0-02「決断」

 寿司が無くなり、空っぽになった皿を洗い終えてリビングを見ると、輝と朱里がちょうど子供部屋に向かっているところだった。

 もう十時。彗や母にとってはまだ浅い時間でも、いつもの就寝時間が九時の彼らにとっては夜更かしに違いない。


「おやすみー……」という声は、もう先ほどまでの元気は見られず、眠気がすぐそこまで来ているといった声色だ。


「腹出して寝んなよ」と言うと「はー……い」生返事してくる。もう限界だな、と笑いながら二人を見送ると、彗は「今日はありがと」と、ソファーに座る母にあったかいお茶を渡した。


「いーや、お礼言わなくちゃならないのはこっちよ。自慢の息子だわ。明日病院で自慢しないと」


「……検診って明日だっけ?」


「そっ。どうなるかねぇ。家族同伴だからよっぽど悪いんだろうけど」


「……縁起でもないこと言うなって。それじゃ、俺も寝るから」


「おやすみ~」と軽い声色の母にヒラヒラと手を振る。一抹の不安を残しながらリビングを後にして彗も自分の部屋へ入ると、真っ先に「はぁ……」と深い息を吐いてからベッドに飛び込んだ。


 電気も消して、寝る準備は万端。久々に寝転んだ自分の布団は、安らぐ柔軟剤の香りとお日様の匂いが混じり、眠気を掻き立てる。が、まだ早いとスマートフォンを起動した。


「やっぱ無理だよなぁ」


 開いているのはメモアプリ。記入してあるのは、推薦をもらった高校名。

 県外の強豪から、昨年の甲子園優勝校の名前だってある。

 ただ、どの高校も家からは遠い。入るのならば、寮生活は必至。

 そうなると、遊び盛りな弟妹の面倒を母が一人で見ることになる。

 元気ならともかく、今の状況では難しいことは火を見るよりも明らか。


 ――ともかく、明日の診断次第か。


 無理に今日決めることはない。幸いに、まだ八月。

 時間はたっぷりある。

 彗は不安に押しつぶされそうになりながら目を閉じた。



       ◇



 ただ、現実は無情。


 エコーをはじめとした様々な画像を広げながら医師は「もし発見できていなければ三、四か月でしたね」と申し訳なさそうに言い放った。


 つまるとこの余命宣告。


 病名は、卵巣がん。


 転移も見られ、ステージは4。抗がん剤治療をしてから手術をして――というところを最後に彗の頭の中は真っ白に。我に返れたのは、帰りのタクシーの中だった。


「なーに暗い顔してんの!」


「母さんがガンだからだろ」


「ガンなんかへのカッパよ。笑ってれば治る!」


「んなアホな」


 精一杯の強がりを見せる母だが、その優しさが無性に寂しくなり、涙が出ないようにと外を見た。憎たらしいほどの青空が広がっている。


「しっかし、問題はお金よねぇ……輝と朱里がいるから通院でって言ったけど」


「タクシー代とかもろもろ入れたら一回で十五万くらいだっけか」


「だねぇ。あの子らになんて言おうか……」


 母の両親は他界しており、親戚付き合いもほとんどナシ。頼れる人数は極僅か。

 父の親戚は言わずもがな。そこからお金を借りるくらいなら腹を切るとでも言いかねない。

 選択肢は、もはや一つ。


「母さん、俺さ――」高校行かないで働く、と続けようとした彗の顔を、母の平手打ちが襲った。


「アホなこと考えるんじゃない」


「でもよ……!」


「私のために人生棒に振る必要ない。次言ったら今度はグーでいくから」


「んなこと言ったって……!」


「子供を応援する、これ我が家の家訓! そう教えたでしょ?」


「だけどさ……そんな状態で野球なんか出来ねぇよ!」


 家に着くまでお互い譲らず、議論は平行線をたどった。


 自宅前に到着すると、支払いをさっさと済ませた降り際に「よく考えな」と言葉を残してタクシーを後にする。


「……大変だね」


 しばらく動けずにいると、タクシーの運転手が見かねたのか、彗に声をかけた。


「はい……あ、すみません。すぐ降りますね」


「いや、落ち着くまでゆっくりしていきな」


「……はい」


 その優しさが余計に心に突き刺さる。タクシーのおじさん以外誰も見ていないという安心感からか、こらえていた涙が溢れ出した。


「なんで……なんでウチだけ! こんな目に合わなくちゃ……クソッ!」


 何度も、何度も叫ぶ。

 理不尽な世の中を恨み、不公平な神様に怒り。

 言葉にならない声が、タクシー内に響き渡る。


「ただ……ただ俺は、家族で、笑ってさ……それだけで……充分なのに……!」


 ただただ、ぶつけるところのない感情を爆発させるだけの時間が過ぎていった。


「少し、話してもいいかい?」


 全てを吐き出し、彗が少しだけ落ち着いたのをバックミラーで確認した運転手が話しかけた。


「……はい」


「俺さ、君と同じ年の娘がいてさ。野球部のマネージャーやってたんだ」


「……そうなんですね」


「ちょっと前かな、君のとこと試合やってさ。すごいやつと会ったって話してくれてさ。試合には負けたけど、私も負けないぞって。元気貰ったみたいなんだ」


「……」


「俺の娘だけじゃない。君と同い年の――いいや、全国の野球ファンが、君の球に元気をもらったんだ。かく言う俺もその一人でね」と言い切ると、助手席をごそごそと弄って「あの152キロは震えたよ」という言葉とともに、飴玉を一つ彗に手渡した。


「……光栄です」


「闘病は辛いだろう。けど、君の活躍が、君のお母さんを元気付ける。一日でも長く生きて、ガンをやっつけてやろうって考えると、おじさんは思うね」


「そういうもんですかね」


「親ってのはそういうもんさ」


 そう言うと、タクシーの扉が開かれた。


「ほら、流石にそろそろ行きな。お母さんが心配するころだ」


「ありがとうございました。えっと……」と、名前を確認しようとすると、彗の行動を察したのか、運転手は「海瀬宗司かいせそうじ」と応えた。


「海瀬さん、ありがとうございます。なんか、吹っ切れました」


「……頑張ってな。俺は応援してるから」


「……はい!」


 勢いよくタクシーを飛び出し、玄関へ向かう。ドアノブに手をかけたとき、ふと気になって振り返ると、丁度出発しようとしているところだった。

 お辞儀を送ると、ブロロロとエンジン音が鳴り、遠ざかっていく。


 ――本当に、ありがとうございました。


 心の中で再度感謝の言葉を送ってから家の中へ入ると、彗は開口一番に、決意を口にした。


「母さん。俺さ、県立高校行って野球やる」

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