第35話 さらに続く。
たかが五分の通勤路で、二回連続で依頼人に会うことなどそうない。だが、偶然というのは一度起これば続くものらしい。
「久しぶりね。なに、仕事帰り? ふんっ」
その日の帰り道、なんと三度目の遭遇があった。今度は西園寺琴さんと、だ。ここまでこれば奇跡かもしれない。
「えっと……西園寺さんは、スーパーですか」
「まぁそんなとこよ」
彼女は胸を張ってみせるが、握ったポリ袋から透けて見える中身は、ジャンキーな菓子袋だらけだった。やっぱり子供っぽい。
「そ、そうですか。お疲れさまです」
彼女は得意ではない。
偽のストーカー探しの時には散々いびられた。それに、向こうも私を妬んでいるはずだった。私が駒形さんといい雰囲気、奪ったと勘違いしていたのだから。
私はかわしていこうとするのだが、なぜかビニル袋はずっと目端にちらつく。
「……あの、なんでしょうか」
「なんでもないわ。琴の家もこっちなのよ、って知ってるでしょ」
そうだった、彼女はご近所さんなのだった。思えば、他の二人よりはずっと会う確率も高い。女二人、知らぬ関係でもないために厄介だった。間を少しずつ開けてみても、どの位置にいてもぎすぎすとしてしまう。
私が思い切って前へ出ると、
「あの時のことは、ほんと反省してるわ。ごめんなさい」
私の行く手にビシでも撒くように、後ろから謝罪の言葉が飛んできた。
「琴が悪かった。あんたはなにも悪くないのに、ごめんなさい」
その切なる声音に、私は足を止めざるをえなかった。
「……いえ、私は別に」
「ううん、いっぱい心ないこと言ったもの。そんなわけがない。後から考えたら、酷すぎるわよね。おかしくなってたみたい。……認めたくないけど、嫉妬ね。謝るわ」
律儀に道路の真ん中なのに、頭を下げる。あの傍若無人さを思えば、すごい変わりようだった。
私が目をむいたまま、ぽかんとしていたら、彼女は私をつかつかと、今日とて高いヒールで抜いていく。
「あれから、聡とうまいこといってんの?」
だが、会話は続行する気らしい。
「…………いえ」
それどころか、絶賛溝が広がっている最中だ。つい目線がよれだしているパンプスの靴先へと落ちる。
「もう、しゃんとしなさい。うじうじしすぎよ、あんた。それだけは聡のこと抜きにしても前から思ってたのよ。奪っちゃうわよ、聡」
「……私は別に付き合ってもなにもないので」
「な、なによ。本気にしないでもらえる? 別にそんなつもりはないわ。……その、私もちゃんと人を好きになる努力くらいしようかなって考えてるのよ」
と言うと、思いつくのは一人。ストーカー騒ぎに協力していた彼だ。気になって、ふっと顔が上がる。
「もしかしてクラスメイトの方と、ですか」
「そ、そうよ。別にまだ付き合ったりしてるわけじゃないわよ? でもよく考えたら悪くないなぁってだけで!」
それでもストーカーから比べれば、大進歩だ。
「………でも、その、どうしたらいいのか分かんなくなっちゃったのよ」
「というと?」
「れ、恋愛よ、恋愛! ガールズバー始めてから、ちゃんとしたのが分かんなくなっちゃった。今度、話聞いてくれない? 白イチゴのパンナコッタおごるから」
「えっ私がですか」
この間まで散々こき下ろしていたのに、どういう風の吹き回しだろう。
だが、彼女の手元を見て、わけに気づいた。軽いだろうビニル袋の手提げ部分が不必要なほど強く握り込まれている。
真剣に悩んでいるのだ、真剣な恋愛に。それで自分ではどうしようもなくなって、私なぞを頼ったのだ。
「……いいですよ」
「えっほんと!?」
「自分からお願いして、驚きすぎです。でも一つだけいいでしょうか」
えぇ、と首が縦に揺れるのを見る。
私はすーっと息を吸い込んで、吐く方で「こ、この腹黒女!」と。性に合わないことを言ってやった。
むりに捻り出したのだけれど、少しは仕返しておかないと、気が済まないことでもあった。それに、恋愛相談し合う間柄になるなら、対等である方がいい気がしたのだ。
でもよく考えなくても、怒り狂ってもおかしくない。琴さんのヒールが地面を突き刺す音が、夕方の蔵前住宅地によく響く。まずったかと思ったのだけれど、
「なによ、全然怖くない。もっと言ってよ、私はもっと散々なことしたと思ってるわ」
こう腹を抱えて笑っていた。つぼに入ったようで、彼女は少しよろめく。
「えっと、じゃあ……この猫被り!」
「ちょっと、それで本気?」
こんなやり取りを幾度もやっていたら、ボロアパートはもうそこだった。
「これ、あげる。お菓子くらい食べるでしょ」
彼女なりの詫びと、もしかしたらお近づきの印なのだろうか。私の胸元に、握った拳とポップなパッケージのスナック菓子が突き付けられる。さらにはジャケットの内側へ埋められる。
「じ、じゃあまた今度店行くから! 相談のってよね!」
まだ受け取るとも言っていなかったのだけれど、蔵前の落ち着いた住宅街に似つかわしくないブロンドの髪は、もう前方で揺れていた。
「ほんと自分勝手……」
でも、彼女なりに変わろうとしているのは、ちゃんと伝わってきた。
まぁ私なんかでいいなら、話くらい聞いてもいい。笑われるくらいだったけれど、一応は言い返せたし。
私は公道で菓子袋を赤子みたく抱えているのが恥ずかしくなってきて、そそくさと家へ引っ込む。そして玄関口で、あ、とひとり言が出た。
「……また、誰かと帰ってきてる」
これも少し前までなら、ありえない話だなと思う。東京には元カレのほかに知り合いなぞ、誰一人としていなかったのだから。
少ない知り合いのうち、三人に会ったのは、かなりの珍しいことだ。でも、こんな偶然も「蔵前処」で働いていなかったら起こっていなかった。
学校とぼろ家を行き来するだけの生活をしていたらたぶんずっと、一人だった。
もう私は一人じゃないのかもしれない。そう思えば、この部屋も少しは物が増えた。
元カレの思い出が染みついたものももうない。孤独だけでは、なくなってきたかもしれない。
ピリリと。その部屋が、急に鳴った着信音で満ちる。
まさか元カレから? 焦った私は、ポケットの生地ごとスマホを引ったくる。知らない番号からの着信だった。本当にそうかもしれない、ゴクリと唾を飲む。
一、二、三とコールを聞いてから、私は目を瞑った。
そして、こわばる指を強くタップする。
「はい、もしもし」
通話ボタンに。
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