とびだつ鳥の向かう先(6)
ルールを守れば、エヴァンは頼れる優しい兄のままだ。
今日はカルボナーラだ。リビングにいても、キッチンからとろけたチーズの濃厚な匂いが漂ってくる。
「おう、できたぞ」
一言かけて、黒いエプロンをかけた兄が食事を並べ出す。ぼうっとクッションを抱きしめてソファに寝転んでいたルカヤも、のそりと起き上がり、食器棚からフォークとコップを運んだ。
「おいルカヤ。お前、疲れてそうじゃねえか。もう寝間着に着替えてこい」
「お風呂あがったらにするよ」
「服に汚れがついたら洗濯の手間が増えるだろうが。ぱぱっと着替えろ。で、冷める前に食え」
しっしっと犬を追い払うみたいに煽る。口元は笑っていて、あくまで冗談だとわかった。
ルカヤは兄に背を向け、おし隠した嘆息をこぼす。
(こういうところ、困るんだよね……)
ルールを破った時の兄は、ルカヤでもわかるほど異常だ。
だというのに、こうしていまだに暖かな時間をくれるから、嫌いになりきれずにいる。
いっそもっと酷い人なら、思い切って捨ててしまえるのにとすら思う。
パジャマに着替えて戻ると、エヴァンがスープカップになみなみ注いだミネストローネに、粉チーズをかけていた。
花柄の皿にもられた黄色いパスタ麺は、あぶらで艶めいている。中心に、半熟とろとろの卵が太陽のように落とされていた。
「……美味しそう」
「はっ、美味いに決まってんだろ」
いそいそ席についたルカヤを横目に、エヴァンは嬉しそうに鼻で笑った。
エヴァンのカルボナーラはベーコンを分厚く切る。肉はジューシーで噛み応えがあるほうがよいのだとか、なんとか。
要はエヴァンの好みだ。これがまた美味しい。コショウがあらびき胡椒がふってあるのもよい。
フォークでくるくるとパスタを巻き、舌に乗せる。
弾力を残したチーズと甘いクリームソースがまろやかなハーモニーを奏でた。
そのままではすぐに食傷気味になるところを、コショウがパンチを効かせて、ぐっと味覚を引き締める。
ベーコンをぷりっと噛みちぎる感覚は愉悦極まる。
「兄さんっていつでもいいお嫁さんになれるよね……」
「起きてるうちから寝言を言うな。なるなら夫だろ」
「毎日こんな美味しいご飯を食べられる奥さんは幸せだね」
「…………」
「えっと。そういえば、さ。兄さん、彼女さんとはどうなったの? 大学の時からの……まだ続いてる?」
ルカヤはこの質問をする時、そわそわせざるを得ない。兄は相変わらず、この手を話を自分から切り出さないのだ。
兄の目はルカヤの手を見つめていた。
半熟卵をわって、黄身をかき混ぜるのを眺めていたエヴァンは、かったるそうに指を顎にまわして考え込む。
「どうなの?」
「あー……そうだな。悪くはない」
「ちゃんと……なんてわたしが言う立場じゃあないけれど……記念日とか祝ってる? 女の人ってそういうの喜ぶらしいよね」
「お前だって女だろ。まあ、そういうことなら。一応今度、指輪でも送るつもりだぜ」
「指輪!?」
衝撃にフォークを取り落とす。
エヴァンは皿の上に転んでしまったフォークを、わざわざ立ち上がってシンクに運ぶ。
エヴァンが戻ってきて新しいフォークをさしだしても、まだルカヤは混乱していた。
「え、きゅ、急じゃない? 全然そんな話してなかったよ」
「そいつと結婚するとは言ってねえだろ。贈り物ぐらいするっての」
「あ、そ、そっか。ごめん。早とちりした」
「欲しけりゃお前にやるけど」
「いらない……彼女さんを大切にしてよ。もらってもうちの職場じゃつけられないし……あー、びっくりした」
ちからが抜けて、ソファにぼすんと背中を預ける。
兄が結婚。想像もつかなかった。いつか兄にそんな人が現われればいいな、とはずっと思っていたけれど。
だが会話をきく限り、大学時代からずっと同じ女性と付き合っているようだ。「別れた」と否定されなかった。
「ねえ兄さん。今度、彼女さんと会わせて欲しいな。いいでしょう?」
「ああ。今度な。機会があれば」
ルカヤのおねだりに、エヴァンはどこでもない宙をみて、生返事する。前々から何度もねだっているのに、兄は乗り気でないらしかった。
ルカヤが意図せず兄の恋人に会ったのは、その三日後。職場での遭遇であった。
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