(7) あんぽんたん

 女将がまたすぐ手元に視線を落としたので、何故かほっとしながらスマホを打つ。

 こんなドキドキを味わえる呑み屋もないだろう。


>>どこにいるんだよ?


 そう送ってしばらく待ってみたが、返信が来ないばかりか既読にすらならない。

 本当に来るつもりなのかどうか。半信半疑の信と疑の割合が行ったり来たりしながら、奥播磨が進む。

 アルコールが回り始めると、意識は過去に飛んだ。


 尋深との出会いは大学のテニスサークルだった。そのサークルへの入会の決め手になったのが、見学に行ったコートで見た彼女の姿だったことは誰にも打ち明けたことがない。もちろん尋深本人にも。


 小学校の頃から父親の趣味につき合わされる形で、近所のテニススクールに通っていた。中学では軟式テニス部しかなかったのでスクールに通い続け、高校進学と同時にスクールをやめて硬式テニス部に入った。自分なりに真剣に取り組んではいたし、それなりの成績も残せたものの、三年最後の大会で膝を痛めてしまった。その怪我は治ったものの、大学ではもっと気楽にテニスをしようと決めていた。


 大学に入って驚いたのがテニスサークルの数の多さだ。はじめはどこでもいいかと気楽に考えていたのだが、調べてみるとそうもいかない。テニスそっちのけで合コンやパーティに明け暮れている飲みサーと呼ばれる団体も多かったし、さらに過激で下品なサークルはヤリサーと陰口を叩かれていた。


 正直なところ女子との楽しい出会いを夢見ないわけはなかったが、最低限の品性とプライドは捨てたくなかった。外から眺めているだけでは各サークルの実態などよく分からないので、体験入会を繰り返しているうちに、春らしい季節は通り過ぎてしまっていた。


 きっかけは何かの講義でたまたま隣の席に座っていた同級生の日坂幸人ひさかゆきとだ。


「早く決めないと夏休みになっちまうぞ」


 この時点で特に仲が良かったわけではなかったけれど、話してみれば気さくな男だったし、悪い人間ではなさそうだった。

 彼の方は早々にテニスサークルに入っており、同じサークルに入るよう熱心な勧誘を受けた。


「新入生が少なくて寂しいんだよ」


 それが勧誘理由だ。


「少ないわりに女子のレベルはそこそこ高いぞ」


 それがセールスポイントらしかったが、この時点では眉唾だ。そこそこという言い方がもう怪しい。


「ちょうど今日はキャンパスのコートが使える日なんだ。とりあえず見に来いよ」


 APTテニスサークルという胡散臭うさんくさい名称が少し気にはなったものの、まだ体験入会もしたことがないサークルだったので断る理由はなかった。

 その日、二面使っていたコートにいたのは十二三名。名簿上は五十名ほどのメンバーがいるらしいが、常時参加しているのはだいたい十数名だけということだった。


 紹介された先輩に挨拶をして、日坂と並んでコート脇のベンチに腰を下ろした。

 その日APTが使っていた二面のうち、奥の一面を使っている女子三人は初心者のようで、先輩らしき男子学生が球出しをしながら指導をしていた。


「APTって何だ? 男子プロテニス協会か?」


 そんなはずはないことは分かっている。


「それはATPだろ。APTの由来は誰に聞いてもよく分からないんだ。だから今ではアンポンタンの略だってことになっている」


 日坂は馬鹿馬鹿しいだろと笑いながら、自分のバッグからウィルソンのラケットを二本取り出して、一本を差し出した。


「今日はこれを貸してやるよ。向こうのコートが空いたら俺とラリーしようぜ」


 手前のコートには四人が入ってクロスラリーが行われていた。どの人も小気味よい音を響かせて、生きのいい球を打っていた。

 初心者が練習している奥のコートからは、ほとんど打球音が聞こえてこない。ただ一人だけ、音はそれなりながらも常にホームラン性の当たりをかっ飛ばしている女子がいた。赤いジャージに白いTシャツ。三人の中では背が高く、ラケットを振るたびに束ねた明るい色の髪が大きく揺れていた。

 ちょうど日坂もその女子を見ていたようだ。


「あの子はちょっと力み過ぎだよな。こないだももう少し力を抜いた方がいいよって言ったんだけど」


「でも……」


 すごく楽しそうだという感想を飲み込んだ。

 それが彼女、中和泉尋深だった。

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