第2話
廊下で目撃した光景に思考を奪われたまま、どこかふわふわした足取りで校舎を後にし、下校の途に就いた。「東戸ノ上高校」の名が刻まれている校門を抜け、街路樹で区切られた国道沿いの歩道を歩いていく。
立ち並ぶ街路樹の枯れ木で、今の季節が実感できる。今年は特に厳しい冬というわけでもないが、寒いものは寒い。今朝出がけに見た天気予報だと、今日の最高気温は八度だった。
ぱらぱら見られる下校中の生徒たちは、同じように歩いて帰る人もいれば、自転車の人もいる。最寄り駅までスクールバスが出ているため、校門を出る際にバス待ちの列も目に入った。そして、大半の生徒は学校指定の黒いコートを着ている。マフラーを巻いている生徒もいるが、そこに指定はないため、統一されたものではない。僕は黒いコートとグレーのマフラーを身に着けている。
今日はいわゆるテスト休みで、午前中のホームルームだけで下校となっていた。学年末テストも終わり、授業のない三年は、三月一日に行われる卒業式を待つだけだ。とはいえ、まだ進路が決まっていない生徒もいて、今日もクラスでは二人の欠席者がいた。
そんな事情も重なり、下校する生徒は、普段の下校時に比べるとかなりひと気が少ない。時間はまだ朝の十時前、一年生と二年生は一時間目の授業中だ。加えて平日の午前中という時間帯、国道を走る車も少なければ、一般の通行人もあまり見られない。
ヒュウっと、渇いた風が耳と頬を切り裂く。
痛く冷たい。だけど、熱いよりは寒い方が好きだ。夏のじめじめとした生ぬるい空気は苦手だし、春の暖かい風と比べても、冷たいくらいが心地よく感じられた。
そんな寒空の中、駅へ向かって歩みを進める。住んでいるアパートは駅前を中心に広がる市街地を越えた反対側の住宅街にある。学校から歩いて三十分程度の距離だ。
五分ほど歩いてきたところで、後方から
「ミズホちゃん」
と、声が飛んで来た。振り返ると、後ろから二台の自転車がブレーキを鳴らし、僕の横で減速した。
自然と頬が緩む。二人とも、同じ高校に通っている同級生だ。小柄な岸貴志くん、大柄な鶴木聖くん、見た目的には対照的だった。
自転車にまたがった二人は、歩く速さに合わせて地面を蹴って進んでくれる。
「ミズホちゃん、帰んのはええな」
整った綺麗な眉と二重の目が印象的な岸くんが笑う。
「そうかな」
「そうだよ、なぁ」
「うん。俺らも結構早めに出てきた方だよ」
ふっくらとした頬と、太い眉が印象的な鶴木くんが同意を込めて頷く。
確かにホームルームが終わってすぐに教室を出た。否定できずに苦笑いを返し、続けて声を返す。
「鶴くん相変わらずだけど寒くないの? そんな恰好で」
僕と同様コートとマフラーを身に着けている岸くんとは対照的に、鶴木くんは、マフラーはおろかコートも着ておらず、ブレザー姿だった。
「寒くなくはないけど、厚ぼったいの苦手なんだよ。邪魔くさくない? 我慢できないってほどの寒さでもないし」
鶴木くんは、大柄の体型にはちょっとアンバランスなつぶらな目で唇を尖らせる。
「いや、我慢できない寒さだろ。おかしいわ」
岸くんが呆れたように息を吐く。
当然、鶴木くんの格好は今日に始まったことではなく、この時期はいつもこんな感じだ。体型的に大柄なのが関係あるのかは分からないが、寒さは強いらしい。きっとこの先も、こちらの言葉に折れる日は来ないだろう。ちなみに、細身の岸くんは、暑がりかつ寒がりらしい。
「にしてもさ、こんなに早く帰れるんだったら休みにすりゃいいのにな」
不満そうに言ったのは岸くんだった。「確かに」と相槌を打つ。
「学校にいる時間一時間もないしな。家と学校を往復する時間の方が長いくらいだ」
もっともだった。でも学校としては必要なことなのだろう、しかしそれを口にするのも野暮であり、同意する意味で頬を緩めた。
「な、帰るだけならなんか食べに行かねぇか? 俺、朝飯食ってなくってさ」
唐突に、鶴木くんがそう提案した。
「俺は食べてきたよ」
「お前は良いよ。ミズホちゃんは?」
「僕も、一応は食べたけど」
「……よし、じゃあ行こうか」
「話が繋がってないけど」
「話が繋がってねーよ」
僕と岸くんが同時に声をそろえる。
「余計なこと気にすんな」
鶴木くんが強引をまとめ、僕たちは帰り道途中のファストフード店に入ることにした。
岸くんも鶴木くんも、今は同じクラスではないが、小、中、高と、ずっと同じ学校で、何回か同じクラスになったこともあり、気心の知れた仲だった。こうやって集まることも時々ある。気を遣わずに済む、何を口にするかを頭で考えることなく言葉を出せる、そんな居心地のいい時間だった。
店内に入ると、ここでも朝の中途半端な時間帯のせいか、客は少なく、三人で座れる席もすぐに見つけられた。それぞれカウンターで注文したハンバーガーやポテト、ドリンクをトレイに乗せて席に着く。
「ミズホちゃんは今日バイトあんの?」
鶴木くんが、四段に重ねられたハンバーガーを一口かじり、聞いてきた。時間を気にしてくれているようだった。
「あるけど、いつも通り夕方からだから。気にする時間じゃないよ」
自分のハンバーガーを一口かじってから答える。
そして岸くんも同じように一口食べ、
「そういやさ、さっき喧嘩があったらしいの知ってる?」
ドクンと、心臓が脈を打つ。
「喧嘩?」
動揺を隠すように、手元のハンバーガーに視線を向けたまま、もう一口かじり、聞き返した。その喧嘩が、思い当たるそれでないことを願った。しかし、
「うん。直接見たわけじゃないんだけど、なんか廊下で瀬川が朝井を殴ったらしい」
「え? マジで?」
驚きの言葉を返した鶴木くんに、岸くんは「らしいよ」と頷く。
体が硬くなる。口の中のものを必要以上に噛み続けながら、手元のハンバーガーをじっと見つめ続ける。「殴るってほどのものじゃなかったけど」なんと言葉も浮かんだが、口にはできなかった。
「確かに帰るとき、廊下んとこちょっとざわついてたかもなぁ……」
鶴木くんが視線を上げてその場の様子を思い出すよう呟く。
あのとき、瀬川くんが目の前を通って階段を下りて行った後、尻もちをついていた朝井さんは、友人の手を借りて立ち上がった。僕もそこまでは見ていたが、すぐにいたたまれなくなり、逃げるように立ち去った。
きっと朝井さんがそこを離れた後でも、その場の動揺した空気が消えることはなかったのだろう。僕以外にも目撃している人はいた。人から人へ伝染するように移り、その場に残っていたのだろう。鶴木くんはそんな雰囲気を感じ取った。
「でもその二人、瀬川と朝井さんって、付き合ってんじゃなかったっけ?」
「うん、確かそうだった」
鶴木くんの言葉に岸くんが頷くと、同意を求めるように僕を見た。
なんとか「らしいね……」とだけ曖昧な言葉を返す。喧嘩の場面が頭で巡っていたのもあるし、そもそも二人が付き合っているかどうかも、人づての噂でしか聞いたことがない。
「でも、瀬川って中学のころもそんな噂なかったっけ?」
「ああ、喧嘩の噂はあったな」
確かに耳にしたことはある。同じクラスの男子生徒と殴り合いをした、というものだ。他にも、校内でタバコが見つかったとき、その犯人がそうだとか、万引きをしたとか、そんな瀬川くんの噂も耳にしたことがある。
「でも、その噂もどこまで本当なんだろう」
自身をなんとか平静に保ちながら言う。
「さぁ、中学のころの話だし、分かりようがないなぁ」
瀬川くんと朝井さん、岸くんと鶴木くん、僕。みんな、小、中、高と同じ学校だ。とはいえ、岸くんも鶴木くんも、瀬川くんと朝井さんについてそこまで仲が良いわけでもないようだ。同じクラスになったことはあるはずだが「あまり縁のない同級生」くらいの感覚なのかもしれない。
そんな中、岸くんがこの話はここまで、とでもいうように、再びハンバーガーをぱくついた。
仮に「喧嘩を見ていた」と言うならば、このタイミング以外なかっただろう。ここを逃せば二度と自分から言うことはできない。しかし無理だった。口に出すのが怖かった。
瀬川くんの重く響く声――「なんだよ」――。尻もちをついただけとはいえ、手を上げて相手を押し倒した。ドラマや映画、フィクションの世界でしか見たことがない情景。その恐怖が、目撃した情報を言葉にする思考と行動を邪魔をしていた。
そして、それがこんなにも強く焼き付いてしまっているのは、僕にとって、瀬川くんと朝井さんが意識してしまう存在でもあるからだ。いわゆる、幼馴染だから。
小さい頃、三人とも同じマンションに住んでいた。同い年ということもあって、親同士の仲も良く、小学校に入る前から家族ぐるみで付き合いがあった。特に瀬川くんは、部屋が隣同士だったため、小学校の低学年くらいまでは、学校の帰った後や休みの日など、お互いの家を行き来したり、外で遊ぶこともよくあった。
しかし、僕と瀬川くんは小学校から高校まで、一度も同じクラスになることはなかった。小学校でも学年が上がって来ると、次第にそれぞれ学校でできた友人と遊ぶことが多くなり、二人で遊ぶ機会は徐々に減っていった。中学に入ると、学校内で偶然顔を合わせることはあっても、約束をするなどして意図的に会うことは一切なくなった。
一方の朝井さんは、小学校の一年から中学の二年まで、ずっと同じクラスだった。そのため、それなりに話をすることはあった。しかしそれ以降は同じクラスにならず、異性ということもあってか、学校外での接点は無いに等しく、やはり顔を合わせる機会は無くなっていた。
その瀬川くんと朝井さんが付き合い始めたのは、二人が同じクラスになった中学三年の終わりごろだったらしい。直接本人たちに聞いたわけではなく、人づての噂だ。だから二人にどんないきさつがあったかは知らないし、今どうなっているかも分からない。
そんな二人にさっきのあれ。全く知らない生徒同士の喧嘩であったとしても怯えていただろうが、その二人だった。パニック、その一言では片づけられない感情だった。体がすくみ、身動きが取れなかった。しかも、瀬川くんとは目が合った。
その視線が、これ以上ないくらいに、深く、強く、頭の奥を貫いていた。
そんな考え事が頭の中を支配しつつも、岸くんと鶴木くん、三人で一時間程度の時間が過ぎると、ファストフード店を出て、改めて帰路についた。国道沿いの歩道を行き、駅の方へ歩く。
人口八万人ほどを抱えるこの市は、都会でもなければ田舎でもない、そんな街並みだ。さっき入ったような全国チェーンのファストフード店もあれば、牛丼屋も、ファミリーレストランもあるし、コンビニも多くある。本屋もレンタルビデオ屋もある。駅の周辺には、小さな服屋から喫茶店に居酒屋、病院などが入っている雑居ビルがいくつか並ぶ。
駅から少し歩けば、マンションやアパートの並ぶ住宅街が広がる。交通の便も悪くなく、都心まで電車で一時間もかからない。ベッドタウンとして人気があるらしい。
とはいえ、人によっては田舎だと言われる街でもある。数十階もあるような高層ビルやデパートなど、天を仰ぎ見るほどの大きな建物はない。せいぜい十階建ほどのマンションか、あるいは駅前に立つ五階建ての大型スーパーくらいだ。
駅から数十分も歩けば、畑が広がるような場所もある。デパートのような、買い物で品ぞろえを求めたり、おいしいものを食べたり、多くの選択肢を求めるならば、電車で出かける必要もあった。
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