5
右手で左手を引き抜く。
克己は、目の前の信じがたい光景をそうとしか表現できなかった。
智佳が自分の体を分解できることは知っていた。だから、智佳が右手で左手を引っ張り、手首から先を分離させること自体は、今更驚くに値しない。
しかし、それだけではなかった。智佳が取り外した左手首の付け根部分から、まるで警察の警棒のような黒い棒状の物が伸びていたことに、克己は目が離せなかった。さながら左手を柄とし、左腕という鞘から、鉄棒のような刀を抜いたような動作だった。
――まっ、智佳ちゃんのオニはそれだけじゃないのが凄いところなんだけどねぇ――
瀬戸が言っていたことを思い出す。もしかして、これがその凄いところなのだろうか。
克己と同様に、手村もまた目を見開き驚愕の表情を見せていた。
「お前、それ――」
「――ふっ!」
手村が呆気にとられている隙を見逃さずに、智佳は鉄棒を少し持ち上げ、小手の要領で素早くのこぎりを握った手村の右手に振り下ろした。
「がっ……!」
痛みに耐えきれず、手村はのこぎりを地面に落とした。すぐさま拾い直そうとしゃがんだが、痛む右手を左手で抑えるばかりで、それ以上は何もすることができなくなっていた。
「……だから戦うときは下がっててって言ったのに」智佳が横目で克己を見ながら言う。
「いや、だからっていきなりすぎるってば!」
克己もまた手村と同じく左手で右手の甲をさすっていた。半泣きになりながら。
克己としても咄嗟に目をつぶればよかっただけなのだが、変わり果てた手村に、のこぎりや智佳のオニの新たな一面など、矢継ぎ早の展開について行くのに精一杯で対応が間に合わなかった。
手村は手負いの獣のように激しく息を切らしながら、上目遣いで智佳を睨んでいた。智佳はそれに対抗するようにして、冷ややかな目で見下ろしていた。
「これ以上余計な抵抗をするようなら、今度は脳天を打つわよ」
智佳はそう言って鉄棒の先端を手村の顔に向けた。手村はびくっと震えるようにして一歩後ろに下がった。
「抵抗する気がないのなら、私の質問に――」
「うっ、うわあぁあっ!」
唐突に叫んだかと思うと、一歩後ろに下がった勢いのまま手村は体を反転させ、走って板滝山寺の出入り口の方へ逃げ出した。
智佳は一瞬虚を衝かれたが、一度左手首を元に戻してから、手村の後を追った。克己も一緒になって走った。
階段から見下ろすと、手村はすでに階段を下り切ったところだった。そこから曲がって登山道に沿って走るのかと思いきや、躊躇なく正面の茂みの中に飛び込んだ。
「嘘でしょ……」
克己と智佳は階段を走り下りて、手村の入った茂みの前で立ち止まった。がさがさと草木が揺れるような音と飛び飛びになった手村の悲鳴が聞こえる。それとともに、克己の体の節々にも痛みが走る。
「転がったのか……?」
「そうみたいね。ここ下り坂になってるし」
目を凝らすと確かに地面が若干傾いていることはわかったが、その先がどこにつながっているかまでは見えなかった。さらに周りを見渡すと、手村が入った茂みの脇に人一人がぎりぎり通れそうな細い獣道があった。
「あそこ、行ってみよう!」
「えぇ……」
克己が指差すと、智佳はこれでもかというほどわかりやすく嫌悪感を顔に出した。克己と同様に、今回は智佳もスカートではなく家で着替えてきており、上下セットのウインドブレーカーを羽織っていた。しかしそれでも清潔好きの智佳としては気が進まないようだった。
「それじゃあひとまず僕一人で行ってみるよ。危なそうだったら声出すから」
克己はそう言って獣道に足を一歩踏み入れた。
「じょ、冗談よ。あ、あなた一人じゃつかめ、捕まえらんないでしょ」
「…………」
冗談とは思えない動揺ぶりで、智佳は克己の後ろをついてきた。目は半開きで恐る恐ると言った足取りの智佳は、逆に克己の方から見て心配だったが、もうのこぎりは手放したとはいえ手村の動きを止めるためには確かに智佳がいた方が心強いので、そのまま進むことにした。
体を横にして、転ばないように、綱渡りをするかのような慎重な足取りで木々の合間を縫って歩いた。動くたびに生い茂った葉が顔に当たり、小さな虫が飛んでいるように見えたが、気にしていられなかった。むしろ一歩進むたびに後ろから聞こえる「ひっ」という小さな悲鳴の方が克己は気になった。
克己たち以外に物音は聞こえなかった。どうやら手村が転がり終わったようだ。
「これじゃあ、手村くんの、場所、わからないわね」体力があるはずの智佳が、息も切れ切れに言った。
「でも痛みは感じるから、近い、と思う」
克己は目を閉じて集中した。他者の痛みは突然降りかかってくるもので、自らそれを受けようとしたことはなかったが、感覚的にできるような気がした。手村から共感した右手の痛みや転げ落ちたときの全身の痛みはまだ残っている。それらの痛みの発信源を探ろうとした。
「たぶん、左の方から、痛みを感じる……」
克己は目を開いて、茂みをかき分けるようにして左側に入り込んだ。足場などないに等しい場所だったが、なんとかして歩みを進めて、顔を上げた先に、木に絡みつくようにして倒れている手村を見つけた。
「いたよ、手村くんだ。気に引っかかって、気絶してるみたい」
後ろを向いて智佳に伝えると、智佳は感心したように「わお」と言った。
「すごいわね、真岳くん。そんなセンサーみたいなこともできたのね」
「初めてやったんだけどね。意外とできたみたい」
手村が倒れている辺りは高い木が密生しているエリアのようで、さらにその向こうに人が歩けるような道が見えたので、手村を担いでそこへ向かった。
「よいしょ、っと」
道の真ん中に手村を下ろした。智佳にも手伝ってもらったとはいえ、足場が不安定な場所を人を担ぎながら歩くというのは克己には想像以上の重労働だった。
「ここは、普通の登山道みたいね」
智佳の言う通り、先ほどまでとは違い三人ほどしか横になって歩けないほどの幅ではあるが、舗装された登山道のようだった。人の気配はしないが、別ルートの登山道なのかもしれないと克己は推測した。
「よっ、と。やっと追いついたー」
克己たちが一息ついたところで、由利が克己たちの通ってきた場所から飛び出した。
「いやーびっくりしたよー。二人の後追いかけたらすごいとこ飛び込んでいくんだから。なんかでもジャングルの冒険って感じで楽しかったー」
楽しかったという言葉通り、疲れ切っている克己と智佳とは違い、由利はいつも通りの明るさを保っていた。
「……南戸さんは、こういうの平気なのね」信じられないものを見るような目つきで智佳が言った。
「あー智佳ちゃん疲れてそうだねー。確かに智佳ちゃんは虫とか苦手そうだなー」
「得意な方がおかしいのよ……」
智佳はニコニコした由利から目を背け、倒れている手村に目を落とした。手村の意識はすでに回復しており、四つん這いの状態で痛みに呻いていた。智佳は克己の方をちらりと見た。克己が平然としているのを見て、手村の痛みもたいしたことないと判断したようだった。
「さて手村くん。今度こそ落ち着いて話をさせてもらうわ」
智佳の声に反応して手村は顔を上げた。しかしその目線は智佳ではなく由利に向いていた。
手村が由利と目が合った瞬間、克己の胸のあたりに鋭い痛みが走った。
「ど、どうして、お前がここに……?」
由利は一歩前に出て、手村と向き合った。
「私、あなたに謝りに来たの。傷付けてしまって、ごめんなさい」
由利は具体的なことは言わず、ストレートに謝って、頭を下げた。
そんな由利を見て手村はきょとんとした様子を見せたあと、俯いてクックッと笑い出した。
「もう遅いんだよ、今更。というか謝らなくてもいいんだよ別に。だって、俺はもう、復讐は果たしたんだから」
「復讐って?もしかして、手村くんが私のことストーカーしてたの?」由利が聞くと手村は再び顔を上げた。血走った眼で由利を睨む。
「それだけじゃない、お前んちの犬のことだよ!チワワだったか?あの小さいやつだ。俺がお前の後をつけて、いつも可愛がってたそいつを攫ったんだ。それで、俺がそいつを殺したんだよ!」
手村はかすれた声で、一息に言い切った。
「まさか、あなた」智佳はハッとしたように言った。「バラバラ死体っていうのは……」
「そうだよ、殺したあとにバラバラにしてやった。別に痛めつける程度で殺すつもりはなかったが、きゃんきゃんうるさいから蹴ったり首絞めたりしたら死んじまったんだ。そのときに犬に指紋が残ったからどうしようと思ったときに、名案が浮かんだ。この犬をバラバラにして、バラバラ男のせいにしてしまえばいいって――」
そこから先の話は、ほとんど智佳の推理通りだった。一つ違う点を挙げるとするならば、手村が殺してバラバラにしたのは人ではなく犬だったということだけだ。
手村は先ほどまで必死に逃げていたのが嘘のように罪を自白した。もう逃げ切れないからと開き直ったからでもあるだろうが、由利の謝罪も引き金の一つになっているようだった。
先ほど板滝山寺で克己と対面したときとは打って変わって、手村の心はひどく痛んでいた。ここまで残虐な犯罪を行った手村が由利に対して罪悪感を抱いていることは、その痛みの共感から克己には伝わっていた。だからこそ、由利からの謝罪に拒否反応を示すかのようにして、手村は白状し始めたのだ。手村が本当に由利から欲しいのは謝罪ではなく、逆に謝罪を求めるような憎悪の言葉だった。
手村が話している間、克己の位置からは由利の後ろ姿しか見えず、その表情は見えなかった。智佳も手村を責める前に、同情するかのように由利の方を見た。
手村が話し終わったあと、由利はまず「そーなんだ」と、平然と言った。
「それだけ怒らせるようなことを、ここまで手村くんが狂ってしまうようなことを、私はしてしまったんだね。改めて、本当にごめんなさい」
由利は再び頭を下げたのだった。
「……や、やめてくれ」自白していたときの威勢は消え去り、手村は震え出した。「謝らないでくれよ。悪いのは俺だろ。勝手に学校を辞めて、お前の犬まで殺したんだぞ!死体をバラバラにまでしたんだ!謝るなら俺の方なんじゃないのか!」
手村の叫びを受けても、由利は顔を上げずに、ひらすら頭を下げたままだった。
手村は根負けしたように土下座の体勢になり、すすり泣き始めた。
「……ごめんなさい……俺が悪かったんです……本当はずっと後悔してて、南戸さんのせいじゃないってわかってたのに……でも、なんだか、止められなくなっちゃって、俺の方こそ謝りたかったんです……ごめんなさい、ごめんなさい……」
今度は手村が謝罪し始めた。額を地面にこすりつけたまま念仏のように謝り続ける姿はもはや悲惨で、克己と智佳は、何も口を挟むことができなかった。
先に顔を上げたのは由利だった。振り返って、克己と智佳に対して笑顔を見せた。
「じゃー、帰ろうか。間土くんたちも心配してるかもしれないし」
克己がスマホで時計を確認すると、ちょうど十七時三十分だった。手村が来たのは十七時過ぎだったので、もうすぐ板滝山寺まで様子を見に来る頃だろう。
「あっ、智佳ちゃんは手村くんになんか聞きたいことあったんだっけ。真岳も、どーする?」
由利に聞かれて、克己と智佳は目を合わせながら、二人同時に首を横に振った。智佳としては手村の自白から今回の件はバラバラ男に関係ないことがわかったからということもあるが、それ以上に今の状態の手村に何か話しかけることはためらわれた。
最後に、由利はいまだに謝り続ける手村を一瞥した。
「それじゃあね、手村くん。私もう帰るから、気を付けて」
そう言って、手村を後にし、由利は先頭に立って歩き始めた。そんな由利の後ろ姿を見ながら、克己は鳥肌が立っていることに気が付いた。いつの間にか由利に圧倒されていたのだ。
今の手村には謝ることが一番の有効打だと由利がわかってやったとは思えない。おそらく由利は本心から手村に謝っていただけなのだろう。自分の愛犬を殺され、あまつさえ八つ裂きにされたというのに、その心からは痛みを感じなかった。ただただ純粋な気持ちで、手村に謝罪したのだ。もはやこれは、痛みに鈍いだとか、心が強いというような次元を超えている。
それはまさに、人の理解の範疇を逸脱した、オニのように。
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