第10話 桃瀬千春の1話目。
まだ眠いのか目を擦りながら歩く千尋ちゃんをなんとか部屋に戻し、ゆっくりベッドに寝かせる。ふと時計を見ればもう2時になるところで、こんな時間まで高校生を付き合わせてしまったと、少し申し訳なくなる。そのまま静かに部屋に戻ろうとしたとき、パシ、と腕を取られた。
振り返れば、彼女が少しだけ眉を潜めて、こちらを見ていた。彼女が言おうとしていることが手に取るようにわかってしまって、胸が苦しくなる。
「もう諦めなよ。あの人、ずっと甘えてるだけじゃん」
「……ごめんね」
「私、千春さんの事好きだよ」
「知ってる」
彼女が、きゅと口を噤む。泣きそうな顔に私までもが、泣きたくなってしまう。彼女はまだ高校生だ。だから、彼女が私に抱いている感情も若さ故だと思う。それなのに、いつもいつも辛くて、愛おしく思えてしまう。
「知ってて優しくするんだもん。ずるいよ」
だけど、私はやっぱり、凛のことが忘れられなくて、なにより大事だった。凛は、あんなにもかっこいいのに、あまりにも頼りなくて、心配になるのだ。
「あの人も千春さんもずるい」
「大人だもん」
「卑怯な大人は嫌いだ」
「じゃあ私のことも嫌い?」
「大好き」
母親がいないこの子はきっと、母親のような姉のような存在を求めているだけ。それに、この子は真っ直ぐで、ちゃんと向き合うのがずるい大人の私には、酷く恐ろしく感じられるのだ。
のそ、とベッドから起き上がると、彼女は私の首に腕を回して、そのまま抱きついた。頭をうりうりと擦りつけ、はぁー、と深く息を吐いた。
「私じゃ駄目?」
「駄目。だって高校生だし」
「はー、これだから大人は」
「まだね、千尋ちゃんのこと、大人として守る立場にいたいの」
「許さん。私のほうが強くなってやる」
千尋ちゃんは、今年で高校を卒業だ。大学は、もうほぼ決まっているようなもので、仕事も生涯小説家として生きていくんだろう。そんな彼女の明るい人生に、私みたいな不純物を混ぜては行けない気がした。私はきっと、凛がいる限り、彼女だけを見てあげられない気がした。お付き合いするなら、彼女に見合ったちゃんとした大人になりたい。
「明日、ス○バ奢って」
「いいよ」
「もー甘やかさないで」
「どっちよ」
クスクスと私が笑うと、彼女も楽しそうに笑う。その顔は年相応で、やっぱり彼女の隣に私は相応しくないと思ってしまった。
バレーボールの強豪チームがある、高校に入学してすぐ、1年生のうち3人がバレーボール部の一軍レギュラーになった。私ともう一人の子とそして、赤星凛だった。凛は中学の頃から全国的に名前が知れ渡っているほど有名なスパイカーで、レギュラーになるのは当然の強さを持っていた。もう一人の子は背がべらぼうに高くて、ブロッカーとして大活躍できそうな子だった。そんな二人と一緒に何故か私までレギュラー入りしたのだ。私はずっとリベロを中学の頃からしてきたけども、特出した強さがあったわけじゃない。
レギュラーが3人、1年生から選ばれたということは、3人上級生が外されたということだ。特にリベロを外された人は、3年生で最後の試合に向けて優勝を目指していたのに。先輩たちの怒りの矛先は私に向かった。圧倒的な実力を持つ他の一年生二人より私のほうが狙いやすかったのかもしれない。
「リベロなんでしょ? 私達のスパイク、受ける練習させてあげる」
ある日の練習の後、そんなことを言われ、私は渋々先輩たちに付き合った。それが地獄の始まりだった。顧問も帰り、他の殆どの生徒が帰ったというのに、いつまでも先輩たちに帰らせてもらえない。更に複数人から同時に何本もスパイクを打たれ、それを拾えないと怒鳴られ、拾えたら拾えたで、物凄い痛みと同時に舌打ちが聞こえてくる。そして、次の瞬間にはまた強いボールが、何個も同時に向かってくるのだ。
途中で帰ろうとしても捕まり、顧問に相談しようとしても、先輩たちがすかさず来る。そして毎日行われる自主練という名のいじめ。他の一年生二人とは、話したことがなくて、むしろ私をいじめてくる先輩と仲良さそうにしていたから、頼れる人もいなかった。
部活前の授業がたまたま休みになって、部活までの間暇になってしまった。教室では、クラスメイトがうるさくて、どことなく居ずらかった。封鎖されている屋上の手前の階段は最近のお気に入りの場所で。そこで膝を抱えて、はぁー、とため息をつく。部活いきたくない、という感情がぐちゃぐちゃと身体の中を巡る。
バレーボールは楽しい。でもきっとそれは中学生のときの仲間とやるのが楽しかっただけかもしれない。皆で優勝を目指して、勝ったら飛び跳ねて喜んで、負けたら号泣して。青春バカだっただ。私は、私自身は、バレーボールが好きなのかな。
「見つけた」
静かな廊下に、声が響く。そこにいたのは赤星凛だった。彼女はペタペタ上履きを鳴らして、階段を登ってくると、私の横にドカッと座った。
「今日部活サボらない?」
「は?」
心の底から、発射されるように声が出た。彼女は私の反応に、くす、と笑った。始めて彼女の笑顔をまともに見た気がして、案外可愛らしいなと感じた。
「腐った人達といったらカビが移っちゃうでしょう?」
「なにそれ」
彼女の言っている意味がわからなくて私はただただ困惑した。
「まー、腐った部分は切り取ればいっかぁ。今日私も自主練参加するから」
そう言い放って彼女は、ペタペタと階段を降りる。半分ほど降りたところで、「ほら、早く行こ」と手を出された。思わずその手を取ると、そのままぐっと引き寄せられて腕を掴まれる。激痛が走り、うっ、と顔をゆがめた。彼女が私のYシャツを捲る。そこから出てきたのは先輩たちのボールを受けすぎて青アザになった腕。それを見て眉を寄せたあと、私の手のひらをむにゅむにゅもんで、泣きそうな顔で笑った。
「バレーボールが大好きな手だね」
その一言が嬉しくて泣きたくなった。
練習後の自主練に彼女は本当に参加してきて。先輩たちも驚いた顔をしたあと、彼女をスパイカー側にさせ、私が受けるように命令をされた。彼女のスパイクが鋭く向かってくる。それをしっかり跳ね返すと、彼女は嬉しそうに笑った。
「本当に桃瀬さんって凄いね。私のスパイク返せるなんて」
彼女のその言葉に反応したのは先輩たちだった。私が褒められたのが気に食わなかったのか、不服そうな顔をしていた。
「先輩たちもちゃんと私のスパイク程度どうってことないでしょう?」
「当たり前よ!」
「じゃあどうぞ、そちらへ」
そう言って、先輩たちを私のいるコート側に案内した彼女は、今まで見たことのないくらい生き生きとしていた。
「先輩たち、桃瀬さんより、下手くそじゃないですか。先輩たちのほうがいっぱい自主練したほうがいいと思いますよ」
クスクスと笑う彼女をキッと先輩たちが睨みつける。以前リベロでレギュラーに入っていた先輩も、他の先輩も誰一人として彼女のボールをまともに返せなかった。
「見栄を貼るだけ貼って実力がないって、小学生じゃないんだから」
ぱしん、ぱしん、と彼女がボールを跳ねさせる。その音に、先輩たちはビクリと身体を震わせた。
「なんで座り込んでるんですか、まだ練習しましょう」
「ご、ごめんなさ、い。謝るから、謝るから!」
パァン!
先輩の真横にボールが打ち込まれる。
「私に謝るより先に謝らなきゃいけない人がいるでしょう」
彼女の言葉で、先輩たちが続々と私に謝ってきた。でもそんなのはなんだか、もうどうでも良くて、彼女が私を助けてくれた。その事実が嬉しかった。その時から私は赤星凛という親友ができた。
気がつけば彼女の隣にずっといて、彼女のことを目で追っていた。きりりとつり上がった目が緩む瞬間が好きで、笑わせたくてたくさんおしゃべりしたし、バレーボールのときは私が受けたボールが彼女のアタックになることが多く、自然とやる気が出た。
「行こう、千春」
「うん」
当たり前のこの会話が嬉しくて、毎日が輝いて見えた。何度も何度も彼女に助けられるうちに、意外と彼女の弱い部分やだらしない部分が見えてきて、そこが可愛くて更に好きになっていった。私は女の人だけを好きになるわけじゃない。それまでは男と付き合うこともあった。多分きっと凛だったから好きになってしまったのだ。
凛が好きだと気づいた頃には、彼女に彼氏がいて、初めてできた彼氏の話を顔を赤く染めながら話す彼女に自分の気持ちを打ち明けることはできなかった。
それからしばらくした、ある夜のこと。私が塾の帰りに家に帰ると、家の前に蹲る誰かがいた。
「凛!?」
私が声をかけると彼女は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。髪の毛もボサボサ、服はところどころ破られたようになっていた。
「ちはる」
私の顔を見ると彼女は、またブワリと涙を溜めて、抱きついてきた。
ひとまず彼女を家に入れる。明るいところでも見れば、引っかき傷のようなものや、殴られたあとみたいなものまであった。
「おかえり、千春、って凛ちゃん!? どうしたの!?」
「ひとまずお風呂入って着替えよう?」
「やだ、一人はいや」
「一緒に入るから」
私がそういえば、彼女はコクリと頷いた。
少し落ち着いた凛が話してくれたのは、彼氏とその友達による暴行。信じていた彼氏が、なかなか身体を許さない凛に酷いことをしようとしたらしい。
「ただいまー」
お父さんが帰ってきた途端、隣に座っていた凛が、ひゅ、と息を詰まらせた。
「ご、ごめんなさ、」
ヒューヒューと息をし始めた彼女の背中を擦る。
「お父さん、ごめん、ちょっと部屋に行ってて」
「お、おう?」
お父さんが見えなくなると凛は少し落ち着いて、ひたすら申し訳なさそうに謝るのだった。
それ以来凛は男の人に怯えるようになった。大学生になる頃には会話ができる程度には回復していたけれど、身体に触れられたりするとどうしても思い出してしまうらしい。
私はそこに漬け込んだのだ。
大学も同じところに進んだ私達は相変わらずバレーボールをやっていた。凛は途中で怪我をしてしまって、プロ選手になることはできなかったけれど、部活内ではかなり活躍できる選手だった。高校から大学までの間で私はかなり彼女しか見えなくなってしまって、私は耐えきれなくなって彼女に思いを伝えたのだ。
男との恋愛が怖くなってしまっている今がチャンスだと思ってしまった。
「ずっと好きだったの」
最低なことをしている。それはよくわかっていた。恋愛で傷ついた彼女につけこむような真似。情けなくて申し訳なくて、私は私自身に幻滅しながら涙をこぼして告白したのだ。
「いいよ」
彼女はそう言って、ふわりと笑った。がばりと顔を上げて見えた彼女の表情は、優しさに溢れていた。
彼女が私と付き合ってくれるのは、同情だ。彼女自身が本当に心の底から恋愛感情で私のことが好きじゃないこと、そして、恋愛をする余裕が未だにあるわけじゃないこと。全部わかっていた。全部わかっていて、彼女の優しさに私は甘えたのだ。
多分、凛も自分の気持ちをわかっていながら、私と付き合っていた。凛は凛で、自分のそばに常にいてくれる人が欲しかったのだ。お互いが、お互いに依存して、恋愛感情よりも複雑な何かが私達の間で渦巻いていた。
「このままじゃ私達駄目になる」
「そうだね」
恋人としての関係の終わりはたったそれだけだった。別れようという言葉は出てこなかった。
「ねぇ最後にデートにいかない?」
「恋人てしてのデートの最後ね」
私達はきっと、人生の終わるその時まで隣に居続けるだろう。ただその関係性が変化するだけ。私はどうしようもなく彼女が好きだったし、彼女も私がいないと駄目だった。だからこそ、恋人でいるには危険すぎた。
二人で最後のデートは、海だった。崖の上に立って、初めて恋人としてデートしたときに買った指輪を、二人で思いっきり投げ込んだ。多分そのとき、私達は一回死んだ。
「大好きよ、親友」
「私も!」
二人でギュッと抱きしめ合う。恋人のような甘さはもうそこにはなかった。
今でも凛のことは大好きだ。愛している。それを見せないように隠しつつも彼女のそばから離れられない。彼女も恋人を作ればいいのに、一向に作らないから尚更そばにいてもいいかとついつい甘えてしまう。
「早く恋人作ってくれればいいのに」
そうすればきっと私はすっぱり諦められるのに。千尋ちゃんの部屋を出て、凛の部屋の前で一瞬月を見る。月が綺麗ですね、という言葉がI love youなら、その隣で輝く星が綺麗なことを伝えたら、どういう意味になるのだろうか。友達として貴方のことが好きです、だろうか。それでもやっぱり凛は、私にとって輝く月だ。
「くだらな。やめやめ」
はぁと深いため息が、夜空に消えた。
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