持ちが落ち着いた。体から出る汗も引いたし、呼吸も整った。そうなればこれ以上ここにいても仕方ない。行動を起こさなければ! ここでは僕を知る人はいないし、何もしなければ何も起きない。僕は両頬を強めに叩き自分に活を入れる。それとここで余計なものを置いていくことにした。革靴にスーツ、楽譜ファイルに花束もいらないな。ならキャリーバッグ一式置いていこう。身軽になった僕は靴ひもを締め直してパーカーのフードを深く被る。深呼吸をして十分に酸素を肺に取り込み……裏路地から駆け出した!
「きゃ!」
「うわぁ!?」
裏路地から飛び出した僕は何者かと衝突した。胸元に何か硬いものが当たった僕は軽い呼吸困難に陥り、僕と当たった人物は勢いに負けて体制を崩して地面に倒れこんだ。身の危険を感じた僕は、足元に落ちていた大きめの石を拾い上げて倒れこんだ者に投げつける構えをとる。少しでもおかしな動きをしたら……僕は覚悟を決めた。
「ひっ!」
だが倒れこんだ者は僕以上に怯えた様子だった。尻もちを付いたその人物は懸命に僕から離れようと足をバタつかせるが空振りに終わり、大した距離も後退できずに、今にも泣きだしそうな声を出している。顔は僕同様にフードを深く被っているため見えなかったが、その泣き声から察するに子供……しかも女の子か?
「ご、ごめん! 大丈夫?」
「ひっ!?」
少女の身を気にして近づくが、少女は更に僕から距離を取ろうとする。しまった! 右手に石を持った状態じゃ余計に怖がらせるだけだ! 僕は裏路地に石を投げ込み、顔を隠していたフードを脱いで、両掌を少女の方に向けて丸腰だということと戦意がない事をアピールする。
「僕は君に危害を加えるつもりはないよ! って言葉は通じるのかな……?」
今更だけど言語の壁とかはどうなっているのかな? 自慢じゃないけど僕は海外公演や両親の影響で英語の他にもイタリア語、フランス語、ドイツ語なんかも喋れて、日本語も入れると五か国語喋れる。けどここは異世界だ。未知の言語だったらお手上げだけど……
「……僕の言っていること……わかるかな?」
「…………」
まだ恐怖で強ばった表情の少女の首がコクリと小さく縦に揺れた。よし! 言語の壁はなかったみたいだ!
「訳があって急いでいたんだ。ぶつかってごめんね?」
「…………」
再び小さな頭が縦に揺れる。僕は少女に近寄り手を差し伸べ、笑顔を向けた。少女は僕の手をジッと見つめ、手を取って良いのか考えている様子だった。数秒後、少女は震えた手を伸ばし、僕の手を握りしめてくれた。僕は冷たく汗ばんだその手を優しく握りしめ、ゆっくりと引っ張り上げて少女を立たせてあげた。
「吹っ飛ばしてごめんね」
「……大丈夫」
僕は片膝を着いて少女と同じ目線になった後、体に付いた土ぼこりを掃いて上げた。ふと少女の手を見てみると枯れた雑草のようなモノが握られていた。
「その草はどうしたの?」
「……お母さんが今日誕生日なの。だから……」
「その雑草を?」
「……うん」
う~ん……誕生日に雑草をプレゼントするなんて変わった子だなぁ。普通は花束でしょ……あっそうだ!
「ちょっと待ってね!」
僕は女の子にそう告げると再び裏路地に入り、先程ここに置いたキャリーバックを開けて中からある物を取り出した。
「お待たせ! はい! お詫びと言ってはなんだけど、君にあげるよ!」
「え!? うわぁ!!」
少女はフードを脱いで僕に駆け寄ってきた。少女の顔は泥のようなもので少し汚れていたが、それを差し置いても整った可愛らしい顔立ちをしていた。この顔は日本人離れしているなぁ……僕らの世界で言うところ北欧の……ドイツっぽい感じの印象だ。まだあどけない顔をしているが、将来性が凄い……。
そんな少し邪な考えを抱いていた僕は、少しの間見惚れていたが、すぐに冷静に戻って少女に花束を渡した。
「お母さん喜ぶよ!」
「ふふふ! 喜んでもらえて何よりだよ!」
恐怖で歪んでいたその顔は年相応の無邪気で可愛いらしい笑顔に変わっていた。良かった。これで少しは心を許してくれたかな?
「ありがとうお兄ちゃん! ええっと……名前は?」
「僕? 僕の名前は奏虎鉄操。トランペット奏者さ」
「トランペット?」
「ああ、君にわかりやすく言うと音楽家さ」
僕は空中でトランペットを構え吹くそぶりを見せて説明した。だが少女は『音楽家』というワードを聞いた瞬間、明るい笑顔が少し強ばり、再び警戒した表情になった。ん? どうしたんだろう?
「……お兄ちゃんは
「へ? トロイ?」
トロイ……とろい? 聞いたことない単語だ。記憶を遡ってトロイという単語が僕の頭の中の辞書にないか検索していると、少女が不安げに……いや、心配そうな表情を僕に向けてきた。今はトロイが何かよりも、少女の不安を取り除くべきかな?
「大丈夫。僕はトロイじゃないよ」
その言葉を聞いた少女は「そう」と胸に手を当ててため息交じりに呟くと、再び元の無邪気な笑顔に戻った。
「君の名前は何かな?」
「私はニードリッヒ。ニードリッヒ・アイネバー」
「そう。いい名前だね」
ニードリッヒちゃんは照れ臭そうに俯く。何とも言えないむず痒い空気が流れ、僕は何か話さなければという謎の使命感にかられ、苦し紛れに言葉をひねり出した。
「ニードリッヒちゃんはラージオって人を聞いたことない?」
「ラージオ?」
ニードリッヒちゃんは目を丸くして首を傾げる。う~ん……この反応は全く心当たりがない感じか。というかこんな少女に尋ね人をするのもおかしな話だった。僕はこれ以上追求することなく話をやめて膝に付いた土を叩きながら立ち上がる。
「ありがとうニードリッヒちゃん。お母さんにお誕生日おめでとうって伝えて」
「うん! ありがとうお兄ちゃん!」
そう言うと彼女は走り出していった。途中何度も振り返って僕に手を振り、僕もそれに応えて手を振り返した。そして遂に少女の姿は見えなくなり、再び僕一人となった。
「ふぅ……でも安心した。この世界にはあんな子もいるんだ」
最初の印象が最悪だっただけで、この世界にもあんな心優しい少女がいるという事実をしれてホッと胸を撫でおろす。とはいえ、僕の置かれている状況に変わりはない。
僕は再びフードを深く被り歩き出した。
辺りを警戒しながら、でも不審に思われないようある程度堂々と歩き、周囲を観察する。やはり壁際には倒れこんでいる8割の人間、蠅がたかっているのがわかる。それによく見ると足や手のない人もるようだった。ごくまれにすれ違う通行人の目は生気がなく、痩せこけ口も半開き。涎を垂らしながら目的もなしに歩いているように見える。
「お。広場っぽいところ発見」
それから三十分ほど街をさまよっていると、結構大きい広場に出た。中央には見上げる程大きく立派な噴水が設置されているが、水が出ている様子がなく、水の溜まり場は枯れ果てていた。人もいないしまるで機能している感じがしない。
「とりあえず休憩しよう」
慣れない土地や常に警戒していたから少し疲れた。どこか人目の付かないところで休憩しよう。誰にも見られていないことを確認してから僕はスッと裏路地に入り、鞄から飲み物を取り出して軽く口に含み喉を潤した。
「とりあえず歩いてわかったけど、この街の機能は完全に死んでいるなぁ」
枯渇した街に生気のない人々。ニードリッヒちゃんのような子もいるみたいだけど、基本的に外で見かける人間は植物人間。南米のスラム街でもここよりはマシだろう。
「ラージオって人は……恐らく『大丈夫』な人間だろうけど……」
僕の両親に会わせてくれる為に異世界転移させてくれたり、気を使って裏路地に飛ばしてくれたメタスターシさん程の人物が会話もままならない、又は危険人物に会えというのは考えにくい。ということはここまで来る途中で会った人々の中にラージオという人はいないはず。
「さてと。行動あるのみだ!」
両頬を叩いて再度活を入れ直す。街中歩いて駄目な時は一軒一軒回るさ。
『きゃああああああ!!』
「!?」
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