ウサギにツノ

 錦木さんは急に神妙な表情に切り替えると、おもむろに声のトーンを落とした。


「これは誰にも口外しないでほしいことなのだが、私はある特異体質でな。ひがみねたみそねみつらみなどという他者の悪意を感じると、具合が悪くなるのだ」


「それは大変ですね」


「そうなのだ。だから私は、その悪意をつぶすために日々、走り回っている」


「なるほど。体を張ってスイーパー稼業をしているわけですね。誰からもお代をもらわずに」


 錦木さんはまじまじと俺の反応を見定めてから、また口をひらいた。


「まさかいまの話を信じたのか?」


「いえ大丈夫です。そろそろ帰ってもいいですか?」


 高校生をからかっていったいなにが楽しいのだろうかと思う。彼女の意図はまったく不明だ。


「バイトの話は本当なのだよ。話を聞いてくれないか」


「すみません、俺、そんなに暇じゃないんです」


 再スタートするつもりで自転車のハンドルを握り直したが、錦木さんが小さい体を大の字に伸ばして進行を妨げたので、しかたなく耳を傾けることにする。


「母上に確かめたら、君はほかにバイトをしていないし、校則でも禁止されていないと聞いた。私はパソコンができない。そのため、代わりにレポートを作成してくれる助けが欲しいのだ。どうだね、先名君」


「お断りします」


 俺は丁重に頭を下げたが、錦木さんは引き下がらなかった。


「バイト代をはずむことはできないが、君は社会勉強だと思えばいいのだ」


「俺のメリットが見当たりません」


 俺が国家公務員を目指しているのは母さんも知っていることだ。バイトがどうこうという話になった時点で、なぜ断らなかったのか。あの方の考えていることはよくわからない。


「君は『ウサギにツノ』と書いてとにかくと読ませることを知っているかね」


「それがどうかしました?」


 あまりのしつこさに辟易するが、錦木さんは少しもひるまない。口元だけ不敵にゆるませて言い放った。


「一見やさしそうなウサギも、怒ると角を生やすということなのだよ」


「いや全然違う意味だと思いますけど」


「まあいい。私は、君がいくつかの部活動見学を終えたあした午後五時に我が家を訪ねてくるのを待っている」


「なぜ学校の日程を知っているんですか……」


 足元から血の気が引いていくような錯覚を起こすが、おそらく俺の顔も真っ青だ。もしかしたら俺が感知していないだけで、錦木真弓という教師が学校内にいただろうか。それとも上級生? 考えてもわからないことには、いつもならたやすくあきらめがつくのに、一番身近なスケジュールを言い当てられて動揺しているせいか、脱出法を見失う。藍をつめたくあしらったバチが当たったのかもしれないとさえ思う。困惑する俺の目の前で、錦木さんは呪文でも唱えるかのように語りだした。


「君はいまこう考えているはずだ。なぜ、どうして私が君の学校の日程を知っているのかと。答えは簡単だ。君と同じ学年の学生が道端で話していたのをたまたま聞いていただけだ。ところで君は謎が好きかね。私は嫌いだ。ただでさえわずらわしい日常だというのに、一人で生きていないばかりに、交錯する他者の思惑に囚われ、ときに逃げ場を見失い窮地に立たされる。いったいどうしたら自由になれるのだろうと考えだしたが最後、自ら築き上げた迷路の城で途方に暮れるのだ」


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