第33話 すっかりバイトが生活の一部になってました。
♢
元カレから電話があった次の日、私は恐々としながら朝の出勤をした。
警察に届け出ようと思ったのだが、調べてみると、警察は明白な証拠がなければ、動いてはくれないそう。そういえば、琴さんの依頼の時に、彼女がそのようなことを言っていた。録音していなかったのが運の分かれ目だったようだ。だが、あの状況の私にそこまで頭を回せ、というのは酷な話というもの。
道の端を伝うように蔵前駅まで忍び足で行き、電車に乗る。幸い、女性専用車両の人波に埋もれられたとはいえ、満員の電車のどこかに元カレがいるかもしれないと思うと、車内でも落ち着けない。
彼から貰った服も捨てて、連絡先のブロックまでして、やっと振り切ったと思ったのに、どうして。
なぜ蔵前にいるとばれたのだろう、私が蔵前を住居に選んだのは、彼と住んでいた家を完全に出た後のことだったはずだのに。
私は収まることを知らない心音を紛らわすため、何度も何度もインスタの新規通知を更新する。そうしていて、分かった。
岡本さんが、駒形さんが探偵をしていると知ったのと一緒だ。
私はインスタの検索窓に、「蔵前処」と打ち込む。するとお客さんが上げているのだろうお店の写真の投稿がいくつも出てきた。そこに、私が写っていたものがあった。ちょうど下げ膳をしているところだった。この荒い検索で網に掛かるくらいだ。
他にも私の映り込んだ投稿があって、それをたまたま彼が見たに違いない。
「汐見さん、この書類お願いしたいんだけど、って大丈夫?」
「……は、はいっ」
勤務中も、気は休まらない。
写真から見つかったとなれば、職場とて安全ではない。むしろ大学の構内は危険な環境と言えた。
大学生はみんなスマホを手にしているし、写真だってそこら中で撮っている。その端に私が写っていないとも限らない。完全に、疑心暗鬼になっていた。
私は定時の五時になると、すぐに退勤する。日の暮れる前には、家についていたかった。電車に乗りながら、
『お疲れ様です。大変申し訳ありませんが、しばらくバイトに行けません。すいません』
こう、駒形さんに欠勤する旨の連絡を入れた。あくまでビジネスメールとして。
お店の写真で見つかったのだとすれば、元カレが「蔵前処」に来る可能性は高い。危険性を考慮してだった。
それに、駒形さんとは仲違いをするように別れたばかりということもある。行きづらい、というのも正直なところあった。
元カレのことは言わなかった。
昨日までなら、間違いなく一番に相談していたところだろう。けれど私が余計なことをしたせいで、駒形さんを怒らせたのに、頼ることなんてできなかった。
『了解』
駒形さんからの返事は、二文字だけだった。私からのリアクションは、思いつかない。
ほら二回で終わった。たぶん駒形さんは、私とメッセージの交換をしたくないんだ。
蔵前駅に着く。私は念には念を入れて、乗客のほとんどが改札階へと上がっていくのを見送ってから、エレベーターに乗った。
警戒は万全だった。いつもとは違う、大通りに面さない出口から地上へ上がったところ
「スーツってことは今仕事帰り?」
背後から話しかけられた。女の人の声だったのに、私は注意を払うあまり過剰な勢いで、ばっと振り向く。
「……えっと、はい。こんにちは」
はじめの依頼人・山川加奈さんがひらひらと手を振っていた。もう片方の手にはテイクアウトのコーヒーを持ちながら、にかっと笑顔だ。私は、拍子が抜けてほっと息をつく。
「こんにちは! そっかそっか、お疲れ様! 私は連休真っ只中だから、偉いなぁしか言えないよ」
「いえ、私はその分夏休みが長いので」
「あぁそうなんだ? お仕事なにしてるんだっけ?」
加奈さんは、行こうとばかりに私と一緒の進行方向を指をさす。
「私、今日はお店に行かないんですけど……。こっちの方面で大丈夫ですか?」
「うん? あぁ私も今日はお店行かないよ。田原町の方に用事があるんだ」
「そうなんですか、私の家、その方向です……」
「いいねぇ、じゃあ一緒に行こうよ」
「はい。えっと、お願いします」
迷惑かもしれない、と少し考えた。私がいたら加奈さんも、私の元カレにつけ狙われるかもしれない。でも元カレは、体面だけは良くできた人間だ。さすがに人がいる前ではなにかを仕掛けてくることはないとも思えた。
それになにより、加奈さんに話しかけてもらえたおかげ、少しだけ落ち着きを取り戻していた自分がいた。つまりは、一人では心もとなかった。
加奈さんのトークは身を任せているだけで、どんどん波に乗っていった。
「そういえばあれからね、うちの彼、毎日のように白米食べるようになったの!」
「それは、よかったですね」
「うんうん。でも問題が二つあってさー、一つは毎日白米だから、メニュー考えるのが大変で! 焼きそばとか、ラーメンはどう、ってむしろ私からお願いするようになっちゃってる。ウケるでしょ。あともう一つは──、なんだと思う?」
「……えっと、ご飯の食べ過ぎ、とかですか」
「うわっさっすが! そうなの。夜は普通に食べて、夜食にけんさ焼きとかって生活になっちゃったんだよね。おかげで太ってきちゃってさー」
お腹の肉をうらめしそうに摘んだりしつつも、話は次から次へ転がっていく。転がるとともに、私の不安は芽を出す余地を失ったのだろう、少しずつ和らいでいった。
「そういえば加奈さん、彼氏さんのご実家にはもう行かれたんですか?」
「行ったよ、昨日までね。初めて行ったけど、ほんと田舎だった〜。私は千葉出身なんだけど、田んぼの広さが違うのなんの。いっぱいお米もらってきちゃった。今度お裾分けするね」
「いいんですか、そんなの」
「むしろ願ってもってくらい。あると食べちゃうんだもん。……って、そうだ、それで思い出した。一つだけ重大な報告があるの!」
なにかは分からなかった。
ただ言う前から、加奈さんの口元からは、ふへっと笑みが溢れ出していたから、きっとプラスの知らせだ。
「なんでしょう? 嬉しそうですね」
「そりゃあね、嬉しいなんてもんじゃないもの。なんと……ついに入籍することになりました!!」
「えっおめでとうございます」
驚いたのは入籍の事実より、その早さにだ。いずれそうなるだろうとは思っていた。
「いやー、ほんとめでたいよ。ちょっとまだ舞い上がってるかも。駒形さんと祥子ちゃんのおかげだよ。二人がキューピットみたいな感じ! 結婚式、絶対呼ぶから来て欲しい! なんなら知り合い代表でスピーチしてもらおうかなぁ」
「大袈裟ですよ。それに私じゃなくて、駒形さんのおかげで」
「ううん、二人だよ。私が言うんだから、そうなの! でも、駒形さんと同じこと言うなぁ。駒形さんも、祥子ちゃんのおかげだって譲らなかったよ。祥子ちゃん、私をわざと怒るように仕向けてくれたんでしょ?」
「……えっと、はい」
私は意外な話が出て、声がしぼむ。駒形さんが、私の演技のことを話していたとは知らなかった。
「それに、大袈裟じゃないんだってこれが。私にとってはあの謎が解けて、要の本音を聞けたことが、人生の転機だったんじゃないかってくらいなの。依頼してよかった、ほんと。教えてもらったけんさ焼きも抜群だったしね! だから二人には大感謝だよ〜」
これくらい、と腕は大きな丸を描く。いやもっとと、今度は伸び上がってまで腕を広げてみせた加奈さんは、とても幸せそうだった。
謎を解いて、依頼人さんに美味しくご飯を食べてもらう。駒形さんの理想は、たぶん立派に叶っていた。そして微力ながら私も、それに少しは貢献できていたらしい。
惚気話に付き合っていると、私の家の前まではすぐだった。話し足りないよ、と加奈さんが言うから、今度うちでお菓子会をすることを約束して別れる。
「じゃあ楽しみにしてるねー!」
きっとこんな裏道を使う予定はなかったろうに、送ってもらう形になってしまった。
その日、私は家の外には一歩も出なかった。外に掛けていた表札は外して、郵便物も全て取り入れ、家の中でも息を殺すように生活をした。ここはぼろ家で壁が薄いのだ、音が外に筒抜けになって元カレに気づかれないとも限らない。
コンビニにもうかつに行けず、夜ご飯は在庫残のあったカップ麺で済ませる。
「……美味しいけど」
なのだけれど、物足りない。
いつも駒形さんの作るまかないを食べていたのだから、当たり前だ。味だけの話ではない、量以外の全てが足りなかった。一口食べただけで心が立ち上がるような感覚もなにも、このカップの中にはない。
他にすることもなかった。食事を片し終えて風呂に入ったら、私はすぐ布団に潜るしかなかった。
だが、目はぱっちりと開いてしまう。
いつもならお店にいる時間だからだろう。身体が体力を余していた。
仕事終わり、直行でのアルバイト。やる前は、とても無理だと思っていたけれど、この一ヶ月でそのルーティンに慣れてしまったようだった。
あのお店は、駒形さんは、もうすっかり私の生活の一部になっていたみたいだ。
私は暗闇の中、彼とのメッセージの画面をしばらく見つめる。ごめんなさい、と打ちかけては消し、また全く同じ文面を打った。言いたいことはあったのだけれど、それはただの謝罪じゃない。でも、纏まらなくて文字盤の上で指は止まる。それ以外に、なにを言えるのだろう。
私は「了解」という夕方に来た二文字のメッセージを指で触る。
返さなくていい、そう言葉の裏に込められている気がしてきて、私は結局なにもしないままスマホを手離した。
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