二度目

 安宿には、写本師が多く滞在している。

 夕食時に、沈黙の戒律を破ってしまったことを笑い話として提供すると、彼らは呆れ、あまり笑えないぞと私をたしなめた。


「俺たちは大枚はたいてもらっているからな。同じ三度で出入禁止でも、三日で三度と半年で三度では気の引き締めかたからして違う」

「駆け出しのころは慎重派で、十日ごとに入場査証をもらったもんだなあ。いまなんか、あの列に並ぶのが面倒で一気に長期で払いをしているが」


 それなりに話に花が咲くなか、ひとりが問いを発する。


「それで、理由はなんだい。ひとりごととでも言うのかい?」

「娘を見たんだ、十三、四の娘っこ」

「──修道院の、なかで?」


 そんなはずがなかろうと、どの顔も困惑している。女人禁制なのだ、当然の反応である。私もいま考えると不思議でならなかった。高い塀に囲われた修道院にこっそりと入りこむのも難しければ、飲まず食わずでひとに見つからずに過ごすのも難しい。では、彼女はどうやって、あの図書館に現れたというのか。


 これまで口を開かずにいた古参の写本師が、酒の杯から僅かにくちびるを離した。


「おおよそ、修道院長の隠し子だろう。生臭坊主だと噂には聞く」


 周囲を憚るような声量だった。我々はそこでやっと、これが危険な話題だと気づいて、互いに目配せをしてうなずき合った。

 外から入るのが困難であれば、もとより中に居て、それが許されている存在だと考えるほうがよほど自然だ。そして、写本を生業にしている彼らにとって、修道院の悪い噂に関わることは、百害あって一利なしだった。


 酒の席は有耶無耶のうちにお開きになり、私は早々に床についた。明日こそは祖父の写本が見つかればと、この地に御心があるかはわからない故郷の神に短く祈り、目を閉じた。




 翌日、私は写本探しのあいまに、初めて中庭に出てみた。昨日は勝手がわからなかったが、写本師に聞くところによると、中庭であれば、多少の飲食の目こぼしがあるのだと言う。昼時に足をむけてみれば、中庭ではたしかに、そこここに腰を下ろして、少なくない人数が昼食をとっていた。


 昨日、空腹のまま過ごしたのが馬鹿らしい。私は持参した食事を持って、ひと気のないほうへと足をむけた。だれかのようすを目にして、うっかりと声を出してしまってはたまらないからだ。


 芝生と背の低い果樹があるばかりの殺風景な中庭は、回廊に囲まれている。南側は立ち入り可能だが、北側は禁域だ。ただ一箇所、いまは私の真向かいにある場所だけが回廊ではなく、尖塔を持った建物になっている。修道院の入口に比較的近いということは、貯蔵庫か何かだろうか。


 尖塔の下は日陰になるせいか芝生が剥がれ、土が露出している。ほかの建物の影となる一階と二階には窓がなく、日の当たる三階部分にだけ、くりぬかれたような窓があった。内開きなのか、戸は見えない。


 麺麭をちぎり、固い乾酪チーズを乗せてかじる。もそもそした塩味を舌で転がしていると、奥から窓辺に進み出てくる人影があった。

 それが、昨日の娘であると、気づくのに時間は要らなかった。昨日は見えなかった整った顔立ちは青白く、不健康さを漂わせている。

 娘はどこを見るともないまなざしで外を見つめながら、だらりと細い右腕を窓の外に下ろした。その腕の先は、まっすぐに塔の下を指さす。

 その手の甲に、入場査証はやはり、ない。正規の方法で入った者ではない。昨晩の話のとおり、生臭坊主の娘なのだろうか。だが、あれはあまりに大胆ではないか。他の目に見つかるのではないかと見回してみるも、だれもが己の食事に集中しており、塔に目を向ける者はなかった。


 視線を窓辺へと戻すと、娘の姿はすでになかった。私は残りの食事を腹へ収めると、釈然としないものを感じながら、中庭をあとにした。


 食事を適切に摂ったおかげで、午後も集中して取り組めた。順調に写本に目を通していくことができ、残るはあと少しだった。

 残念ながら、成果はない。別の修道院への問い合わせでも同様であったのだから、ここで無かったからといって、ことに落胆する話ではないのだが、これほどの規模の図書館もほかにはなかなか見られない。焦りがあるのも真実だった。


 私は挿画入りの写本ばかりではなく、装飾写本にも手を伸ばしていた。頭文字の飾りかたに特色は出ないものかと一縷の望みをかけて、ページをめくる。

 と、不意に隣に影がさした。


 ひとが? 顔をあげようとしたところへ、書見台のうえに伸びてきたものがあった。あかぎれだらけの青白い両手。それが、すうっと動いて、紙切れを押しやるようにする。つい受け取って、手の持ち主のほうを仰いでみて、私は「えっ……」と声をもらしていた。

 そこには、だれもいなかったのだ。


 身を隠す時間など、ありはしなかった。そう、状況をふりかえりながら、私は二度目の門扉を見上げて、さすがに肩を落とした。今日はまだ日が高い。もう一度、中に入れてもらわないと、割に合わない。


 私は近づいてきた門衛に右手の入場査証を見せ、開門を請うた。壮年の門衛は入場査証に入った打ち消し線を笑い、若い門衛に声をかけて門を開けてくれた。


「これであとがないぞ、若人わこうど


 背にかけられたことばに首肯して、私は本日二度目の静寂の園へと舞い戻った。




 二度目の退場は、写本師たちの目についたらしく、その晩の食事では、こちらから言いだすより先に、酒の肴にされてしまった。

 一度目のときは再入場をしなかったが、今回は午後になってから再入場したため、多くの者の興味を引いたのだ。あれだけの寄進をするからにはと、見学者も皆、時間を有効に使うため、昼前には修道院を訪れる。午後の来訪者は、それだけで目立つ存在なのだった。


 私はふてくされながらも適当に話を合わせ、笑われるがままにした。一期一会だ。彼らにこの先、出会うことがそうあるはずもない。うっかり者という印象を打ち消す必要があるとは思えなかった。


 舌に慣れぬ甘い酒をあおり、私はふと、思い立って懐を探った。そこには、あの青白い手の主から渡された紙切れが入ったままになっていた。断りを入れて席を立ち、物陰で内容を確かめる。

 古びた装飾写本だった。だが、異郷のことばで記された古語を解読するのに少々時間を要す。書かれていたのは、次のような一節だった。


『先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる』


 嫌がらせか! まるで、私が魔術によって修道院から二度も追い出されたことを示唆しているような一節だった。二度あることは三度あるとでも言いたげな文句に苛立ちを募らせて席に戻り、それでも好奇心から隣の写本師に水を向ける。

 答えは案外、すぐに返ってきた。


「それは聖典の一節だな。たしか、『コヘレトの言葉』だ。ああ、間違いない」


 彼が言うには、この一節は、私の考えているような意味ではなく、万物が巡るようすを示したことばなのだそうだ。日は昇り、沈み、また昇る。川は海へ注ぐが、海は満ちることなく、川は注ぎ続ける。


「俺たちの仕事も同じさ。書き写した写本がいつか正本となって、だれかに書き写される。いつか正本は朽ち、そのまた写本が正本に取って代わる。そうやって、聖なることばは生き延びるし、繋がっていく。新たな装飾文字を生み出したと思っても、それがほんとうに新しいかなんて、だれにもわかりゃしない」


 その労苦はむなしいだろうか。いや、むなしいとは思わない。少なくとも私はそうして生まれたひとつの写本を求めてさまよっているし、この広い世のなか、他にもそうした人間はあるだろう。決して、貴族ひとりが喜ぶのではなく、他にほんとうの価値なるものを見いだす者があるのだ。多分。

 私は、『コヘレトの言葉』という単語を胸に刻んで、食堂をあとにした。

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