第10話 アルバイトになりました。
六
小料理屋「蔵前処」から歩くことほんの数分、狭い路地からさらに一本奥まった小道をいった先に、私の家はあった。
錆の目立つおどろおどろしい佇まいだ。私もまだ、これが自分の住処とは思えない時がある。加奈さんたちの家とは似ても似つかぬ、築四十年二階建てのボロ鉄骨アパート。その一階の中部屋が私の家だ。
セキュリティカメラもエントランスも、もちろんない。だから常にポストは、いらないチラシで溢れている。それを束ねて引っこ抜いてから、壊れかけているせい、かなりの力をかけなければ回らない鍵を開けて、中へと入る。
「どうぞ上がってください。なんにもないですけど」
私が部屋の電気をつけると、駒形さんは靴を脱ぎかけたまま片足立ちで固まってしまった。無理もない。
「……本当になにもないですね」
そう、なにもないから。
このワンルームは圧倒的なまでに物に欠けている。必要最低限さえ、下回っているかもしれない。見る限り、大きなものは布団だけだ。クローゼットの中にも、少しの服以外のものはない。
「すいません、なにもないのに。お茶くらい買ってこればよかったですね」
「いえ、そんな気遣いは結構ですが……」
私は三百円均一で買った唯一のクッションに、まだ少し唖然としている駒形さんを座らせる。
お行儀が悪いことは百も承知で、自分は布団を広げて、その上にそこだけは礼儀正しく正座をした。さすがにフローリングにべたに尻をつけるには、まだ冷たすぎる。布団があってさえ、夜中はまだ底冷えに悩まされているのだから。
私は少しだけ話す決心を固めるのに時間をもらう。
「実は私、彼氏から夜逃げしてきたんです」
それから、布団のシーツをぎゅっと握りつつ、私はこう切り出した。
彼氏の元から夜逃げを決行したのは、今から二週間前。ちょうど加奈さんたちが同居を始めたと言っていた頃だ。
そもそも私の彼氏、もとい元カレである大森英人とは、地元・兵庫県明石市にいる頃に友達からの紹介で出会った。
驚くほど私と話の合う人だった。劇や映画が好きで、ご飯の趣味も似ている。初対面から意気投合し、順当に三度目のデートの時に告白を受けて、付き合うことになった。
おしゃれで、勉強もよくできて顔も広い、そして優しい。彼は、まさに理想の彼氏像そのものだった。女子大通いだったこともあり男への耐性の低かった私が彼にのめり込むのは、必然のことだったかもしれない。
付き合い始めたのは大学四年の春ごろ、ちょうど就職活動の真っ只中だった。
もう少し演劇を続けるか、現実を見て働くか。私はまだ進路に悩んでいたが、彼はその頃には既に東京での就職が決まっていた。
「向こうで一緒に住もうよ」
こう誘われて、その時の私は愚かにも、すぐにそちらへ傾いた。
ころり、とだ。夢と現実でてんびんを掛けていたら、現実の方に大きな重しがついて、一気に形勢が決まったイメージ。それに、正しい答えのあるわけではない悩みからも、早々に逃れたかった。
東京へ出ること、同棲をすること、親や友達は口を揃えて反対したけれど、その時は反対されればされるほど、むきになった。所属していた劇団からは「残ってほしい」というオファーも貰ったが、ままよと蹴った。
そして一年前の春、同棲と東京での新生活が始まった。だが、すぐに私は後悔をすることになる。
この男は、外面こそよかったけれど、中身は最悪だったのだ。共に生活をするとなれば、否応なしにそれを覗いてしまうことになる。一月も経たないうちに、ボロが出始めた。とにかくだらしなかった。時間にも、金にも、人間関係にも。
約束にはきまって遅れてやってきた。毎日のように夜歩きをして家に帰ってこない。飲み屋で散財したと言って、お金をせびる。よくない人間とつるんで、クラブで遊びふける。たぶん浮気をしていたのは、夜中にたまに電話をする声を聞いたから間違いない。私が耳にしたこともないようなほど、声が低く色っぽくなるのだ。
「素敵なカップルですね」
それでも人前に出かけていくと、また彼は「いい彼氏」になるのだった。何度店員さんにこう声をかけられたか。
まさにハリボテ、中身は木屑さえ詰まっていないすっからかん。
ただ私は、そんなハリボテにでも縋るしかなかった。大都会東京で一人では生きられないと思ったし、明石に尾っぽを巻いて帰るのも、周囲の反対を押し切って来た以上、できなかった。
彼の悪態は日を追うごとにエスカレートしていった。やがて始まった言葉の暴力は歯止めが効かない。チビ、とか根暗、とか、役者のなりそこない、とか。浴びせられた悪口は数知れない。実際に軽くではあるけれど、殴られたこともあった。
それでも我慢をしていたのだけど、ある日帰ってもこない彼のためにご飯を作っている時にふと思った。もう、こんなことはやめればいいと。
手早く荷物をまとめて思いつきで家を出た私は、数日カプセルホテルを伝うように生活をした。
仕事先には事情を説明して、もし彼から連絡があったら、やめたと伝えてもらうようお願いをした。
彼からのメッセージは、はじめこそ怒りに満ちていたが、すぐに懇願するようなものに変わった。それでも無視を続けていたら、やがてこなくなった。
すぐに入居できる家を選ぶほかなかった。前に住んでいた池袋近辺からはなるべく離れたところで候補を探して、ここ蔵前に落ち着いた。彼に吸われていたこともあって、敷金や礼金がかかるような立派な家を借りられるほど、所持金に余裕はなかった。
それでも今日、雑貨を買おうと考えたのは、「素敵な新生活感」を味わいたかったからだ。
今のこの家は、「孤独」に満ちていた。元カレとの思い出が、懐かしくいいものだったように思えてしまうほどには。
そんな自分を振り切りたかった。素敵な雑貨で生活を彩れば、多少なり紛れるかもしれない。そう考えて、そして間違えて「蔵前処」に入った。
「……ごめんなさい、仕事終わりなのにこんな話に付き合わせてしまって」
わがことながら、馬鹿みたいな話だ。一人で振り回されて、勝手に落ちていった逆シンデレラストーリー。酒もなしに聞いて面白いわけがない。せめてもと私は作り笑いを仕立てるのだが、
「無理に笑わなくても大丈夫ですよ」
駒形さんは、至極真剣な目で私を見つめていた。すうっと私の無理に吊り上げた頬が下がっていく。
「……こんな話、じゃないでしょう?」
「こんな話、ですよ。駄目な女の末路だってきっと笑われます」
「でもあなたにとっては、それで済む話じゃないでしょう」
はっとさせられる一言だった。
もちろん私にとっては人生を揺るがす大事件で、とても悲しいことだ。でも他人にとってはたぶんそうじゃない。そればかり考えていた。
「ずっと一人で抱えてきたんですか、ここまでのことを」
こくり、と小さく頷く。
「頑張りましたね」
優しくそう微笑みかけられると、内側から一気に感情がこみ上げてきた。押し殺して、今日はパスタと酒で流してしまおうとした、おどろおどろしい思い。
目頭がじーんと熱を持ち始める。やがて、一筋、雫が頬を伝って、布団へと染みた。
「あれ? あはは……ごめんなさい、すぐ終わりますから、……あれ」
私は泣いてしまったらしかった。
「あなたは強すぎるんです。我慢しすぎるんです。怒っていい時だってあるんですよ、もちろん泣いていい時も」
触れないように、見ないように。そうして隠してきた思いが詰まった箱の蓋を開けられてしまったようだった。ぼろぼろと涙が溢れ出てしまって、止めようがない。過去の記憶が胸へと蘇って次の滴を生みだす。
やがて昂ってきて、馬鹿、とかなんで私だけ、とかただ幸せに暮らしてたいだけなのに、とか子供みたいに泣き叫んでいた。壁の薄いボロアパートだ、隣の家に悪いと思ってもやめられない。
拭っても拭っても、駄目だった。まぶたが決壊してしまったらしい。
はたから見たら、とんだ迷惑ヒステリック女だ。なんでも人のせいにして最悪。それでも駒形さんは、最後まで付き合ってくれた。
「……すいませんでした。こんなに夜遅くに」
やっと冷静になったのは、十一時を回ったころだった。もうすぐシンデレラの魔法も解ける時間。引き留めすぎた。飲食店なら、朝が早いこともあるかもしれないのに。
私はありがとうございました、と述べて立ち上がる。早巻きで玄関扉を開けに向かおうとした矢先、
「やっぱりうちでバイトしませんか?」
考えてもみない打診をされた。
「……えっと」の先、言葉が出てこない。
こんな女だと分かった上で、駒形さんは私を雇いたいらしい。
「お金、ないんですよね。給料ははずみます。それに、賄いもつけますよ」
「…………でも私、働いてて」
「週に一回でもなんでも、仕事の都合に合わせてきていただいたら構いません。なにも同情して言ってるんじゃないです。あなたは助手としても優秀でしたし」
なにより、と駒形さんは一度息を吸う。
「俺はあなたと一緒に働きたい。汐見さんの本音を聞いて、確信しました。あなた以上に素敵な人はそういません」
その目に、濁りは一切なかった。それが、彼の偽りない本音だと雄弁していた。駒形さんは私の方へ手を差し伸べる。
「どう、でしょうか。いや、無理にと言ってるわけじゃありません。なにならじっくり考えていただいてからでも結構です」
ふと、彼の背後からまばゆい光が差した。車道を抜けていく車のライトが、カーテンから漏れ入ったのだろう。
だがその光が、私には希望の光のように映った。この人と一緒に行けば、いつかこのくすんだ暗い日々から脱出できる。孤独も未練も打ち破って、その先の幸せに手が届く。
なにの根拠もないのに、たしかにそういう予感がしたのだ。
仕事終わりにバイトなど、体力が持たない。私なんかを雇ってどうするつもりだろう。否定的なことは具体的に浮かぶ。抽象的で、感覚的で曖昧な、希望的観測に流されてはいけない。
そう頭では分かってはいるのに、やってもいいかもしれない、なんて。気づけば思ってしまっていた。
「あの、本当にいいんですか。私なにもできませんよ、それに面倒くさいし、チビだし。高いところのものとか取れませんよ」
「えぇ俺はそう思いませんので。高いところは、自分でやりますよ」
「途中で面倒だと後悔しても知りませんからね」
「分かりました。半分くらいは覚悟しておきます」
私は恐る恐る彼の手を取る。にっこりと、完成された顔が少し綻んだ。綻んでも、その美しさが崩れることはない。変幻自在の完璧さなのだ、たぶん。この人が生み出す料理のように。
「じゃあ、その……よろしくお願いします」
「うん、よろしくね」
かくして私は、小料理屋のアルバイト兼探偵の助手になった。
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