ドアスコープ

笹月美鶴

ドアスコープ

 マンションでの一人暮らし。誰が来るわけでもないけれど、なんとなく、ドアスコープを覗きたくなる。


 俺の部屋は六階の601号室。

 エレベーターを降りてすぐ右にドアがある。

 俺の部屋のまっすぐ奥に向かって廊下があり、右側には他の部屋のドアが十個並び、俺の部屋と突き当りの部屋と合わせて十二部屋の構造だ。

 俺の部屋のすぐ左側はエレベーターと階段、その向こうは手すりで、下にある小さな中庭の吹き抜けとなっている。ようするに、自分の部屋のドアスコープから外を覗くと、この階の人の出入りが全て見えるのだ。


 外に出るときはあまり他の住人と顔を会わせたくないのでまずはドアスコープを覗いて誰かいないか、そしてエレベーターを誰も使っていないか確認してから外に出る。

 前に住んでいた所は廊下の向かい合わせに部屋が並んでいる構造だったのでもちろんドアスコープを覗いても前の部屋が見えるだけだった。

 だから思いのほか見通しの良いこのドアスコープからの風景はなかなか面白い。ついつい用もないのに玄関近くに行くと覗いてしまう。夜、誰もいない廊下を見るのもなんだかゾクゾクした。




 ごろごろと過ごした休日の夕方。別に出掛ける用事はないが、なんとなく玄関に行き、ドアスコープのカバーをくるりとまわして外を覗く。


「ひっ……!」


 思わず、声にならない声が漏れる。

 薄暗い廊下の向こうに何かが、いや、誰かがいた。


 女。


 白のワンピースに顔が見えないほどの長い黒髪という、まるで幽霊の見本のような女が立っている。


 幽霊? それとも、住人?

 幽霊は嫌だが、もしも住人だとしたらそれはそれで怖い。

 あんな気持ちの悪い女が近所に住んでいるなんて勘弁してほしい。


 女は廊下の右側に並ぶドアの一番奥、611号室の前に立っていた。背筋はシャンとしているが、顔は俯いて髪が顔を覆うように前に垂れ、横顔は見えない。


 好奇心からしばらく見ていたが、女は微動だにしない。

 部屋に入らないということは、あの部屋の住人を待っているのだろうか。遊びに来たけど、留守なので家主が帰るまで待っている。そんなところか。


 いやまて。


 このマンションの玄関はオートロックだ。客人だとすると、どうやって入ったんだ?

 入る人にくっついて入って来た。

 まるで空き巣の手法だが、それしか考えられない。

 もしや、ストーカー?

 彼女の待ち人が帰ってきたら、いったい何がおこるのだろう。

 俺は気味悪く思いつつ、少しだけ、ワクワクしていた。


 誰だか知らんが早く帰ってこい。


 そわそわしながらドアスコープを覗くが、住人は帰ってこない。

 数分も覗いていると「何やってんだ俺」と、我にかえる。

 急に気持ちが冷めた俺は目を離し、そっとドアスコープのカバーを閉めた。


 モメ事が起きれば声が聞こえるだろう。

 テレビをつけようとして手に取ったリモコンをそっとテーブルに戻し、耳だけは澄ましながら夕食の用意をはじめる。

 結局、なんの物音も聞こえぬまま、俺は食後の酒にすっかり酔って、いつのまにか眠っていた。



 次の日の朝、会社に行く時間だ。俺はそっとドアスコープを覗く。

 誰もいない。

 女は無事あの部屋に入れたのだろうか。

 ほっと息を吐くと急いで外に出てエレベーターに乗り込み会社に急ぐ。

 一日の仕事を終え、マンションに着いたのは午後十時。夜マンションに着いた俺は緊張した。

 あの女がいたらどうしよう。

 エレベーターから降り、ドアの並ぶ廊下をちらりと見る。


 いない。


 人っ子一人いない廊下にホッと胸を撫でおろして自分の部屋の鍵を開け、素早く入ると鍵をかけてドアガードをカチリと引く。

 一連の動作を終えると俺はホッとしながらなんとなく気になって、ドアスコープを覗いてみる。


 誰もいない。


「はあぁぁぁ」


 俺は大きく息を吐き出して次の瞬間、我にかえる。


「なにビビってんだ俺」


 急に笑いが込みあげて、笑いながらカバンを置いて服を着替える。

 次の日も、その次の日も、ドアスコープを覗いても女はいない。

 忙しさに女の事も忘れかけたころ、女が見つめていた部屋から、住人の遺体が発見された。


 死因は心不全。

 殺された、なら女の事を話そうかとも思ったが、警察は単純な病死と判断した。

 ならば余計な事を言うこともあるまいと、俺は口をつぐんだ。


 それから一年。ときおりドアスコープを覗いてみるが女はそれきりあらわれず、俺は日々の忙しさに追われて女のことなどすっかり忘れたころ、それは、再び現れた。




「あの女だ……」


 朝、出勤前に外を確認しようとドアスコープを覗いた俺の目に飛び込んだ、女の姿。

 白のワンピースに顔が見えないほどの長い黒髪という、幽霊の見本のような女。

 女は廊下の中央あたり、俺の部屋から数えて六つ目のドア、607号室の前に立っていた。


 鼓動が早くなり、俺の心は恐怖に支配される。

 だがまて、今は朝だ。早朝から出る幽霊なんて聞いたことがない。

 外はいい天気で廊下は明るい。女の白いワンピースが光に当たってなんだか清潔そうに見えなくもない。

 髪の長い女が立っている。ただ、それだけだ。

 それだけ……。


 俺はなかなかドアを開けられず、汗をかいていた。あの女は幽霊じゃない。そう思おうとするのだが足が動かない。しかし、このままでは遅刻してしまう。


「幽霊が怖いので今日は休みます」


 なんて、言えるわけがない。「幽霊のせいで遅刻した」もなしだ。

 エレベーターは……一階か。呼ぶのに時間がかかる。よし、階段だ。

 さっと出て、階段に駆け込む。まさか追って来るはずはないだろうが、追ってこないとも限らない。

 女の様子はとてもまともな精神の持ち主とは思えなかった。

 だが、俺は仕事に行かなきゃならないんだ!


 社畜の鑑の精神で俺は意を決して扉を開けた。


「え?」


 女が、いない。

 ドアを開ける瞬間まで俺はドアスコープを覗いていた。

 俺は、幻を見ていたのだろうか。

 やっぱりあの女は幽霊? 人が来ると消える。うん、わりとよくある話だ。

 そうか、幽霊か。

 俺はわけのわからない自問自答を繰り返す。

 いくら目をこらしても女はいない。


 俺はなんとなく、そう、なんとなく、部屋に戻ってもう一度ドアスコープを覗いた。


 女が……いる。


 俺は勢いよくドアを開け、廊下を見た。


 女はいない。


 ドアスコープを覗く。


 女がいる。


 ドアを開ける。


 女はいない。


 いる、いない、いる、いない、いる……。

 

「うわあぁあぁ!」


 結局その日、俺は会社を休んだ。




 その夜、救急車のサイレンがマンションの前で止まる。

 廊下が騒がしくなり、607号室から誰かが運び出される。顔まで布で覆っているところを見ると、生きてはいないのだろう。

 恋人だろうか、担架に縋りつくように泣き叫んでいる女性の姿が胸を締め付ける。彼女が発見者なのだろう。


 一連の様子を俺はドアスコープから覗いて見ていた。

 あの女は、いない。

 警察が訪ねて来ることもなかったので、病死。突然死、というやつだろうか。


 そういえば、この一年の間にも二回、救急車がやってきて誰かを運んで行った。そのあとハウスクリーニングが行われていたようなので運ばれた者は帰らぬ人となったのだろう。

 階が違うから見てはいないが、その住民の部屋の前にも女が立っていたのかもしれない。


 この一年で俺が知っているだけで四人が死んでいることになる。ひとつのマンションでそんな短期間で四人も死ぬなんて、ありえない。

 やはりあの女が死を運んでいるのだ。


 死神。

 それとも、このマンションに巣食う怨霊?


 どちらにせよ、あの女が俺の部屋に来る前に、引っ越さなければ……!





「なかなかいい物件はないものだな」


 ネットで賃貸情報を見ながら俺は溜息をつく。

 今住んでいる部屋は十畳の部屋とダイニングキッチンの1DK。それで家賃は六万八千円。

 立地良し、駅近。


 安い! 安すぎる!

 引っ越し前に気付け俺!

 こんないい部屋がこんな立地で六万八千円なんてあり得るもんか!


 病死だと、特殊な死に方でなければ基本的には事故物件にはならないらしい。

 それでもこんな値段で貸しているということは、管理会社も異常に気付いているということだ。

 くそう、引っ越し先の下調べはもっとちゃんとするべきだった。

 この一年以外にも死人が出ているに違いない。


「高い……」


 今の部屋と同等の部屋だと十万越えしかない。会社から遠くなるわけにはいかないので地域は限られる。


「七万円前後に抑えるならワンルームしかないが……狭っ!」


 俺はぐずぐずと悩みながら考える。

 このマンションは十五階建てだ。部屋数は170室近くある。この階でたまたま二回、女が現れた。他の階の急死騒ぎも女が関係しているなら、同じ階にそうそう連続で現れないだろう。

 少なくとも二度目に女が現れるまでに一年の期間があった。


 この部屋の快適さと、得体の知れない女の恐怖を天秤にかける。

 女はまた現れるだろうか。もう現れないかもしれない。

 現れたとしても、俺のところじゃない。来るはずがない。

 恨まれる覚えもないし、俺は健康だ。


 すぐにでも引っ越せと警鐘を鳴らす自分と、部屋の広さが、家賃がと悩む自分。

 だが俺がここを引っ越したくない理由は、実は、別にあった。 


 602号室に越して来た女性。ドアスコープを覗いていて急に女が横切ったので俺は思わず悲鳴を上げそうになったが、女は602号室の鍵を開けて部屋に入って行った。

 生きた人間であることに胸を撫でおろしつつ、女の横顔を思い出す。


「美人だったな……一人暮らしか?」


 若い女。社会人のようだが年齢は俺と同じくらいに見える。


 それから、何度かその女性と顔を合わせる機会があった。ドアスコープを覗いて女性の行動をちらちら見ていたのは内緒だ。

 彼女が家を出る時間、戻る時間。それにあわせて俺はさりげなく部屋を出て、帰る時間も選んだ。

 彼女とエレベーターが一緒になった時はがんばって挨拶した。向こうからも挨拶が帰って来た時は天にも昇る気持ちを味わった。

 彼女と顔を合わせるのは時々でしかなかったが、それでも挨拶や短い雑談をする程度の仲にはなっていた。

 俺の心は日を追うごとに真剣になった。


 彼女が好きだ。


 この想いをいつか伝えることができるだろうか。

 引っ越し……。彼女のそばから離れたくない。彼女をこのマンションに置いて出て行けない。

 とりあえず、女の事を話すべきか?

 いやいや、頭がおかしいと思われて嫌われる。


 そんな話ができる関係になれば……。


 そうだ、彼女に告白して交際に持ち込むことができたらプロポーズしよう。

 結婚してここを引っ越す。

 完璧だ。


 彼女の部屋に男が出入りする様子はない。

 たまの雑談もいい雰囲気だったと思う。


 俺は女への恐怖など忘れて彼女に夢中になっていた。




 気になる女性の行動をドアスコープから見ている。

 親しい同僚に酒の勢いもあってそんなことをポロリと漏らすと同僚は「まるでストーカーだな」。そう言って、苦笑いした。

 俺はその言葉にカチンときて、思わず怒鳴る。


「馬鹿を言うな! 俺の想いは純愛なんだ!」


 そう叫んで居酒屋の空気を凍らせてしまった。家に帰っていまさらながら顔が真っ赤になる。

 純愛とか……キモい。俺、キモ過ぎる。


 だが、俺の想いは本物だ。

 何も恥じることはない。そうとも、恥ずかしくなんてない。

 俺は火照る顔を枕に埋め、夜が明けるまで悶えていた。




 彼女との関係はだんだんと、縮まってきた気がする。

 それもこれも、俺の努力の賜物だ。


 彼女の出社時間に合わせて俺も家を出る。そうして、名前を聞くことにも成功した。

 たちばなさん、という名前らしい。

 下の名前はまだわからない。


 俺はドアスコープを覗く。

 その頃には、女のことはすっかり忘れていた。

 俺の心にあるのは彼女、橘さんのことだけ。


 橘さん、橘さん、橘さん。

 俺の心は彼女のことで、いっぱいだった。


 今日もドアスコープを覗く。

 早く帰ってこい。

 俺は彼女の帰りを待ちわびた。




「なんか狙ったように出てきてさあ、ちょっと怖いんだよね」


 声が、聞こえる。


「ヤバいんじゃね? こんなとこさっさと引っ越せよ。俺んち、来るか?」

「あんたんち六畳一間のワンルームじゃん。二人も住めないっしょ」

「なんとかなるっしょー。荷物はここにおいとけばいいべ」

「んー、そうだねえ」


 その男は誰だ?


「ねえ怖いから今夜も」

「明日から出張だって言っただろ。荷物の準備もあるし、明日は早いんだ。ムリムリ!」

「薄情者!」

「怖かったら荷物まとめてウチに来な」

「もー!」


 笑ってる。彼女が男と親しげに、笑ってる。


 男がエレベーターに乗り込んで、橘さんは手を振った。

 降りるエレベーターを見送って、橘さんは部屋のドアを開けた。


 俺は、がちゃりとドアを開ける。

 目を見開いた橘さんの顔が、とてもかわいらしく見えた。

 とても、かわいらしく……。




 なぜそんなものを持っていたのか、俺は覚えていない。


 鈍く光る刃が彼女の腹に吸い込まれるのをまるで傍観者のように見ていた。

 自分が包丁で彼女の腹を刺したことに気付くのに、ずいぶん時間がかかった気がする。


 やってしまった。

 もう取り返しがつかない。

 隠すか? 隠せるのか?


 いや、無理だ。

 俺は捕まる。人一人殺したんだから、当然の報いだろう。

 捕まりたくない。捕まるくらいなら、自殺でもしようか。

 とにかく、部屋に戻ろう。

 水が飲みたい。喉がカラカラだ。

 まずは落ち着いて、この事態の後処理を考えよう。

 

 彼女の部屋を出ようとして、俺はつい癖で、ドアスコープを覗いた。


「なんで、どうして……」


 女が、いた。

 ドアの向こうから、まっすぐこちらを見ている。


 その時俺ははっきりと、女の正体を悟った。

 女が死をもたらすのではない。

 死を迎えた者の前に、女が現れるのだ。



 女が見つめるその時、住人はすでに、死んでいる。



 凍り付く俺の視線が見えているのか、髪の隙間から覗く真っ赤な唇の口角が引きつるように上がり、女はにいっと、笑った。


 死せるものの前に、女は現れる。

 死んだのは彼女だけじゃない。俺ももう死んでいるのだ。

 人間としても、社会的にも、もう、死んだも同じ。


 取り返しがつかない。時間を戻すことなどできない。

 俺の人生はもう、終わったのだ。

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