第5話 わからなくなった

 まだ十一月なのに、きらびやかなイルミネーションが輝きはじめた。

 静かな街にクリスマスカラーがあふれて、ジングルベルの軽快なリズムが流れる。

 きっと誰もが華やかで明るいこの季節を楽しむのに、どうして私だけ……という気持ちでいっぱいだ。「もっと自立したら?」なんて言われても、どうしたらいいのかわからない。

 思い悩んでいると、香奈恵さんからメールが来た。


『連絡が遅くなってごめん。眠り姫が目を覚ましました。会いに来る?』


 水樹は無事だった。嬉しくて泣き崩れたけど、私の「ごめんなさい」にはまったくふれていない。

 優しさを感じれば感じるほど、胸が痛くなる。

 そして胸の痛みはひとつじゃない。水樹に会いたくても、一番大変なときに逃げ出そうとした自分が許せない。トゲのように刺さった今川さんの言葉も、抜けそうにない。

 返事ができないまま、一日、二日と過ぎていく。


 十日目には、しびれを切らせた香奈恵さんがやってきた。

 花のような顔をほのかに白く浮かびあがらせながら、きつく、挑むような視線を投げつけてくる。


「どうして返事をくれないの?」

「ごめんなさい」

「カナ兄ぃに会いたくないの?」


 首を横にふった。


「じゃあ、どうして。ユイならすぐ飛んでくると思ったのに」

「自分のことしか考えてなかったから」


 香奈恵さんは理解不能、と言いたそうな顔をして眉根を寄せた。


「あたしだって自分のことしか考えてないわよ」

「香奈恵さんは水樹のことよく考えてる。私にはできない。怖くて、ただ怖くて、逃げ出そうとした」

「そりゃ、大切な人が危篤になったら気も動転するよ」

「水樹がなにかを伝えようとしたのに、わからなかった」

「あたしにもわからなかったわよ」

「でも香奈恵さんは、一番に水樹を支えて」

「家族だから当然でしょう」

「だけど……」


 あ、そう。と苛立つ声がした。


「それじゃ、もう二度とカナ兄ぃには近づかないでね。せっかく認めてやろうと思ったのに」


 残念ね、とつけ加えてから、信じられないことを口にした。


「ユイがウジウジして来ないから、カナ兄ぃは巨乳の看護師さんとお付き合いすることになりました」


 耳を疑った。

 でも薄情な私より、看護師さんが傍にいてくれた方が水樹のためになる。それでもいきなりすぎて、言葉が出ない。

 今までのすべてが消えていく喪失感は、想像以上に胸をえぐってきた。込み上げてくる涙をこらえるために下唇を噛んでも、視界がにじむ。


「はあ、まったく。この世の終わりみたいな顔をしないでよ。冗談よ、冗談。全部ウソです」

「言っていいことと」

「悪いことがあるんでしょう。わかってるわよ。これでユイからの「ごめんなさい」はチャラにしてあげる。……でもね」


 本当に困ったことが起きた、とため息をついた。


「カナ兄ぃの意識が戻っても免疫力は落ちたままだから、五分以上の会話ができなかったの。だから、気づくのが遅れた。今日はその話をしに来ただけ」

「また悪い病気になった……とか? もう嫌だよ」

「そうじゃないけど」


 香奈恵さんは腕を組み、「んー」とうなって、眉間のしわを深くした。それからしばらく考え込んで「記憶がない」とつぶやく。


「薬の副作用なのか、精神的なものか。呼吸が止まったとき、脳にダメージを受けていたのか。まったくわからないけど、ここ数年の記憶が飛んでる。記憶喪失みたいな?」

「そんなこと、あり得るんですか?」


 記憶喪失は漫画やドラマの世界だけ。あのしっかりした水樹が? 信じられない。


「体の防衛反応で辛い体験を封じることはあるし、正常な心拍数を維持するための薬や、鎮痛剤にも記憶障害を起こす副作用があるから、ない話ではないけど……。あたしもこんなことはじめてだから戸惑うしかなくて。もちろん、はじめは普通だったのよ。奇跡的な回復を共に喜んで。でも」


 水樹は首を傾げて「香奈恵……だよな?」と何度も聞いてくる。そこから違和感を覚えて、会話を続けていくうちに、苦しすぎる闘病生活をすっかり忘れていることに気がついたらしい。


「辛かったことを忘れてるなら、よかったかも。水樹は本当に苦しそうだったから」

「それが、ユイのことも覚えてないの」

「えっ?」

「確実にここ数年の記憶はないし、たまに十年くらい前の記憶も失ってる。日によって症状が違うから、やっぱり薬が悪いのかな。熊谷先生は脳の検査と薬を変えて様子を見るしかないって言ってたけど、ユイはどうする?」


 どうすると聞かれても、目を白黒させるしかない。


「記憶がなくてもカナ兄ぃはあたしのこと覚えてるし、入院中だから生活も変わらない。別にどうでもいいけど、もしかしたらって考えちゃうわけ。ユイならカナ兄ぃの記憶を取り戻せるのかなぁ、って」

「そんなこと、私にできるの?」

「わからない。病気って想像以上に残酷で無慈悲だから、ユイが傷つくだけかもしれない。無理強いはしたくないから、どうする?」


 香奈恵さんは真面目に話しているけど、まだ信じられない。もし本当なら、青すぎる空の下で一緒にお弁当を食べたことも、好きだからと言ってくれたことも、全部消えてしまう。それは私からすべてを奪うことだった。でも――。

 

「……会ってみる」

 

 私の前世は悪人かなにかだったのかな? どうしていつもこうなるのか、考えてもわからない。

 今川さんに「あなただけが不幸だと思わないで」と言われたけど、どこをどう見ても不幸でいっぱい。


「大丈夫? カナ兄ぃは本当にユイのこと覚えてないよ」

「きっと泣き出すと思う。それでも会いたい」

 

 だんだん腹が立ってきた。

 自ら進んで不幸に飛び込もうとしている。 

 水樹に会っても「あなたは誰ですか?」という視線を向けられて、ボロボロとみっともないほど泣くんだ。

 私に明るい未来なんてひとつもない。それならどん底まで落ちてやる。

 半ば自暴自棄になりつつ、信じてみたい気持ちがかすかにあった。


 水樹ではなく、私を。


 心には、真新しい風がすっと通り抜けるような感覚がある。

 目を閉じればいつだって、雲ひとつない青い空が見える。

 鏡のような輝きの中で、朗らかに笑う水樹がいる。

 水樹が忘れても、私が覚えていればいい。

 

 これが綺麗事なのかどうか。会って確かめたい。





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