第6話 はじめまして
病院の中もクリスマスカラーがちらほら。あちらこちらでサンタクロースが増殖している。
当然ながらクリスマスにいい思い出はない。
幼い頃はご馳走を食べて、プレゼントをもらっていた。夫婦仲が悪くなるのと同時に、ほしいものは好きに買え。テーブルの上に置かれたお金が増えるだけ。ひとりで食べるクリスマスケーキが惨めすぎて、買うのをやめた。
いつだって願いはかなわない。
奇跡は起こらない。
そのことは、私が一番よく知っている。
「ユイ、心の準備はいい?」
「無理かもしれない……」
一緒に月を眺めた病室に水樹がいる。
会いたい気持ちがふくらんでも、また私の大事なものが消えてしまいそうで怖い。
「ここまで来たんだから、いくよ」
香奈恵さんはずんずん進んでいく。
「カナ兄ぃ、調子はどう?」
「問題はないけど……、香奈恵、だよな?」
少しかすれた低い声が耳に届くと一瞬で胸が高鳴り、涙が出そう。
水樹が無事でよかった。
もう満足。帰ろう! としても無理だった。
「今日は久遠寺ユイさんがお見舞いに来てくれたよ。ユイ、早く入って」
強引に腕をつかまれて、水樹の前に。
形のいい目がじっと私を捕らえるから、頬がみるみる熱くなる。このままじゃ、なにもしゃべれなくなる。だから大きく息を吸い込んだのに、水樹が優しくほほ笑んだ。
「はじめまして、香奈恵の友だち?」
覚悟はしていた。でも、「はじめまして」の言葉を聞くと、胸にぽっかり穴が開く。
「違うわよ、久遠寺ユイだよ。カナ兄ぃの彼女!」
「えっ!?」
ひとまわり大きな声をあげた水樹は「ウソだろう」と言いたそう。さらにじっと観察するような視線を投げつけてから「あっ」と目を見張った。
「ユイちゃんだ。兄貴の病院で迷子になってた……違う?」
私は香奈恵さんと顔を見合わせた。
「ほら、二年ぐらい前に。壁のような坂の上にある病院で」
水樹があたふたしながら説明している。だけどそれは、十年以上昔の話。しかも、
「迷子になったことがあるけど、私じゃない。だって助けてくれたのは、確か……ななちゃん。女の子だった」
今度は水樹と香奈恵さんが顔を合わせる。そしてふたりで笑い出した。
「それ、カナ兄ぃだよ。あたしが香奈恵だからカナちゃん。カナ兄ぃも「カナ」だから、泣き虫の「ななちゃん」」
「そうそう。中学の頃までよく女の子と間違えられたからな。ズボンをはいて髪も短いのに」
楽しそうに笑っているけど、唐突すぎて事情が飲み込めない。
「あれ? やっぱり違った? 僕には智也って兄貴がいてね、病気で苦しんでるのになにもできないから……ひとりで泣いてた。そのときに、小さな女の子が薄暗い病院の中をウロウロしてて……。君に似てたんだけど、年が違うか?」
水樹は首を傾げながら、話を続けた。
「自動販売機の前で立ち止まって、オレンジジュースをとてもおいしそうに飲んでた。名前を聞いたら元気よく手をのばして「ユイちゃんッ!」って答えるからかわいくて」
くすくすと笑ってからすぐにハッとして、「かわいかったけど、好きとかそういうんじゃなくて」と、顔を赤くしながら慌てふためいている。
時々少年のような笑みを浮かべるけど、水樹はいつも落ち着いた大人だった。今の水樹は別人みたい。
「きっとそれ、私です」
「やっぱり? ユイちゃんのおかげで僕の考え方が変わったんだ。命は救えなくても、人助けはできるだろ。僕にもまだやれることがあるかもしれないって、救われた。ありがとう」
深々と頭を下げている。
「すごいよ、ユイ。そんな昔から知り合いだったの?」
「……違う。知らなかった」
なんだろう。とてもすごい偶然なのに、嬉しくない。
「ユイのことは覚えてなくても、ユイちゃんを知ってるなら、また付き合えるよ。ね、カナ兄ぃ」
香奈恵さんは嬉しそうなのに、水樹は顔をしかめた。
「ユイちゃんはまだ高校生だろ。僕は……何歳だ? 香奈恵の話だと高校で先生やってて、教え子と? 付き合えないでしょう。普通は」
今川さんに「僕は生徒を女性として見ていない。生徒は生徒だ」と言い切ったときと同じ目をしている。
人懐っこさも親しみもない、教師の目。恋愛対象のカテゴリーから外された。
やっぱりな、という冷めた気持ちと、胸の奥底から熱く込み上げてくるものがある。
出会いは不思議だった。
春、新緑の季節に出会って、夏の暑さの中で想いが通じた。秋には淡い月明かりのもとでかけがえのない時間を手に入れて、冬は、やっぱり凍える季節になりそう。それでも私は、水樹に伝えたいことがある。
「私の家族はバラバラで、ずっといいことなんてなかった。でも、水樹と出会えて変わりました。香奈恵さんは本当のお姉ちゃんみたいだし、水樹がいるだけで心強かった。寂しさや不安も薄くなって、最強になった気分でした」
はじめて出会ったとき、水樹は子どものように目を輝かせて、よくわからない話を一生懸命していた。
指切りをして、悔しいほど爽やかな笑顔を見せてくれた。
形のいい目に寂しさが浮かぶとなぜか気になって、どんどん好きになっていった。
「ありがとう、水樹。いつも助けられてばかりだったけど、幼い私が水樹を救っていたなら、私は「いらない子」じゃなかった。それだけで、もう……」
「ちょっとユイ、それじゃまるでお別れしてるみたいな言い方だよ」
香奈恵さんが愕然としておろおろしている。心の中でごめんなさいと謝って、ぐっとお腹に力を入れた。
「私はユイちゃんって呼ばれたくない。親しみを込めた声で、ユイって呼んでほしかった。結構大変だったんだよ。名前で呼んでもらうの」
ニシシと笑って見せた。
水樹の中にいる私をユイちゃんにしたくない。私は水樹と一緒に青い空を眺めた、久遠寺ユイだ。
「とにかく、水樹が無事で本当によかった。香奈恵さんもありがとう。私は大丈夫。強がってないよ。長居はできないから、これで」
ぺこりと頭を下げて、病室を出た。
都合のいい奇跡は起こらない。わかっていた。だから泣くもんか。
手をギュッと握りしめたのに、
「ユイッ! 待ちなさいよ」
香奈恵さんが追いかけてくるから、唇が小刻みに揺れる。
こらえていた最初の一粒がこぼれ落ちると、あとはボロボロだ。
「うぅっ……私のこと、全然思い出してくれなかった」
「ごめんね、ユイ。やっぱり辛い思いをさせちゃって」
「香奈恵さんは悪くない。水樹のバカァァッ!」
ぐしゃぐしゃに泣いてしまった。
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