僕の過ち

第1話 欲情

 臆病な僕は、きっと治療に耐えられないだろうな。

 みっともない泣きごとを言って、苦しんで、当たり散らして――死ぬ?

 娯楽の少ない病室に閉じこもっていると、くだらないことばかり考えてしまう。

 生まれてきた者は必ず死ぬ。その時期が早いのか、遅いのか。違いはそれだけ。

 智也の命が消えたのは早かった。


 はじめはよく笑っていたのに、食べることも水を飲むこともできなくなった。

 点滴をすれば嘔吐を繰り返して、拷問を受けているようにしか見えない。こんなにも辛い思いをしているのだから、必ず治ると信じていた。

 励まして、未来の話をして、頑張ろう……。そればかりを繰り返していた。

 だから罰が当たった。


 教師の仕事もうまくいかない。

 気分の浮き沈みが激しくて、ふらりと屋上へ足を運んだ。

 鉄の扉にぶら下がった南京錠に手をかけたとき、なぜか智也の死に顔が浮かんだ。

 柩の中で眠る姿。たくさんの花に囲まれて綺麗だった。悲しいはずなのに、「よかったな」と。

 僕は酷い人間だ。

 そして南京錠の鍵は、智也が死んだ八月二十七日の四時、八二七四で開く。

 扉の先に、智也が待っているような気がした。


 でも僕の目に映ったのは空。

 地上から仰ぐ空とはまったく違う色をした、青い空。

 鏡のように輝いて、僕を圧倒してくる。

 狭い病室で「……殺してくれ」と頼んできた智也に、一番見せたかった色がそこにあった。


 それから度々空を眺めて気がついた。

 理不尽はいつも突然やってくる。

 ちっぽけな僕ひとりの力では、どうすることもできないのに、足掻いて、もがいて、立ち向かおうとする。だから苦しい。

 この世から僕が消えても、空の青さは変わらない。智也の死もそれと同じ。

 薄情な考えだが、どうにもならないことが世の中にはたくさんある。

 諦めることも大切だと。


 今の僕はどうだろう。

 健康な香奈恵の体を傷つけてまで生きたいか?

 それよりもっと酷いことをユイにしてしまった。

 なにかあったら僕が助けにいく、そう約束したのに守れない。

 夏休みの屋上で、終わりにしておけばよかった。


 ――学校を辞めたら……、私は生徒じゃない。水樹には関係ない人になるんだ。


 ユイの言葉に、思わず「そうじゃない」と言ってしまった。

 驚くほど素直な気持ちをぶつけてくるから、僕もウソがつけなくなった。

 いつからだろう。ユイが特別になったのは。

 なにかに怯えて落ち着きをなくしたユイが、僕の姿を発見すると、目にパッと光が宿る。そして嬉しそうに駆け寄ってくる。

 表情が豊かだから、眺めているだけで面白いし、心が安らいだ。


 でも、唯一の安らぎだったユイに、ギラギラと輝く太陽の下で、僕はなにをしようとした?

 手のひらについた血を眺めて、病の重症化を悟ったのに、僕は……。

 唇の端についた血を、ハンカチで拭ってくれたユイに。

 柔らかい小さな手が僕にふれたから、その手をつかんで――。


「……まいったなぁ」


 あのとき、突然沸きあがった抑え難い欲情。

 前髪がふれると甘い香りがして、ほしくなった。

 まだ幼い高校生の生徒を、自分のものにしたくなった。

 口の中に残る、錆びた鉄のような苦々しい血の味がなければ。

 目が覚めるような冷たい風が吹かなければ、ユイの真っ白な未来を壊していたかもしれない。

 生命の危機を感じて自暴自棄になった醜い心に、巻き込もうとした。……いや、もう巻き込んでいる。


 僕の役目はユイをサポートすることだった。

 友人関係や勉強。少しでも高校生活が楽しかったと笑えるように、ほどよい距離を取って「いい先生」でいるべきだった。

 ユイの未来は無限に広がっているから、取り返しのつかない深い傷を背負わせてはいけないのに、夏の暑さにのぼせて流された。


 ユイを手放したくない。これは僕の、無責任なわがままだ。

 香奈恵がいたら、「うじうじ悩んでバカじゃない。さっさと病気を治して、会いにいけば?」って、笑われそう。

 あいつの強さが羨ましい。


「カナ兄ぃ、起きてる?」

「うわッ、びっくりした。今日はもう来ないと思ってた」

「そんなに驚かないでよ。ユイに本を渡して、もう大変な一日だったのよ」


 肩を回して「ユイが」と、つけ加えた。


「なんで本を渡すだけで、大変な一日になるんだ? しかもユイがって」

「そりゃ、あたしがユイの家までいったからよ」

「学校に来てなかったのか?」

「いたわよ。紺野陽菜って暴力女に蹴り飛ばされそうだったから、あたしが助けてきた」

 

 状況がよく飲み込めない。

 僕がいない間に、ユイを助けてくれたのはありがたい。だが、香奈恵が余計なことに首を突っ込んだことだけはわかる。

 

「ユイは……大丈夫だったのか?」

「うーん、大丈夫なんじゃない。あたしが暴力女を平塚先生に突き出したから」

「おまえはいったい、なにをやってんだ」

「こっちが聞きたいわよ。それよりも、ユイのマンション。あれ、なに」


 香奈恵は興奮した様子で、高級ホテルのようなエントランスにコンシェルジュがいて、セキュリティレベルの高さを語った。

 父親が有名人で金持ちなのは知っている。それでもまだ想像以上の場所に住んで、裕福な暮らしをしているのかと思うと、苦笑いしか出てこない。


「家の中も豪華だったのか?」


 頬を引きつらせて尋ねたが、香奈恵の顔がすっと平らになった。








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