第30話 初めてのキスには熱がこもっていた

 

「ごめんね。こんなに泣いちゃってパジャマも汚しちゃって。」


 白銀に輝く髪をなでていた腕は、しばらくすると、千鶴さんの涙を拭く役目を担っていた。千鶴さんは、俺の腕にうずくまるようにして泣いていたのだ。


「まあ、いいんじゃないですか。偶には。それよりも大学生にもなって泣いたら、黒歴史になりますよ。ソースは一ヵ月前の俺です。」

 同じようなことをしたり、秘密の共有や自己開示(自分を知ってもらうこと)は仲良くなる秘訣だと、どっかで読んだことを思い出して言ってみる。


「ふふ。じゃあ、おんなじだね。せっかくだし、お礼に童貞もらってあげようか。」

 俺の冗談じみた言葉に千鶴さんも優しく冗談で返す。こんな関係があってもいいのかもしれない。

 最悪の仲の年上の女性と、少しだけ仲良くなって合宿二日目は終了した。


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 最悪。有り得ない!千里さんにならいざ知らず、千鶴さんにあの大切な思い出を言うなんて。

 だって、あれは、初めての二人のキスだったんだよ。


 あの時のことは、よく覚えている。


 川遊びに来ていた私たちは、地元の子どもと仲良くなって、その子たちがよく行くという、少しだけ流れの速い川に来ていた。もちろん、お母さんも、けんたろーママもこのことは知らなかった。


 親に内緒ですることは、罪悪感もあったけれど、楽しかった。ほんの少しだけちゃんとした大人になった気分になれたんだ。

 ほんの少しの冒険が、秘密基地で遊ぶみたいにワクワクするものだった。


 その頃は、二人とも二五mプールで泳げるようになったばかりで、どこでも泳いでいけるという根拠のない自信を持っていたのも、その流れの速い川に挑戦した理由だと思う。


 その時は、けんたろーに恋愛感情なんて無かったけれども、それでも、大好きなけんたろーと一緒に、二人で、親に内緒で遊ぶことはとっても楽しかった。その日も、その延長に過ぎなかったはずだった。親が一生気付かないはずのひと夏の思い出になるはずだったんだ。


 でも、私は、そこで溺れてしまった。


 夏とはいえ、川の水はヒンヤリ冷たかった。急に身体が冷えたためか、それとも、連日の遊びで疲れがたまっていたのか、私は川の中で足をつってしまった。

 

 突然のことにパニックになった。私は足を吊ること自体、その時が初めてだったので、どうすればいいのか分からなかった。

ふくらはぎがきゅーっと縮んでいって、痛くなって、動かない。どうにもならない身体の異変にパニックを起こしていた。


 どうしようもない中、身体が川の流れによって流されていった。


 もしかしたら、その時に”助けて”と言えば、誰かが気付いたのかもしれないが、怖くなった私は叫ぶことすら忘れていた。

 もしかしたら、ふくらはぎがつって動かないのと同じように、声も出せなくなっているのだと勘違いしてしまったのかもしれない。そこら辺はよく覚えていない。


 足が動かせない中、川の流れに沿って自分の意志に関わらず、進んでいくのは、すごく怖かった。

 段々と、段々と、皆のいる方向とは逆の方に流されていく。皆の姿がみるみる内に小さくなっていく。

 川の水は激しいので、鼻まで水が入ってきて、せき込む。せき込んでいる間も、水が口と鼻に入ってくる。何とか浮こうとしても足は思い通りに動かない。むりやり、動かそうとしても痛みが走るだけで動いてはくれない。それに、皆、川遊びに夢中で私がいなくなったことに気付いてくれない。ほんとに死んじゃうんじゃないかって思った。


 それでも、必死になって、川の途中にある岩の出っ張ったゴツゴツしたところを、突き指をしながらも何とかつかんだ。

 けれど、その時も助かったとは思えなかった。


 私をせき止めてくれた岩は、同時に水もせき止めるものだった。川の流れが激しくぶつかって、噴水のように水しぶきをあげているような場所だった。


 川の流れによって、少しだけ身体が浮く。

 やっと息が吸えると思ったら、次の瞬間には頭まで沈んでいる。

 息がまた吸えなくなる。


 その繰り返しで、段々と呼吸がしずらくなっていく。

 

 『ああ、やっぱりこんなことするんじゃなかった。

 ごめんね、お母さん。黙って、危ないことして。』


 その繰り返しの中で私は死ぬことを覚悟し始めていた。沈みゆく身体と意識の中で、私は、お母さんにただ、謝って泣いていた。



 その時、声がした。

 聞き慣れた子どもの甲高い声だった。

 けれども、私には頼りになる安心できるものだった。

「りーーーん、捕まれぇぇぇ!」


 ポチャリ


 溺れかかっていた私は、何もかも分からないまま、必死になって、音がした方に手を伸ばした。その後のことは、夢でも見ているかのようだった。


 何とか岸辺に上がることができたものの、水を吐き出す体力もない。横に寝かされたのは覚えているが、話すことはできなかった。

 意識はあるのに、声が出ない。まるで幽体離脱をしたかのように、意識だけが保たれていて、身体が全く動かないという不思議な体験だった。


「凛、大丈夫か。」


 慣れ親しんだ声がもう一度した。でも、やっぱり、呼吸もしにくくて、空気を感じられない。音が作れない。

「おい、やべーよ、やべーよ。しんじゃうんじゃねーか?どうすんだよ。」


「お、おれはだから素人風情が泳ぐなんていけねーっていったんだよ。」


 そういえば、地元の友達が、お父さんの受け売り言葉でそんな言葉を言っていたような気がする。ってことはその友だちの声だろうか?


「凛、凛。」


 泣きそうになって肩を叩く暖かい手も感じる。


「くそっ。ぜってー助けてやるからな!?」


 そう言って、声の主は離れていった。


「お前らは…親を…で救急車を…最悪…だれでも…大人に…。」

「でも…だって…」

「いいから早くやりやがれ!」

 怒鳴り声がした。こんな怒鳴り声は聞いたことがないってくらいの声だった。

 しばらくすると、その人は戻ってきた。


「えっと、こういう時は他に何をすりゃいいんだ?そうか、昨日、テレビで人工呼吸ってやっていた気がする。でも、これってキスに…。凛ちゃんに嫌われるかも…。って、何を気にしてんだ、俺!嫌われてでも助けなきゃダメだろ!大切な幼馴染だろ」


 懸命な震える声がした。そして、唇に暖かいものが流れる。その流れが私に熱を呼び起こす。冷えていた身体が少しずつ、少しずつ、ポカポカしていく。

 身体があったまると同時に、鼓動が感じたことのないくらいに早くなっていく。

 身体がびっくりしているのだろうか?死にそうになると鼓動も早くなるのかな?初めはそう思った。だけど、それが間違いだってすぐに気付いた。


 私は恋に落ちた。

 

 ただ、それだけだった。



 小学校の頃のけんたろーは、多少、独り言が多かったけれど、それでも、普通に友達もいたはずだった。なのに、少しずつ、少しずつ独りになっていった。


 正直すぎるから、人を傷つけることもあったのかもしれない。それが原因かもしれない。それでも、わたしにとってはたった一人のヒーローだった。


 それなのに、その思い出を穢すなんてけんたろーなんてきらい!


 私だけのヒーローでいいのに、何で、皆にばっかり構うの?

何で、けんたろーが嫌いな千鶴さんにまでかまうの?

 コミュニケーション能力なんてなくたっていい。私だけがけんたろーのよさを分かっていればいいんだから!


 私は枕を抱えながら、一人、泣いていた。

 けれど、私の手を掴んでくれる大好きな幼馴染はいなかった。

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