(2) 希 —— Nozomu ——
このままじゃ駄目だ——。
そんな衝動に駆られて、外に出たんだ。
衝動の正体は自分でも掴みかねていたけれど、いくら緊急事態だ外出自粛だとはいえ、ずっと家の中にいたんじゃ気が滅入ってしまうのは誰しも同じだろう。
我が家ではムードメーカーのはずの母さんが、このところずっと
在宅勤務が増えている父さんが家事を引き受けて母さんを休ませているようだけど、どうやら体調が悪いわけではなくて精神的な問題のようだ。一度は夜中に僕の部屋に来て、しくしくと泣き出したこともあった。僕はどうしていいか分からずにおろおろとするばかりだったけれど、気づいた父さんが宥めながらリビングの方へ連れて行ってくれた。
連日どの時間にどのチャンネルに合わせても新型肺炎ウイルスの話題ばかり。ああ見えて実は神経の細いところがある人だから、精神的にまいってしまうのも無理はない。各国が協力し合って治療薬やワクチンの開発を進めていると聞くし、この事態もいつかは収束するだろう。母さんもまたいつもの陽気さを取り戻すだろう。
それまで僕の方まで参ってしまわないようにしなければ。
家でごろごろと過ごしている格好のまま、シューズを履いただけでランニングのスタイルになる。いつしか足は川沿いに広がる公園に向かっていた。
外出自粛とはいえ、毎日夕方のジョギングは欠かさなかった。そのはずだった。なのに、どうしてだろう。こうやって外の空気を吸うのはずいぶんと久しぶりな気がする。
視線を上に向けると、穏やかで人の好さそうな白い雲が春らしい割合で青い空を占めていた。
不意にその青の中に吸い込まれるような感覚に襲われて、足を止めた。
——なんだ?
はじめての感覚だった。
膝に両手をついて、息を整える。
立ち眩みというやつだろうか。
走っている最中にこんな感覚に襲われるのは初めてだ。
一度大きく息を吸って、吐いた。
恐る恐るスローペースでまた走り始める。
足はしっかり地面を蹴ることができている。
大丈夫だ。
何ともない——。
少しスピードを上げた。
中学校のフェンス越しに見える桜はすでに散り、緩んできた寒さと中途半端な暖かさを繰り返しながら、季節は少しずつ進んでいる。
なのに——。
自分はずっと同じ場所に留まったままのように思えて、
本来ならば、初めての一人暮らしが始まっているはずだった。
東京で部屋も決め、必要な家電や家具も揃えて荷物も送った。公共料金の契約も済ませて、家賃だって支払いが始まっている。
高校の卒業式に続いて大学の入学式の中止が発表され、一時的に帰省したタイミングで広域移動制限を含む緊急事態宣言が発令されてしまい、完全に身動きが取れなくなった。
せっかく合格した大学は研究者以外のキャンパスへの立ち入りが禁止されている。
スマホで履修登録は済ませ、一部の講義はオンライン形式で行われてはいるものの、大学生活が始まったという実感など湧くはずもない。
大学は5月下旬頃までにシステム環境を整備して、全面的なリモート講義を実施できるよう準備を進めているらしい。
でも、そんなものは求めてない。
大学案内の豪勢なパンフレットに描かれていた華やかなキャンパスライフは、いったいいつになったら始まるのやら。
少しがらんとした実家の自分の部屋で、見慣れた天井を眺めながら無為に時間を浪費している毎日。
時間の浪費はすなわち人生の浪費だ。無為な時間に人生が侵食されている。
今までそんなことを思ったことなんてなかったけれど……。
講義が遅れた分は、夏休みを減らせば辻褄が合うのかもしれない。でも、人生というものはそんな理屈通りに辻褄合わせができてしまうものなんだろうか。単純に考えてみても、この何週間かを無かったことにしてしまうわけにはいかないだろうに。
大学進学。初めての一人暮らし。
そんな人生のターニングポイントになるはずの時期と新型ウイルスが重なってしまったものだから、余計にあれこれ考えてしまうのかもしれない。
一番
新しい生活は、忘れてしまいたいことを忘れさせてくれるはずだった。それなのに、心の奥底に沈めたはずのものが、ぷかぷかと水面に漂っては心を乱す。
ベッドの上でゴロゴロしているばかりだと尚更だ。
ノイズキャンセリングを効かせたイヤホンで音楽を聴いていてもノイズは内側から湧き上がってきて、気がつけば曲は耳に入らなくなって、同じことばかりを考えてしまっている。
ずっと片想いで終わってしまったあの子のことを——。
こうやって外を走っていても、やっぱり思考は彼女のところに行き着いてしまう。
きっと世界のどこでも報道されることがない、新型肺炎ウイルスがもたらす
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