ダルマの消失(2)

 引っ越してきて、ルカヤとエヴァンの部屋は別々になった。

 兄の部屋は玄関近く。ルカヤの部屋は家の中心に。


 数少ない訪問者が来れば、外面のいいエヴァンが対応するためだ。ルカヤは内気でセールスマンにも押され気味になるので、見つからないよう奥で過ごす。


 ワゴン車からルカヤを救い出したエヴァンは、ルカヤを引きずるように家に連れ帰った。

 ルカヤの自室に彼女を放り込み、後ろ手にドアを閉じた。


「俺はよく我慢した」


 エヴァンは額に手をあてる。

 強く練った呼気とともに、長年の感慨を吐き出す言い方だった。例えば、植えた草木が試行錯誤の末にようやく実った農耕者のようだ。


「よかれと思って堪えてきた。こらえ性のないこの俺が」

「兄さん……?」


 隠れた双眼のした、エヴァンの唇は弧を描いていた。

 アシンメトリーな笑みは諦念の表れだ。しかし、きゅっと上がった口角に歓喜が滲んでいる。


「な、なんか怖いよ」

「そうかい」


 ふくらはぎの裏がベッドのへりにあたり、毛布の上にすぽっと尻もちをつく。尋常ならざる兄の様子にルカヤは後ずさった。


「に、兄さん。わたしをどうするの?」


 もっと下がろうと手と足を動かす。シーツにしわがより、ケーキを飾るクリームめいた模様が出来ていく。模様は魚が逃げようとはねた湖面にも似ている。


「アリーゼさんがわたしと同じからだなのは……聞いてもいいこと?」


 ルカヤの震えた質問を受け、兄が掌の仮面を外す。


「昨日まではくちが裂けても教えなかった。今日からは教えてやる。もう意味がねえからな」


 エヴァンがルカヤに向かって歩き始めた。

 彼の体は常にルカヤとドアのあいだを塞げるよう位置している。

 わきを走り抜けるのは困難だ。きっとルカヤより高い身長と腕で、簡単にからめとられてしまうだろう。


「アリーゼか。高校の時の女たちよりは悪くなかったぜ。なのに本気で惚れられなくて、残念だった」


 逃げ先は後ろだけだ。振り返らずに下がり続けたルカヤの背が冷たい壁にぶつかった。

 兄の手がルカヤの顔の横に置かれる。


「腕、もうよくなったのか?」


 暖かな風が顔をかすめる。兄の息だ。兄の心臓が脈動し、肺が機能している証拠。兄の生命の証。

 鼻の頭同士がふれあいそうな距離で、彼を確かに感じる。よく知っているエヴァンのしたたかで傲慢な存在感が、家族であっても許されない近距離にある。


 自分をどうにでもできる距離に他人・・がいることへの生理的な恐怖がこみ上げた。いつもなら意識もしない生々しい気配に、ルカヤは肩をこわばらせる。

 目の前にいるのは、一心同体同然の血肉をわけた肉親ではない。エヴァンという一人の他人――知らない男だった。


「……よくなったよ……」

「そうか。よかったな。俺ぁよ、あんときゃすっかり驚いちまってな。自分でも意外だったんだが。覚えてるか。お前、ガキの頃は俺よりちからづよかったよな。木に登って、走り回って。それがいつのまにか、あんな簡単に傷ついちまって」


 エヴァンの利き手の指がルカヤのおとがいを伝い、人差し指と親指でルカヤの両頬を挟み込む。


「女になったな、ルカヤ」


 ルカヤの全身に衝撃が駆け抜ける。

 思わず両腕を前にだして、エヴァンを突き飛ばす。しかし非力なルカヤの空いた片手であっさりとつかまれた。

 頭頂からつま先まで通った感覚が、寒気と鳥肌だと遅れて自覚する。北極の薔薇のような兄の美貌がかえって気持ち悪い。


「やめて、お願い。勘違いさせるようなこといわないで! 兄さんを嫌いになりたくないの」

「嫌いにならなきゃいいだろ。とっくの昔から気付いてたくせに。もう手遅れなんだよ」

「っ、」


 兄の言葉はいつだってルカヤを甘やかしてくれた。

 今、想像しては聞きたくないと願い続けてきた台詞を突きつけられた。息をのむ。

 ルカヤの顎を掴んで固定したまま、エヴァンの指がルカヤの頬をなでなぞる。

 瞳が恍惚うっとりととろけた。見たことのない表情だ。


「――可愛いなあ。可愛い……」


 親指が唇に移動し、下顎の歯を四角い爪がつつく。

 ルカヤの体は言い知れぬ恐怖にガタガタ震える。動けない。


「生きてるって感じがすんなぁ。ガキの頃はいつ死んじまうんじゃねえかってはらはらしてたのが、こうしてここにいる。お前の頬はこんな泡みてえにふわふわしてたのか。弱ェなぁ。優しい血の温度がする。存在してるだけでこんなに可愛い」


 エヴァンは日常的に気障に褒め殺す。

 いっぽうで、「可愛い」など、シンプルで、それゆえに砂糖をぶちまけたような甘ったるい表現は滅多になかった。稚拙な伝えかたは格好が悪いから、という理由だ。

 その兄が、不自然に輝いた目で、異様な情熱を表していた。

 エヴァンはぐしゃりと金髪をかき乱す。


「ああ、くそ。なんでだよ」

「に、兄さん……離れて。本当に。怖い……休もう。カフェラテ、淹れるから……」

「女をどんなにめちゃくちゃに抱いて、愛を訴えられても、すぐ冷めちまったのに。お前が安心した顔でいるだけで安らぐ。お前が笑うと心が舞いあがる。どうしてよりによってお前なんだ。誰で試しても止まらねえ」


 エヴァンの手が肩に移動した。怯えるルカヤの体をなだめるように優しくさする。エヴァンには切実な響きがあった。

 ルカヤでもいい加減直視できる。これは愛の告白だ。

 ルカヤは自由にならない体で、目玉だけを兄からそらした。


「兄さんは……わたしとは違う。兄さんはきちんと誰にだって愛される。わたしじゃなくてもいいよ、絶対に」

「愛されたって無意味だったって言ってんだよ。俺が愛せるのはお前だけだ」


 エヴァンがベッドに片膝をのりあげ、上半身の重みをルカヤにのしかけた。

 エヴァンからすればちょっとした、ルカヤにとっては逆らえないちからで、押し倒される。


「い、いやっ! やめて、触らないで!」

「ルカヤ!」

「兄さんじゃない! 兄さんはかっこよくて正しいんだ! 家族は……そんな目しない!」


 自分と全く同じ色をした目が、熱をはらんで見下ろしてくる。湿っぽい吐息まじりに名を呼ばれるのがたまらなく気持ち悪い。

 大好きな兄の顔をした男の顔が歪む。笑ったまま、どこか憎しみを込めて。


「俺がマトモじゃねえっていいてえのか?」

「兄さんにそんなこと言いたくない。兄さんはいつだって私を助けて、支えてくれた。兄さんを傷つけるようなことさせないで」

「気にするな、遠慮なく傷つけろ。遠慮ばかりのお前から受ける痛みなら、悪くねえ」


 エヴァンがルカヤにまたがった。エヴァンの質のいいスーツの生地がのび、衣擦れの音がする。

 そして邪魔くさそうにシャツの首元を緩めた。

 ルカヤの目元からじわじわと苦い涙がにじむ。


「兄さん、おかしいよ。疲れちゃってるんだよ、休もう。お金ならためてるから、またカウンセリング行こうよ」


 説得の方法がわからない。過去の記憶をつたい、たどたどしく紡ぐ。

 エヴァンはまた笑った。どこか切れてしまったような、高揚と自棄のいりみだれる複雑な表情。諦念の笑み。


「ははは」


 獣のような笑顔だった。


「頑張るなあ、ルカヤ。だがよ。マトモが俺達を助けてくれたことがあったか? 親父どもも世間から見りゃあ立派な社会人らしいぜ。俺達がババアとの生活にむしばまれている時、のんきに逃げてやがった奴らがだ。見て見ぬふりしてた近所も、知ろうともしなかった学校に友人も」


 エヴァンが倒れこみ、覆い被ってくる。電気のあかりがさえぎられ、ルカヤの全身がかげった。

 耳にかけていた金髪が重力に従ってさらりと落ちる。


「ルカヤ。お前は真面目で気が弱くて、優しいから。ギリギリになってもマトモにしがみついてるよなあ。世間様から見りゃあ偉くて、そうなる努力が当たり前なんだろうよ。でもそれじゃあお前は幸せになれねえよなあ」


 ルカヤの胸元にエヴァンの指先が落とされ、うろつく。


「俺はずっと味方だ。安心しろ」


 男らしくなった手がボタンをひっかけた。

 しかし白く丸いボタンを摘まみはせず、緩慢に、上へ上へとあがっていく。

 気のせいか。兄の喉がゴロゴロとなった。ルカヤの浅く上下する胸板を楽しむようだ。


「俺がお前をマトモじゃなくしてやる」


 肌をのぼった指先がルカヤの薄い喉笛に触れる。

 ルカヤの頬を伝い落ちる涙は細く、途切れず流れ、枕を濡らす。それに兄の眉目が苦しそうに寄った。


「兄さん」

「恨めよ、ルカヤ。あとから、俺がくれてやれるだけの幸せすべてでありったけ埋め合わせはするからよ」


 希望を求めてあえいだ首に、両手がかけられる。

 彼は愛する女の首をしめた。

 白い喉は子猫のように柔らかかった。骨張った指先が沈む。


「本当に運の悪い女だ」


 馬乗りになったエヴァンの下であえぐ女は、それをきいてぽろぽろ泣いた。


「酷い。酷い人だよ、あなたは」

「……安心しな。お姫様が棺のなかで寝ている間に、全部終わらせてやるからよ」


 指に力を込められる。すぐルカヤの意識がもうろうとし始めた。

 脳が真っ赤に灼熱する。視界がバチバチ明滅する。


――もう息が、抜けちゃう。


 気絶する。これが最後の呼吸だ。

 そう自覚して、わけがわからないまま、ルカヤの口蓋が終わりをはきだそうと開く。


「ああ、そうか。俺はもう我慢しなくていいんだったな」


 実感がわかないという抜けたエヴァンの声が落ちてきて、次には、唇がかさついたもので塞がれていた。

 息が男のなかに奪われていく。

 それが気絶前の最後の記憶となった。

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