第2話 あなた、誰
しばらく平塚の言葉が理解できなかった。
ただ手にぐっと力が入って、シャーペンの芯がパキッと折れた。それからやっと声が出る。
「どこか悪いの?」
「さあな。でも教師にはよくあることだ。胃に穴が開いたとか、精神疾患とか」
「水樹、死んじゃうの?」
「バカなこと言うな。見舞いにいったら元気そうにしてたし、大丈夫だろ」
「見舞いって、どこの病院? ここから近いの? すぐにいける?」
質問攻めの私を見て、平塚はニヤリと笑った。
「このテキスト、残り十ページ。全部終わらせて、小テストでいい点数をとれば教えてやる」
「卑怯者め」
「そんなに睨むな。最近の水樹先生は大変だったから、体調を崩しても仕方ないかな」
「非常勤だし、暇じゃないの?」
「非常勤でも先生の仕事は大変なんだぞ。バカにするな」
「してないですぅー。知らなかっただけですぅー」
唇をとがらせて、そっぽを向いた。
「久遠寺、よく聞け。水樹先生は、おまえと紺野のトラブルに介入して、問題になったんだ。ほら、紺野は成績優秀で期待の星だろ。非常勤なのにその生徒を泣かしたら、上からも保護者からも吊し上げ」
「陽菜が悪いのに?」
「正しいことをしても、すみませんでしたと謝る気持ち、おまえにはわからないだろうな。あれじゃ胃も痛くなる。おまけに数学研究室だ」
胸にぎくりときた。
「狭い部屋にふたりでいるところを、何度か目撃されている。変な噂になる前に注意しようと思ったんだが、おまえも水樹先生も眉間にしわ寄せて、険しい顔でテキストと睨めっこだもんな。あれはほほ笑ましかったよ」
優しさの塊のような水樹でも、勉強になると甘えを許さない。妥協も一切しないから、数学の成績はぐんとのびた。
「まあ、久遠寺パパに感謝だな。寄付金のおかげで数学研究室のことは黙認。数学ができるようになったから、おまえの首も皮一枚でつながっている。あとは英語だ。早く終わらせろ」
「あー、やだ、やだ。あんな人の世話になっているなんて」
「人気俳優なのに。昨日もテレビで」
「うるさい。勉強の邪魔」
「久遠寺、もうちょっと口の利き方に気をつけろ」
グチグチと言い合いながら、テキストを解いて暗記していく。これが水樹なら、愚痴や文句をこぼすたびに、問題が一問ずつ増えたっけ。最終的には一言の文句も許さないほどスパルタだったから、数学は解けるようになった。
「できたッ!」
電子辞書を頼りつつ、テキストを終わらせた。小テストは「やり直し」を三度くり返してから、合格点をとった。
「水樹はどこの病院にいるの?」
「ここからそれほど遠くない距離だ」
平塚はスマホを開いて教えてくれた。
制服のままでいくなら、学校の恥にならないようにと釘を刺してくる。いちいちうるさい。
「いいか、五階のナースステーションに面会受付ノートが置いてあるから、まずはそれに記入する。もし看護師さんがいたら、きちっと挨拶をしてから病室にいけ。そうそう、病室では静かにしろよ。苦しくて入院している人もいるから、絶対に大きな声は出すな」
まるで幼い子どもに一から教えるような口調だった。しゃくに障るけど、今は水樹のことが心配すぎて反抗する気になれない。
ノートも筆箱も乱暴にしまって、弾丸のように飛び出した。
空調のきいた教室から一歩外に出ると、むわっとした夏の暑さが容赦なく襲ってくる。それでも長い廊下を走って、階段は三段飛ばしでおりる。
無機質な四角い病院が見えるまで、汗が滝のように流れても走り続けた。
「ここか……」
汗を拭いて、病院の自動ドアをくぐり抜けた。
診察時間外なので、一階の外来は電気が消えてひっそりしている。入ってはいけない場所に足を踏み入れているようで、暑さの汗とは違う汗がにじむ。逃げるような足取りでエレベーターに向かった。
病院は、騒々しい学校と違ってとても静か。誰もが小声でぼそぼそとしゃべって、当然だけど笑顔がない。点滴をした人とすれ違うと、変に身構えて心が落ち着かない。なぜかどんどん緊張してくる。
五階のナースステーションに到着する頃には疲れ切っていた。
「あれ?」
面会受付ノートの場所はすぐにわかったけど、ナースステーションには誰もいない。
ここで水樹の病室を聞こうと思ったのに、もぬけの殻だ。
「探してみるか」
軽い気持ちで歩きはじめた。
でも廊下は看護師さんの忙しそうな足音と、ストレッチャーを押す音であふれている。「すみません」と声をかけても、「お見舞いの方はナースステーションで――」と言われて終了。自力で探すしかない。
ここでふと気がついた。
どの病室にも入院患者の名札がなかった。
部屋番号の下にネームプレート入れがあるのに、空っぽ。これじゃどこに水樹がいるのか、まったくわからない。
困り果てて立ち止まっていると、パジャマを着た人がジロジロ見てくる。制服姿の私は、完全に場違いなところにいるようだった。
「どうしよう……」
近くの病室をのぞき込んだ。
四人部屋のようだけど、どこも薄い緑色のカーテンで閉ざされている。
ズカズカと中に入って、カーテンを開ける訳にはいかない。完全に詰んでしまった。
でも、一番奥のカーテンから「またな」と、小さな声がした。
その声に私の心臓が大きく反応する。
短い言葉だけど聞き覚えのある声に、胸が熱くなった。
「水樹ッ」
平塚から「病室では静かにするように」と、口酸っぱく言われたのに、嬉しさが勝って大きな声が出た。
「あなた、誰?」
一番奥のカーテンから出てきたのは、水樹じゃなかった。
長い黒髪をひとつに束ねた女が、怪訝そうな顔をしている。
さっきのは絶対に水樹の声だった。間違えるはずない。それなのに、知らない女が現れた。眉間にしわができるのを感じた。そして「あなたこそ、誰?」と聞く前に、女の後ろからヒョコッと水樹が顔を出した。
「ユイ、どうしてここに?」
入院したと聞いて心配した。私のせいで本当に胃に穴が開いていたら、どうしようと不安だった。
ぶっ倒れそうなほど暑いのに、ずっと走ってここまでやってきた。
その結果がこれ? また知らない女がいる。
ツカツカと靴音を立てて病室の奥までいった。
腹が立つ。
新たに現れた女を押しのけて、私は水樹の胸ぐらをつかみ上げていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます