《連作短編集》十五光年先の

西乃狐

【第一話】希と望/あなたとわたし

(1) プロローグ —— Nozomi ——

 「ほんとに玉葱だけでいいんだね?」


 キッチンに向かってそう念押ししたら、包丁片手に顔を覗かせたママは、返事の代わりに怪訝そうな表情を投げてきた。

 

——しまった。黙って行くんだった。


「あなた、そんな格好で行くつもりなの⁈」


 ママはとても身形みなりにうるさい。

 昨夜ゆうべ遅くまで、ラジオを聴きながらうとうとしていた。日の出が近づいた頃にお風呂に入って、この格好に着替えて、そのまま昼過ぎまで寝て起きて、朝昼兼用のごはんを食べて、また部屋でぐだぐだ過ごした。


 その間ずっと同じジャージのまんまだ。Tシャツは高校の体育祭で作ったクラスTだけど、ジャージの上着を着てしまえば見えなくなる。髪が少しぼさぼさなのはちょっと気になったので、キャップを被ることにした。さらにマスクもしているし、そもそも誰に会うわけでもない。


「玉葱買うだけだし、大丈夫だよ」


 ここでOKが出なければ、ママの方が折れることはない。


「だめよ。いつどこで誰に会うか分かんないんだから、ちゃんと着替えて行きなさい」


「えーっ、いいよお。誰にも会わないって」


 ダメ元で抵抗してみた。けど、やっぱりダメ元はダメ元だ。


「だーめ。今日に限ってイケメンがたくさん街に繰り出してるかもしれないじゃない」


 仮にそうであったとしても何の関係ないと思いつつ、最後の抵抗はほとんどひとり言に成り下がってしまった。


「……んなわけないじゃない」


「なんか言った?」


「別にぃ」


 おとなしく部屋に着替えに戻ったのは、もちろんイケメンに目が眩んだわけじゃない。ふと彼の顔が頭に浮かんだからだ。


——もし、もしも、彼とばったり出会ってしまったら。


 そんな可能性は二階からの目薬が命中するくらいゼロに近いと分かっていながら、一度そう思ってしまったら無視は出来ない。問題なのは可能性の高低ではなく、内容の重要度なのだと思い知らせてくれる典型例だ。


 ああ無駄な労力だ無駄な時間だと一人ごちつつ、三着目に手に取ったワンピースに着替えた。髪の毛ほか諸々もろもろを整えて、再び玄関に向かうまで実に四十分。


 でも、そこからさらに二十分ほどあと、わたしはママに感謝することになった。


 商店街の八百屋で玉葱を買ったあと、本屋の店先で雑誌を立ち読みしているところに、ジョギング中の彼が通りかかったからだ。


「ひ、久しぶり。元気?」


 しかも、彼の方から立ち止まって、声を掛けてくれたではないか。


 持っていた雑誌を胸の前に抱くようにして、俯いて、ソーシャルディスタンスと言われる程度の距離から彼の方に身体を向けた。


 二人きりで話すなんていつ以来のことか。ほかのことなら記憶の保存期限が経過してしまっているところだ。


 最後に友達と連れ立って歩く彼を見かけたときから比べても、彼の背がまた伸びたような気がする。でも、一瞬だけ見上げたマスクの上の優しい眼差しは、わたしが知っている彼のままだった。


「うん、久しぶりだね。そっちも元気そう」


「元気だよ」


「ジョギング?」


「そう。ずっと部屋にこもっているのもさ、あれかと思って」


「だよね」


「そっちは?」


 わたしは玉葱の入った袋をちょっと上げて見せた。


「おつかい頼まれちゃって。玉葱」


「そっか」


「うん」


 ここで会話が途切れてしまうのがわたしの悪いところだ。


 これが彼じゃなければ、ほかの男子なら、いくらでも当たり障りのない会話を続ける自信がある。なのに彼を前にすると、途端に言葉が出てこなくなる。たぶん本来は脳みそに送られるはずのエネルギーが、全部心臓に回ってしまっているせいだ。ワンピースの胸元がどくどく波打っているのではないかと思うほどに、あるいは彼にこの鼓動が届いているんじゃないかと心配になるほどに、心臓は速く大きく収縮を繰り返して、完全にオーバーワークだ。


 無理もない。もう会えないと思っていた人だ。六年間の片想いを片想いのまま終わらせてしまったはずの彼だ。


——じゃあね。

 

 彼がそう言って走り去ってしまう。そんな光景が脳裏をかすめる。


 ここで会えたからといって、六年間の片想いに変わりはない。最後にちょっとだけ、おまけのような再会が得られただけだ。


 せめて彼に残るわたしの最後の記憶が、くたびれたジャージ姿じゃなくてよかった。ママのおかげだ。


 これ以上の進展がなくてもダメージを受けないように、よかったよかっためでたしめでたしと自分に言い聞かせる自己防衛に入りかけたとき、彼の挙動が不審になった。


 会話が途切れてもなお走り去ろうとはせず、目が泳ぎ、マスクに隠されていない部分だけでも顔が紅潮しているのが分かる。


 この時点で、わたしの方からじゃあねと言って立ち去るべきだった。


 そうすれば、めでたしめでたしとまではいかなくとも、思いがけず彼と出会えた上に言葉まで交わすことができて良かったと、この先の生活に新しい一歩を踏み出す糧に出来たかもしれないのに。彼と予想外に再会できた喜びが、後悔に変わらずに済んだのに——。


 この直後、彼に誘われて、二人して近くの公園に向かって歩き始めた。そして公園で彼から思いがけず告白を受け、六年間の片想いは両想いになるという大どんでん返しの終焉を迎えた。


 こんなことがあるのだろうか。新型肺炎ウイルスの自粛生活でなければ、彼はもうとっくに東京へ行ってしまっているはずだった。もう会うことなんてないだろうと思っていた。それが、こんな思いがけない形で長年の想いが実を結ぶなんて。


 翌日、また同じ公園で会う約束をし、六年ぶりに携帯番号とLINEを交換して別れた。


 そして、約束通り、次の日も公園で会った。それが初めてのデートで、最後のデートになった。


 お互いマスクをしたまま、付かず離れずの距離を保ちつつ、心臓も多少は通常よりもハイペースな活動をしていたけれど、それでも不思議なくらい話が弾んだ。好きな男の子とだってちゃんと話せる。そんなことを再確認できた、夢のような時間だった。


 ああ、あれが本当に夢だったら良かったのに……。


 その帰り道のことだった。


 公園から商店街の方へと歩きながら、最近見た映画の話をしていた。


 わたしたちのすぐ目の前で転がったボールを追いかける女の子に、トラックが減速する気配もなく突っ込んで来るのが見えた。


 彼がとっさに女の子の手を掴み、わたしに向かって投げ飛ばすようにして引き戻した。その反動で、女の子と入れ替わるように車道に飛び出す形になった彼の身体——。


 大きな衝突音が響き渡る中、女の子はなんとか抱き止めたものの、彼の姿は視界から消えていた。


のぞむくん——」


 彼の身体はわたしの想像を超える距離、宙を舞っていたらしい。


 近くにいた大人がスマホを耳に当てて救急車を呼ぶそのかたわらで、わたしはまだ彼を見つけることができずにいた——

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