硝子の上をひたはしる(2)
正午が過ぎた。生徒達がおしゃべりがてら、鞄に荷物をしまう。帰る時間だ。
これから家に帰って昼食をとる生徒もいるだろう。
ルカヤとエヴァンの場合、今の時刻に帰ると祖母にはちあわせるので、外で食べることにしていた。
机の上にお弁当を広げる。これを食べたらいつも通りランニングで体を作る。
ルカヤの趣味はマラソンだ。
兄と比べれば容貌も要領も悪く、成績も大差ないルカヤだが、運動だけは得意だった。
特にマラソンは競争相手と手足を出して戦わずに済むので、性に合う。
イタリアではマラソンが大人気で、探せばどこかしらでいつでもマラソン大会が開催されている。
4キロ程度のミニマラソンであれば10ユーロ程度で参加できる。
観光名所を巡るような緩く楽しいコースもあり、ランニングマラソンでは参加記念のTシャツが貰えることが多い。
何より嬉しいのが、最近はインターネットでお手軽に登録できる点だ。人見知りなルカヤでもハードルが低い。
そのうちこれで結果を出せれば祖母も認めてくれるかもしれない。両親だって、祖母がやわらかくなれば戻ってきやすいはずだ。想像が膨らめば、ますます走るのが楽しくなる。
コンビニで買った牛乳とあわせて昼食を楽しむ手も早くなってしまう。
「あ、ルカヤちゃん!」
チキンサンドを飲込んでから振り返る。
ルカヤのように教室で食べる理由がない生徒なら、さっさと帰っている頃合いだ。
振り向けば、数人の女子生徒がルカヤに近寄ってくるところだった。
彼女達の顔ぶれには覚えがある。ルカヤはそそくさと弁当をしまい、自分の長く伸びた黒髪をひとふさ持ち上げた。
「結ぶの?」
「流石ルカヤちゃん、話が早い!」
少女達が一気に距離を詰めてくる。
ルカヤも人がたくさんいる学校に通い出して随分経つはずだが、未だに人に囲まれるたびドギマギする。
反射的に小動物のように縮こまるルカヤの後ろに並ぶ少女達は、構わずかしましい。
「今日はこっそりアイロンもってきちゃった!」
「ほんとルカヤちゃんの髪って綺麗よね~!」
「見た目は絹みたいなストレートなのに、触り心地はふわっとして、でもやっぱり全然ごわつきがないのよね……どんな手入れしてるの?」
「特に……特別なことは何も……」
複数人でひとつの生き物として生まれてきたかのようだ。矢継ぎ早に次々と喋る。一体いつ息継ぎをしているのか。
その騒がしさと表裏一体に華やかでもある彼女達は、若い女性らしく、おしゃれに興味津々であった。
彼女達からすると、ルカヤの髪は宝物に見えるのだという。放課後になると、こうしてたまにやってくる。ルカヤの黒髪をアレコレといじるのだ。
普段はシンプルに首の付け根のあたりでひとつにまとめられている髪が、この時だけは女の子らしくなる。
もごもご喋るルカヤと正反対に、少女達は「えーっ」と合唱した。
「嘘ォ、羨ましい!」
「やっぱり血なのかしらねえ。お兄様もサラサラだものねえ」
「そ、そこまで珍しいかな」
「そうよそうよ。あたし、どうしてもくせがでちゃうから、ウェーブですって感じにごまかしてるもの。黒髪の子は多いけれど、ここまで綺麗な黒髪はおんなじ学年だと他は一人ぐらいしか知らないなー」
ルカヤの髪にみるみるうちに編み込みが施される。器用だ。
ルカヤはそっと目を閉じた。
うまく話せないので、終わるのをじっと待つ。
口を開くと、暖かな空気がコーヒーにいれた角砂糖のように壊れてしまいそうで。
こうしていると、自分の髪で天使達が花冠を作っている気分になる。
むずがゆい。兄ならばともかく、ルカヤには過ぎたものに感じる。決して嫌いではない時間だ。
「よーし終わった!」
「いっぺん本気で結んでみたいけどねえ。これから走るんでしょ?」
「うん」
「じゃあ仕方ないわ。あたし達はお姫様が春風みたいに走るのを楽しく見ることにする」
チャオ、と手を振ってにっこり笑う。
今度こそ帰って行く彼女達に、慌ててルカヤも別れの挨拶をした。
ルカヤからすれば彼女達こそ、通りのよい爽風だ。
自分の鞄を背負い直す。
体力作りのために早足で家に帰った。荷物を家に置いたら、着替え、祖母に見つからないうちにまた出かける。
次に出る予定のマラソンコースに着くと、また声をかけられた。
今日はよく話しかけられる日だ。
「ドゥランテ!」
「……ルカヤでいいよ。兄さんと区別できないから」
近頃よく見かける男の子だ。小首を傾げ、彼をのぞきみる。年齢はルカヤと同じか、少し上なくらいか。
男の子にはサッカーが大人気で、大抵はスポーツクラブでプロコーチの指導を受けるものだが。ルカヤと同じような物好きもいるらしい。
「兄さん?」
「エヴァン・ドゥランテ」
兄の名を出しても男の子はピンと来ず、キョトンとまばたく。
エヴァンは校内ではよくも悪くも有名だ。
彼とは同じコースを走ることが何度もあって、度々会話したことがある。そういえば彼は学校が違う。
「知らないならいいの」
「そう? でも、許してくれるのならこれからは名前で呼ぶよ。ルカヤ。うん、綺麗な名前だ。凄く言いやすい。お礼に僕のことも名前で呼んでくれ」
「ジーノ?」
「そう、ジーノ」
チャーミングにウィンクをして、ジーノは一足先に走り出す。
なんとなくルカヤもジーノを追いかけた。自分と走りたがる男子がいるなんて、珍しいなあと思いながら。
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