言葉の雨

たくや

言葉の雨

 雨は気まぐれで天邪鬼で容赦なく残酷だ。何日も、何週間も、何か月も降らずに命を枯れ果てさせもすれば、いつまでも降り続けてすべてを洗い流してしまうから。でも、雨はなくてはならない。生命を芽生えさせ、繁栄させ、人間に言葉を与えるために。

 雨はなくてはならないんだ。雨が僕たちに言葉を教えてくれるから。雨がなかったら僕たちはそこらの動物と変わらない生活をまだ続けていたそうだ。偉い学者さんたちが証明していることだから確かだ。

 雨から授かった言葉のおかげで、人類は文明を築き上げ栄華を極めているんだ。

 雨のおかげで、世界を変える指導者が生まれ、歴史に残るような大作を創り上げた作家が登場し、完全で完璧な数式を知ることが出来た数学者がいたらしい。

 この前の授業で先生が熱心にそんなことを言っていた。詳しいことは眠くてよく聞いていなかったからわからないけれど。

 先生が言っていたことを僕なりに要約すると、「雨には言葉が詰まっていて、幼少のころにどれだけ雨を浴びたかで違いが出る」だ――ちなみに大きくなってからは意味がないらしい。いろんなことを知り過ぎて、雨から吸収できないからだ。

 雨は歴史に名を残すような人たち以外にも大きな影響を与えるらしい。それは単純な語彙力だ。雨を浴びれば浴びるほど、難しい言葉がすらすらと出てくるらしい。

 だから、少しでも多くの言葉を習得させようと生まれて間もない子供は雨の中連れ出される。雨を浴びさせ、少しでも賢くなるように。雨が降るたび、赤ん坊の泣き声がそこら中に響き渡り、合唱のように共鳴するのはそのせいだ……。

 そんなこんなで雨は偉大らしいけれど、何で子供でも親でもない僕が雨の力なんて気にしているのかと言うと理由がある。僕の人生に直結する、大きな理由が。それは、僕が誰もが通る通過儀礼をほとんど行うことなくここまで育ってしまったことだ。僕は幼少のころ身体が弱く、健康な子供のように雨に打たれることが少なかった。それは必然的に人間として得るべき言葉を習得できていないということで、僕はみんなより劣っているらしい。今まで実感したことはなかったけれど。

 でも、ある時僕は実感してしまった。

 ある人を前にしたときに。

 たった二文字の簡単な言葉が口にできなかった。

 その言葉を口にすれば、僕の世界は変わるのに。

 どうしても口にできなかった。


 僕はその言葉を得るために意味はないと知っていても、雨の中を傘もささずに歩いたりしている。

 何の役にも立たない言葉で埋め尽くされた僕の中に、その言葉が入り込んでくれると信じて。


 僕は人生で一度きりの高校二年生の夏休みを補習という形で浪費していた。いつもは補習になんか引っかからないのに。思い人への思いが溢れすぎて勉強が手につかなかったのと、思いを告げられずに何か月も無為に過ごしてしまったせいだ。

 友達は、意気地がないだとか、勇気を出せだとかのべつ幕なしに他人事のように言うけど、みんなはわかっていない。僕はあの娘のことが気になってしまってたまらないし、どんな時だってあの娘のことを考えている。でも、僕の口から彼女への思いは出てこない。僕が意気地なしだからだとか、勇気がないだとか言う理由じゃなしに。普通にしゃべることはできるんだ。ただ、僕は思いを告げるための簡単な二文字の言葉を持っていないだけなんだ。

 そうやって、うだうだと考えていると、先生の板書は何とか書き写すことができるけど、話は一切入ってこない。これじゃあ、まだまだ補習は長引きそうだ。補習をクリアするための点数は取れそうにない。

 授業の最後に実施されたテストは、案の定、合格ラインには遠く及ばず、僕の補習の延長は決定した。今まで一緒に補習を受けてきた名も知らない同志たちは貴重な夏休みの過ごし方で盛り上がっている。それを横目に、僕を含めた三人の落ちこぼれは静かに現実を受け止めていた。いつまでも始まらない夏休み、クリアできる気のしないテスト……。彼らも、僕のように幼少のころ雨に打たれなかった人たちなのだろうか。仮にそうだとしたら、幼少のころに雨に打たれなかったかどうかで、授業の内容に差をつけるべきじゃないだろうか。僕たちのような持たざる者たちは少数派なんだから。少しは優遇してほしいもんだ。

 明日の補習の時間を告げられて、僕たちは解散になった。ほとんどが補習から解放されたことで、教室は浮足立っている。そんな中を先生が、補習を続行せざるを得ない落ちこぼれたたちに声をかけていた。僕を除く落ちこぼれたちは嬉しそうに先生と何かを話している。そんなことで、僕たち持たざる者の圧倒的な差は埋められないのに。

 僕はそんな哀れな一員に自分が属している事実に目を背けるために、足早に教室を後にしようとした。でも、先生は目ざとく僕を見つけ呼び掛ける。


「おい田中。今日のところ復習しなくていいのか」


 優しく親しみのこもった声だった。でも、僕にはわかっている。あの言葉の裏には憐れみと蔑みが隠れているんだ。先生だって、教師になれたということは雨に打たれたはずだ。だから、僕らの気持ちもわからずに、ただ哀れな子供だと思って接しているにすぎない。大人はいつだって傲慢だ。自分の価値観を押し付け、贔屓して、僕たちを傷つける。

 あんな奴らにかまっていられるか、僕の気も知らずに。僕は先生の言葉に「家で何とかします」と適当に言って教室から去った。補習から解放され教室を後にする生徒たちは僕のことを動物園のパンダでも見るような目で見ていたけど、そんな中をかき分けて息苦しい監獄を脱出した。


 僕を馬鹿にする学校から抜け出すと、僕に言葉を与える気のない真っ青な夏空が頭上に広がっていた。そんな嫌味な空を見つめながら、僕はいつもの公園に向かった。僕の唯一無二の親友で僕の思いを知っているただ一人の人に会うために。


 公園のいつものブランコに佐藤はいた。つまらなそうにブランコを漕ぎながら、ソフトクリーム見たいな雲を見つめている。

 僕が佐藤に声をかけると、佐藤はしたり顔で手を振る。


「どうだった補習? クリアできたか?」


「ダメだった。てか、クリアできないって知ってるだろ? それどころじゃないんだよ」

 

 僕の言葉に耳を傾けながらも佐藤はブランコを漕ぎ続ける。


「だから言ってるだろ。田中は気にしすぎなんだって。ちゃちゃっと自分の気持ちを言えばいいんだよ」


 僕の気持ちも知らないで……。佐藤に心底腹が立ったけど、僕がどんな状況に置かれているか知らないからしょうがないんだ。佐藤に見捨てられたら僕の思いを相談する人もいないし、僕は佐藤にだけ打ち明けることにした。


「あのさ、子供のころに雨に打たれると、言葉を吸収できるって話知ってるか?」


 佐藤は通り雨みたいに急な問いかけにぽかんとしている。


「僕はさ、子供のころ身体が弱くて、みんなみたいに雨の中連れ出されたことがほとんどないんだ。いつも窓に打ち付ける雨粒を眺めて、地面に降り注ぐ音を聞いているだけだったんだ」


 佐藤は僕の言いたいことがわかったようだ。真剣な目で僕を見つめる。


「だから僕は真壁さんに気持ちを伝えることが出来ないんだ。あの二文字の言葉が口から出ない。頭に浮かべることは出来るのに」


 佐藤は面食らったようで黙ったままだったけれど、信じられないというような口調で言った。


「ホントなのか? 『すき』なんて二文字の言葉はほかの言葉に紛れてたりするじゃん。例えばすき焼きとか。ちょっと言ってみて」


「すき焼き」


 こんなものは造作もない。佐藤は問題を甘く見てる。


「じゃあ。今度はそれを『すき』と『やき』に分けて言ってみて。すき、やきって」


「す…………」


「き……やき」


 僕は精一杯やった。


「わざとやってるだろ!」


 佐藤は語気荒く僕に言う。ちょっと怒ってるみたいだ。まぁ、無理もないけど。真面目に僕の話を聞いているのに、ふざけた真似をしているように見えるんだから。僕は心底本気なんだけど。何とか怒りを鎮めたような佐藤は頭をひねる。


「四文字がいけなったのかな。次は三文字にしよう。えっと……」

 佐藤は少し悩んだ後、「たすき! これなら簡単だろ。『た』、『すき』って言ってみ」


「た、す…………き」


「ホントに言ってんのか?」


 佐藤は怒りも通り越してもはや呆れていた。


「じゃあ、スキーは? 雪の上滑るやつ」


「Ski」


「なんでそんなに発音がいいんだよ、ネイティブじゃないだろ!」


 もはや佐藤は笑っていた。ちょっと楽しくなっているまである。


「しょうがないだろ。英会話教室通ってたんだから」


「もう『Ski』って言ってさ、誤魔化せよ。何とかなるだろ」


 手をひらひらと振りながら、投げやりに佐藤は言う。


「さすがに『Ski? それってあのスキー? 雪の上を滑るやつ?』ってなって無理だよ。助けてくれよ」


 僕はどうにか気持ちを伝えたいのに。


「あーもーめんどくさいな……。そういえば、ほかの言葉は言えないの? 例えば愛してるだとか、なんかいろいろあるじゃん」


「考えたことないけど、試してみる?」


「いや、やめとこう。面倒くさいだけだ。どうせ言えないよ」


 僕は本気でやってみようと思ったけど、佐藤はバッサリと切り捨てた。どうせできないであろうけど、さすがにこの反応は堪える。しょうがないけど。

 佐藤は少し逡巡してから口を開いた。


「じゃあさ、俺のことはどうなの? 友達に対してなら好きとか言えるでしょ? ましてや長い付き合いの俺になら」


「ごめん、そっちの趣味はないからさ。佐藤がそう思ってるなら申し訳ないけど、僕は友達のままがいいんだ。ごめん」


 気恥ずかしさもあって僕は誤魔化した。佐藤を信頼していなかったら、僕がこんなこと言うはずないからわかってくれるはずだ。


「違うよ! 俺はそういうことを言いたかったんじゃないよ! 俺もそっちの趣味はないし、親友としてどうかって言う話だろ!」


 たぶんわかってくれたはずだ。顔を真っ赤にして、捲し立てているくらいだから。


「そうだね、なんかごめん」


「謝るな! こっちまで気まずくなる」


 僕の照れ隠しに佐藤は景気よく叫んだ。


 佐藤が落ち着いてから、僕たちは近くのベンチに座っていた。


「俺にはどうしようもできなさそうだからさ、親御さんにそれとなく聞いてみたら? 雨が言葉をくれなかった時の対策とか知ってるかもよ?」


 すっかり落ち着きを取り戻した佐藤は、今日一番と言っていい渾身のアドバイスをくれた。


「確かにそうかも。 家に帰って聞いてみるよ」


「あぁ、そうしろ。俺は疲れた。早く帰れ」


 佐藤は後ろ手を振って、そそくさと公園から立ち去った。後ろ姿が仕事帰りのサラリーマンみたいだった。


 僕は家に帰ってから、それとなく母さんに聞いてみようとしたけど、「料理から手が離せない」だとか、「風呂掃除をしといて」となぜだかうまくはぐらかされた。

 僕の話を聞いてもらうタイミングは一向に訪れず、夕食の時間になった。家族四人がそろった楽しい夕食。

 適当に家族の会話が交わされる中、一瞬の沈黙を突いて、僕は何の気なしに聞いてみた。


「あのさ、僕って、子供のころに雨に打たれること少なかったじゃん? そのせいで、言葉が足りなくなった時の対策とかってあるの?」


 母さんは意外そうな顔をして言った。


「あんなことで大した変わりなんてないのよ。どうせみんな成長すれば変わらないんだから」


 夕食の前のようにすげない態度だ。何か隠してるのか?


「でもさ、もし言えない言葉があったら……」


 父さんが僕の言葉を遮った。


「母さんの言うとおりだぞ。あんなことは幼少期のわずかな差でしかないんだ。いくら多くの言葉を知ってるからって、子供のころじゃ何の意味もない。そんなことより、学生のうちにいろんな経験をして、真面目に勉強をするのが大切なんだ」


 言ってやったぞとばかりに父さんは僕を見つめる。


「何か不都合でもあったのか?」


「いや、別にないけど……」


 言えるわけない。僕の思い人に気持ちを告げられないなんてことは。あの二文字の言葉が口にできないなんて。

 姉さんは僕の話を鼻で笑って、黙々と夕食を食べていた。

 僕はこれ以上せっつかれて思い人がいること知られたくはなかったから、母さんと父さんの話に適当に相槌を入れつつ粛々と夕食を食べた。


「何かあったの?」


 母さんと父さんが寝室に引き上げてから、姉さんは僕に聞いてきた。


「いや……、別に何もないけど」


 姉さんは訳知り顔で僕を見つめる。


「誰か好きな人でもできたんでしょ?」


 姉さんにはお見通しみたいだったけど、僕は否定した。どうせからかわれるに決まってる。


「そんなんじゃないよ。ただ、授業でそんなことを聞いたからさ。聞いてみただけ」


 姉さんはからかうように笑っている。


「ふーん。もう夏休みなのにね。随分、ご熱心だこと」


 姉さんはそう言って、僕をいじるのに飽きたのか満足したのかわからないけれど、リビングを出ていこうとした。


「あのさ、姉さんは彼氏いるんだよね? どうやって気持ちを伝えたの? 姉さんもそんなに雨に打たれなかったんだよね? 何か足りなかったりしなかったの?」


 姉さんは少し驚いたような顔をしたけど、相変わらずの訳知り顔で僕をからかった。


「そうか、誰か好きな人ができたんだな。お姉ちゃんは嬉しいよ。可愛い弟にそんな人ができて、頑張ろうとしているなんて。もちろん、お姉ちゃんとしては色々言いたいこともあるけど、あんたは大事なことをわかってない。ちゃんと授業聞きな」


 そう言って、リビングから姉さんは去っていった。結局僕をからかいたかっただけらしい。僕がこれだけ悩んでいるのに。勉強したら気持ちを伝えられるのか? そんなわけがない。


 一人になったリビングで真壁さんへ気持ちを伝える方法を考えていた。古典的だけど、手紙に思いをのせたり、どうにかあの二文字の言葉を使わない方法を考えたけど、何も浮かばないし、うまくいく気もしない。気づけば時計の針は十二時を過ぎていて、明日の補習のために、僕は自分の部屋に引き上げた。

 いつもの夏特有の鬱陶しい湿気と、いつの間にかに降り出した雨のせいで布団はどこか湿っていた。今の僕には最悪の状況だ。あの一粒一粒のどれかに僕の求める言葉が詰まっている、真壁さんに贈るための言葉が。たった二文字の言葉が。それなのに、僕はその言葉をただ求めるだけで、自分のものにすることができない。窓に、外壁に、草木に、地面に延々と降り続け、排水溝へと流れていってしまう。まるで僕をあざ笑っているみたいだ。

 僕に必要なもののはずなのに、いらないものとして押し流され、巡り巡って海に帰っていく。僕はあの中のほんの一部を得ることができればいいのに。

 しとしとと降り続ける雨の音を聞きながら、僕はいつの間にか眠っていた。


 母さんに起こされて、渋々ベッドから這い出ると、八月の夏空は僕の心とは正反対に晴れ渡っていた。


「じゃあ、今日はこれまで。補習が終わった人もちゃんと復習しとくんだぞ」


 先生がそう言うと、僕以外の生徒は教室という鳥かごから解き放たれた鳥のように、嬉しそうに夏空の下へ飛び立った。


「どうした田中。お前らしくないじゃないか。何か悩みでもあるのか? 先生が相談に乗るぞ?」


 僕たち二人だけになった教室で、先生はいつも以上に、いや、僕に初めて見せるといっても過言じゃないほど優しい表情で僕を心配している。

 いつもだったら斜に構えて、先生の話なんて聞かずにさっさと教室を後にしていたけど、僕にはほかに頼れる人がいなかった。両親は僕の悩みを気にせず、姉さんは僕をからかって、親友はお手上げ状態。僕は藁にも縋る思いだった。


「先生は、雨の中に言葉が宿っている話、ご存じですよね?」


 先生は意外そうな顔をしている。


「もちろんだ。先生も学校の授業で習ったし、教師になる時に雨の話は嫌と言うほど聞いたからな」


「そのことで聞きたいことがあるんです」


「いいぞ、なんでも聞いてみろ。それで補習を終わらせられるんなら、大歓迎だ」


 僕が心を開いたからか、心底嬉しそうな顔をしている。


「僕は子供のころ、体が弱くて、雨に打たれることがほとんどなかったんです。それのせいで、ある言葉が口にできないんです」


 先生は今までに見たことのない、聖母のような優しく包み込むような顔で笑った。


「そういうことか。それで田中は悩んでたのか。あれはな、確かに本当のことだ。小さなころに雨を浴びれば浴びるほど、雨の中にある言葉を吸収して、自分のものにできる。でもな、赤ん坊のころに言葉が話せるか? 二、三歳でやっと会話が何とか成り立つようになるんだぞ? その間に、雨の中から得た言葉を使うと思うか? そんなものは役に立たずに、お母さんやお父さんたちとの会話の中で得た言葉を使うんだ。雨の中から得た言葉なんて、もっと大きくなって、いろんなことが話せるようになってから意味を知って、話せるようになるんだ。それにな、雨が授けてくれた言葉なんて、覚えているかわからないんだ。仮に覚えていても、意味を知らないとただの単語の羅列にしかすぎず、何の意味も持たないんだ。だから、結局は学校で学ぶことによってみんな同じ速度で賢くなるんだ。もちろん、多少の差はあるぞ。得意、不得意もあるし、塾に行ってるかどうかなんてものもだ。それはしょうがないことで、口にできない言葉なんてものはないんだ」


「でも、田中みたいに自分の発したい言葉が出てこない人もいる。それは雨の中に答えを求め、雨に責任を押し付けている人だ。だからと言って、それは意志が弱いとかじゃなく、誰にでもいつか起こりえることなんだ。楽しい経験や悲しい経験、つらい経験、びっくりした経験、人それぞれ違う経験の中で、自分が発することのできない言葉と向き合って、本当の意味で言葉の意味を知るんだ。田中が何を言えないのかは聞かないけれど、その気持ちとしっかりと向き合って、発したいと思えば絶対に言葉は出てくる。先生もそんな経験をしたから本当だ。好きな人に気持ちを伝えられなくて、田中みたいに悩んだけど、恩師に助けてもらって、気持ちを伝えられたんだ」


 先生が言うなら間違いない。それに男同士のさしの会話で嘘を言うわけがない。絶対だ。

 僕は何でもできる気がしてきた。


「先生、ありがとう。先生の言葉のおかげで何とかなる気がしてきた」


「その意気で告白してこい!」


 廊下に出た僕の背中に先生はエールを投げかけてくる。


「別にそんなんじゃなねぇから」


 なぜか僕の気持ちを読んでいた先生に、びっくりして、咄嗟に否定した。


「そうか」


 先生は嬉しそうに笑っていた。大人はいつでもそうだ。何でも知っているように振舞う。


「明日は田中のためだけの補習だからな。遅れずに来るんだぞ!」


「わかってる!」先生の言葉を後ろに、教室を飛び出した。


 僕はいつもの公園に遮二無二に駆けて行って、いつだったかに知った真壁さんの電話番号にかけた。

 真壁さんはすぐに出てくれた。


「もしもし、田中君?」


 いつも通り僕の心を癒す、甘く芳しい声だ。


「もしもし、今大丈夫?」


 僕の声は少し震えていた。初めての電話のせいもあるし、これからのことを考えれば仕方がない。


「うん、大丈夫だけどどうしたの?」


「あのさ、ちょっと話したいことがあるんだけど、真壁さんの家の近くの公園まで来てくれるかな?」


 自分に拍手を送りたいぐらいに、すらすらと言葉が出てきた。


「うん、いいけど……。何時くらいに行けばいい?」


 夏休みに、突然の電話にもかかわらず、真壁さんは来てくれるみたいだ。さすが、僕の思い人だ。もうすでに僕の心は幸福で溢れている。


「できれば準備が出来次第お願いしたいんですけれども」


 今さらだけど、緊張してきたみたいだ。言葉がおかしい。


「なんで敬語なの?」


 真壁さんは鈴を鳴らすように笑った。


「じゃあ、十五分後に公園でいい?」


「うん。十五分後に公園で」


「はーい。じゃああとでね」


 電話を切っても、真壁さんの甘い声が耳に残っていた。


 僕は公園のブランコで真壁さんが来るのを待った。その間に絶対に失敗しないように脳内でシミュレーションを重ねる。あんな方法やこんな方法、今までの妄想を駆使した、誰にも教えられない赤面確実のオンパレード。僕はそんな妄想の中で、ちゃんと思いを告げられた。あの二文字の言葉を伝えることができた。たぶん生涯で初めて口にすることになる言葉。絶対に真壁さんに聞いてほしい言葉。


 公園の入り口から、見知った女の子が入ってきた。僕の緊張は留まることを知らない。今にも心臓が口から出てきそうだ。

 私服の真壁さんは、制服の時同様に魅力的だった。いつものごとく清楚で可憐で僕を虜にする。

 もう真壁さんは目の前だ。

 僕が言うべきことは決まっている。

 僕が持っていないと思っていた言葉。

 持っていないと錯覚していただけの言葉。

 真壁さんへのための言葉。

 真壁さんはひまわりみたいに輝かしい笑顔で僕を見つめている。

 僕は言わなくちゃいけない。

 僕は覚悟を決めて口を開いた。


「僕は真壁さんのことが――」

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