あぁ、夏を今もう一回

@lukousou

あぁ、夏を今もう一回


夏休みをもらった。


ソウダルフォンには希望を出した記憶がなかったので間違いだと思った。


「お盆だよ。せっかくの夏休みなんだから好きなことをしてきなさい。」


大天使は有無を言わさずに、1日休みを押し付けた。





久しぶりに降りた人間界は当たり前のように夏だった。

ぬるい風に乗った焦げたアスファルトと緑のにおいで咽るような。

涼しい天界との温度差でゾクッとしたが、あっという間に馴染んでしまう。きっと今日も35度以上はある。


何もせずに立っているには暑すぎる。

かといって歩き回るのもつらい。

照りつける太陽はずっと高い位置にあるのにずいぶん近く感じる。直射日光とはよく言ったものだ。確かに直で当たっている光の中に、肌を焼く紫外線の存在を感じて、ひとまず行き先を決める前に室内に入ろうと考えた。頭が沸騰しそうだ。


上でのんびり昼寝しているだろう上司がうらめしくて空を見上げたら、突き抜けるような青空だった。




ワイヤレスイヤホンを両耳にいれる。


「夏休みには、何が必要でしょうか。」


天界を出る前、問うた自分に、上司はさほど考える様子もなく答えを投げて寄越した。


「さぁ。ミュージックじゃないか?」


流れ始めたメロディーは軽快で適度な爽やかさを感じさせ、不快感の無い夏を形作る。




さっさと入った8号館のラウンジはシンと冷え切っていて、別世界だった。ガンガンに効いている冷房に感謝して、有り難く文明の恩恵に与ることとする。


夏期休暇中の構内を独り占め。イスに行儀悪くだらりと腰掛け、ついでに足の裏に貼り付くペラっペラなサンダルもひっぺがした。ああ、ガリガリ君でも買えば良かったと思っていたら、その少年はやって来た。


目の前の大階段をゆっくりと、まるでおそるおそるといった足取りで。遠慮がちな雰囲気に、間違いなく彼は早大生ではないと分かる。たとえば、早稲田志望の高校生とかそういう類い。

何の気なしに見ていたら、少年と目があった。少し驚いたような表情を浮かべかけて、形になる前に会釈をしてきた。自分に向けられたものと気が付かないほど、あまりにも自然に。追って会釈を返しながら、彼の瞳の色を印象に残す。



気まずかったのかそそくさと出ていった背中を見送りつつ、やはり行くアテもないので、着いていってみようかと思った。ほんの気紛れ。

まあ、不審者と言えなくもないが、あの少年に悪意は感じられなかった。なにより、今の自分は夏休み中だ。


脱いだサンダルに足を入れようとして、やめる。

せっかく涼しいのだ、この一曲はここで聴いていってしまおう。


歌うアンドロイドが奏でる「夏休み」を堪能してから、ソウダルフォンは気配を消して、そっと眩しすぎる夏の日照りに出た。



少年は10号館に向かったようだった。


歴史を感じさせる大きな掲示板に、忘れられたビラが一枚、ぬるい風にのっていた。今にも画ビョウが抜けそうだったから、力を込めて止めてやった。ぐずっと鳴いて、画ビョウは役割を果たす力を取り戻す。


視線を感じて目を向けると先程の少年が10号館の屋上から見下ろしていた。


確かにあそこは大隈講堂がよく見える。早稲田に憧れる受験生にとっては、シンボルを前に決意を新たにするとか、思うところはあるだろうが。


彼は違った。

地上のこちらも、じっと見つめ返す。

道に迷うほど鈍臭いようには見えなかった。では意図して、あそこにいるのか。


彼がふと顔をあげた。


瞳の色に、ほんの僅かに艶が出た気がして、思わず息をのんだ。

少年は飛び抜けて素晴らしい容姿であるとは言えない。

ところが、風を受け、光を浴びて、遠くを見据えた少年は生き生きとしている。


その様があまりにも美しくて惹き付けられる。


少年は銀色の手すりに両手をかけ、右足をかけた。

左足をかけて、身体を持ち上げる。

しかしそのまま両手を離せずにいる。

不格好に背を曲げたまま。


あのままでは


前は見れないな


ソウダルフォンは跳んだ。







「どこに、行くんですか?」

「どこでも良いな。…夏休みらしいことって何だ? 」


白いカーディガンを翻し少年の一歩前を歩く。


声をかけられて、やはり怒られると思ったのかしおらしく手すりから降りた少年に、ついてこい、とは言ったが行き先は決めていなかった。


「はあ……夏休みと言ったら……冒険じゃないですか?」


入れっぱなしのイヤホンから流れている曲は毎年夏になると映画をやる国民的アニメの映画主題歌だった。


「そうか。」




長く早稲田で活動してきたが、都電の駅まで来たのは数えるほどしかない。


もちろん乗ったことはない。

彼もないそうだ。

よろしい、ならば冒険だ。





こじんまりとした見た目ゆえにローカル線的なイメージだったが、わりと本数が多いらしく、すぐに来た。


電車よりも狭いたった1両の車両に二人でならんで立つ。

折り返し始発の車両が特徴的なベルを鳴らして滑らかに走り出す。


知り合ったばかり。会話もない。

窓に薄く映る少年が居心地の悪そうな顔をしているのに気付いたソウダルフォンは、左のイヤホンを彼に渡した。

ギョッとした顔でイヤホンとソウダルフォンを交互に見た少年は、ややあって仕方ないといいたげな表情でイヤホンを取って耳に入れた。


車窓を眺めているとあっという間に見慣れない街並みになった。

「池袋通るみたいですね。」

少年は停車駅表を眺めていたらしい。

「降りるか?」

「…そうですね。池袋はけっこう久しぶりですし。」

降りてどうしようか。土地勘がない。

「やりたいこと、ないのか?」

「……カラオケ、とか。」

なるほど、無駄に歩き回るより涼しそうだ。

それにミュージックだ。

悪くない気がした。



池袋と聞いてイメージされる景色に比べて非常に地味で拍子抜けする東池袋4丁目で降りる。どう見ても工事現場と道路しかなくて、本当に池袋なのか疑わしくなる。


二人はとりあえずサンシャイン通り方面に向かうことにした。変わらずカンカン照りだが、夏休み真っ盛りの若者が目立つ。人混みの中でコンタクトレンズのビラ配りのお兄さんはダルそうに誰とも目を合わせず、淡々と手を前に出す作業を繰り返す。


少年が入ったのは高田馬場にもあるチェーン店だった。

「飲み物何にします?…2人だし1時間で良いですよね?」

「任せる。…カルピスソーダ1つ。」

自分の注文だけしてPVを垂れ流すモニターに寄る。

取り残された少年はため息をついて、店員とのやりとりに戻る。



少年は歌が上手かった。

ちょっと外した、と言いながらマイクを置く。

「上手いんだろうが、印象に残らないな。」

それがソウダルフォンの感想だった。

「ふふっ」

「怒らないのか。」

「怒らせるつもりだったんですか。」

「いや。」

「言われ慣れてます。何でもそう。」

「何でも?」

今日初めて、少年がふわりと微笑んだ。

「ほら、出番ですよ。」

突き放すような笑い方に、言いたくないときは笑ってごまかすタイプか、と理解した。

「次は採点にしないか。君の上手さが分からないのは申し訳ない。」

イヤホンで聞いていたよりも安っぽいメロディーに閉口しかけたが、歌わねばならない。


ソウダルフォンが軽く息を吸い、滑らかに歌い出すさまを少年は見つめていた。

ゆるく腰かけたまま、のびやかな高音で歌いこなす。


少年は、こういう人を天才と言うのだと理解した。これまで一緒にカラオケに行った友人たちの誰よりも声が良い。どんなに練習しても、技術だけでは越えられない「何か」がある。そしてそれがあまりにも圧倒的であると、悔しくも羨ましくもないのだと知った。


しかし採点を機械に任せたら、ソウダルフォンは80点で、少年は94点だった。


首をかしげる少年に、ソウダルフォンは採点にしてよかった、君は上手いんだな、と納得していた。


「そうでもないです。あなたの言った通り、僕の声は印象に残らないみたいで。」

「しかし、採点ゲームにすれば盛り上がるんじゃないのか?」

「点数の出た瞬間だけ、です。みんなデンモクとかスマホみてて聞いてなくて。」

「失礼な話だ。」

「仕方ないですよ。下手だって思われるよりマシです。」



次第に練習のためではなく、自分のためにヒトカラをするようになって、録画もするようになった。一度だけ、思い切ってアップしてみたが、同級生の数人から思いやりのいいねが押されただけで、ネットの海に沈んでしまった。閲覧数が一向に増えないそれを削除した夜は、終わりの見えない喪失感と、心の端に感じる清々しさでよく眠れた。


そんなわりと近い昔話を思い出し掛けて、やっぱり少年は笑うしかなかった。





2人は都電に戻った。


停車場のチラシでフリーパスの存在を知り、今更ながら500円の一日券を買うことにした。

「せっかくフリーパスにしたんだからどこかで降りるか。」

「そうですね。」

「あの停車場は何て読むんだ。」

「……さあ、見たことないですよね…?」


『庚申塚』の隣は『新庚申塚』なので

その辺りの地名なのだろう。見当がつかない。


何となく降りるか、という気がした。


だんだん大塚駅が近づくにつれ車通りが増えてきていた。都電は思ったより速い。

傾斜のついたカーブを曲がっていく様はジェットコースターのようだった。

通りを出たら家の裏を抜けるような道になっていった。


あっという間に『庚申塚』。

商店街のど真ん中で降ろされた。


「こうしんづか、か。読めないな。」


両側の店を物色しながら歩く。

「…なんで、僕と一緒にいるんです?」

「夏休みを言い渡された。」

「言い渡されたって…誰に?」

「上司に。まあ、お盆だからな。」

「お盆って、まだ8月3日ですけど…しばらくお休みなんですね、いいなあ。」

「いや、今日1日だけだ。」

「えっそんな、そんな貴重な休み、俺と……こんなことしてていいんですか?」

「夏休みと言えば冒険と言ったのは君だろう。冒険と言えば仲間が必要だ。」

「そうですかね。」

「ああ。」

「あとミュージックですか。」

「たしかに。」


サンシャイン通りの賑やかさとは違う、より距離の近い賑わいは、懐かしさを感じさせた。誰かが焚いた蚊取り線香のにおい。蝉と風鈴の混声合唱。雑然と寄せられる自転車のサドルが黒々と輝いている。ただ日々の延長線上にある夏。



道なりに歩いたら大きな通りに出た。車の行きかう道路を都電が遠慮がちに横切る。

なんでこんなところからと思って見たら新庚申塚駅だった。


線路のずっと先にマックが見えた。

「昼は食べるか?」

「…はい。暑いし。」

せっかく知らない街に来てるのに、さっきからチェーン店ばかりだと少年は思った。


2階の大きな窓の前のカウンター席を2つとって座る。

車の行きかう道路しか見えないが、窓が大きいから開放感がある。

ソウダルフォンはトレーを置きながらイヤホンを外す。

少年もそれに倣う。

「君も高校生だろう。」

大人しく奢られれば良いのに。

不満げなその人がチラッと送る視線の先には教科書とノートを広げる女子高生とおぼしき二人組がいた。話は弾んでいるようだが、手は止まっている。


「ええ、受験生ですよ。自称進学校の。」

「早稲田志望か? 」

「友達がね。」

「君はまだ決まってない口か。」


ソウダルフォンはハンバーガーにかぶりつく。

「何て言ったらいいんだろう、なんか、決めたくない、んですよね。」

少年はまた笑った。

「決まらないんじゃなくて?」

「…やりたいことないし、行きたいと思う大学もないですけど、周りは早稲田とか慶応とか国立志望ばっかで。僕もなんかそんな感じで言っとかないとダメな雰囲気で。親も先生も。」

「たいへんだな。」

「別に大学に行く必要もないし、絶対的な理由がないと大学に行ってはならないわけでもない、と思うんですけど。」


ソウダルフォンがバーガーを食べ終えて、細い指で包みを丁寧に四角に折り畳む。その仕草はとてもマクドナルドには似つかわしくなかったが、自分が知らないだけでそういうテーブルマナーがあるのかもしれないと思わせるほど迷いがなかった。


「君は勉強もそこそこ出来るんだろうな。」

「そうですね。そこそこ。」

でもそのまま早稲田に入れる訳じゃないくらいの。


もし、もっと頭がよかったら、あるいは何か一芸秀でていたら。こんな悩まなくて良かったのかもしれなかった。


「未来なんか、見たくないんです。」


ため息はシェイクごと呑み込む。


小さな声で、そうだな、と聞こえた気がした。



一駅歩いた形で、新庚申塚駅から都電に戻る。

「俺、荒川遊園地前で降りたいんです。」


小さい頃行ったんで。

そう付け加えた表情はどこか憑き物が落ちたかのような明るさと、すがるような寂しさが混同していた。

蝉の合唱をバックにつけて、湘南の海でタオルを振り回したくなる曲が問答無用で割り込んでくるので、思わず二人とも吹き出してしまった。

「この辺、海はなさそうですよね。」

「そうだなあ。」


マクドナルドに似合わぬ人生相談は彼の中でどう決着してしまったのか。


それはそれとして。

「遊園地か。」

楽しそうだった。



車内は変わらず狭かった。


車両が小さいことに加えて乗客が多い。ほぼ地元の住民で占められる車内には年齢も利用目的もバラバラな人々が乗り合わせる。


ソウダルフォンは、この中で冒険をしているのは自分たちだけだろうと思って、自慢したくなる気持ちでいた。


少年は、これで遊園地で降りたらデートではないかと、今更恥ずかしくなっていた。


いずれにせよ、二人の間には共通のミュージックが流れていることは間違いなかった。



自動車との並走区間に入る、とアナウンスがあった。

都電の真横を車が走る。

珍しい光景に子供が歓声をあげた。

周りの大人が我が子の大発見を褒める。


二人も子供の声につられて童心がくすぐられる。

サビに向けて加速する音に乗って、都電は進む。


ソウダルフォンは純粋にすごいと思った。

何がとは上手く説明できないけれど、説明しなくてもいいなと思った。


そっと盗み見た少年の横顔には健康的な輝きがあって、とても先を急ぐ者の顔には見えなかった。




並走も見慣れたころ、やけにずぶ濡れな乗客が乗ってきた。

大きな雨粒が窓に当たる。


「スコール、みたいですね。」


控えめなトーンで呟いた少年の言葉は、ゲリラ豪雨よりもずっと品の良いものに感じて好ましいと思う。



荒川遊園前につく。

ソウダルフォンが傘を差しだそうとしたら、少年も折りたたみ傘を開いたところだった。

小さな停車場を降りてすぐ遊園地はあった。


あまりの暑さにやけでも起こしたような雨が二人の傘を叩く。


目の前の門には「閉園中」の文字。

リニューアル工事なのだと言う。


少年はカラカラと笑って、蝉も閉口する雨を恨む様子もなく停車場に戻った。


「すみません、ちょっと濡れちゃった。」

「いや。残念だったな。」

「僕が行った頃の時点で相当古臭い感じでしたから、仕方ないですよ。終わってないのが奇跡ってくらい。」

「きみには、仕方ないことが多いな。」

「え?」

「なんでもない。実際、どうにもならないことも多い。」

「例えば?」

「死に方、とかか。」

「事故や病気は仕方ないですけど…自分で選べる人もいませんか。」

「その人に終わりを急がせる何か、はその人が望んだものでないことが多い。」

「なるほど。」


雨に濡れた群青色の車体がベルを鳴らして入ってきた。



町屋駅につく頃には雨はあがり、雲は何事もなかったかのようにあっけらかんと青空に席を譲った。緑なんてないのに開いたドアから蝉の声が流れ込む。


沿線に植えられたヒマワリは再び上を向く途中経過だった。



終点はすぐそこ、三ノ輪橋駅。


1時間で行ける道のりで寄り道をずいぶん挟んだから半日たっていた。


早稲田を出てから、ずっと先があったレールがついに途切れた。


昼よりも多少涼しくなり軽くなった風に、蝉の鳴き声がより一層いきいきとのってくる。

「折り返すか?」

ひとまず停車場におりたソウダルフォンが振り返って問うと、少年は「任せます」と曖昧に笑う。

ソウダルフォンはそうか、と思って折り返す都電に背を向けて歩き出した。


何もない歩道で突然少年が立ち止まる。


「どうした?」

「蝉が。」


彼の足元に転がっている茶色い物体は蝉だったらしい。

辺りに蝉が止まりそうな木がないのに不思議だ。

「死んでないかもしれないぞ。急にジュッて動いたりする。」

忠告して少し進んだが、振り返ると少年はついてきていない。

跨ぐか避ければ済むだろうに、怖いのだろうか。

「…仕方ない、ですよね。」

そうしてまた笑う。



ソウダルフォンは5歩で来た道を3歩で引き返し、かがんで蝉をつまみ上げた。

言った通り短く悲鳴のような鳴き声を上げたが、暴れはしなかった。

「怖くないんですか?」

「別に…」

自転車が後ろから二人を追い越す。


「どこかに、木、ないですかね。」

「そうだな。」

「あっ、持ちます。」

「怖くないのか?」

「別に。」


蝉を持って少年が歩き出す。


先に潤沢な緑が目立つエリアがあったので、向かっていくと、そこは墓地だった。

「こんなところに墓地があるんですね。」

「確かに、急に出てきた。」


一つの大きな塊のようになった蝉の声に圧倒されながら踏み込む。

「そういえばお盆なんでしたっけ。」

「そうだ。私の。」

ソウダルフォンとしてはもっと驚いてほしかったが、少年はそうですよねくらいの反応しか寄越さなかった。

「驚かないのか。」

「ええ。だって、汗一つかかないじゃないですか。だから、普通のヒトじゃないんだって。」

「勘が良いな。」

「そうでしょうか。」

「気付かれているとは思わなかった。」

「どんな死に方したんですか。」

「覚えていない。」

「そうですか。」


思い出したように少年の手中の蝉が鳴く。ああ、お前はまだ生きているんだね、と心の中で返事をする。


「どうして幽霊になったんですか。」

「幽霊ではない。似ているけど、もっとたちの悪い、天使ってやつだ。」

「…ちょっと、イメ―ジと違いました。」

「それは、そう思う。私もこうなるまで天使に会ったことがなかったから。」

「天使になって良かったですか?」

「あのまま死ぬよりずっと良かったとは思う。早稲田戦士にもなれたしな。」

「早稲田戦士、ですか。」

「そうだ。早稲田の平和と未来を守る。」

「へぇ…。」


ソウダルフォンは特に幹が太い木を選んだ。少年がそっとざらざらした木の肌に蝉を寄せる。

蝉は脚に触れたのが樹木と分かると、すんなり拠り所を移した。


鳴き声は弱っていたが、意外としっかり掴んでいるようで、手を離しても落ちなかった。


「…死ぬなよ。」


ソウダルフォンは深く考えずに言った。

無理な話だと思ったが、少年も同じ事を思った。




街の浸食を許さぬ防波堤のような深緑に包まれて、墓地に力強い蝉時雨が降り注ぐ。


言葉もなく、イヤホンを外して二人で聞き入っていた。


少年が顔をあげる。

なぜだかどうしようもなく泣きたくなって鼻の奥がツンとしたからだ。


「なんでセミなんか助けたんでしょうね。どうせすぐ死んでしまうのに。」

「そうだな。」

「踏まれるのと、寿命と、どっちの方がツラいんでしょうかね。」

「セミじゃないから分からないな。」

「せっかく生き延びても、ただ鳴いて子孫を残すしかできない成虫になるんですよ。」

「そうかもな。」

「なんで、生きなきゃいけないんですかね。」


「わからない。が、ひとつ確かなのは、君が死にたいと泣くのは、君が生きたいからだ。」


少年は隠せなくなって、声を上げて泣いた。

胸の奥からせりあがる声をそのまま喉から出した。


ソウダルフォンは何も言わず、ただその横に立ち続けた。


夕立で冷えた風が通り抜ける。




すっかり日が傾いたころ、少年は出口に向かった。

墓参りで水をくむ人のための水道でざばざばと顔を流して、シャツの袖の二の腕のあたりでごしごしと拭う。近くの自販機で水を買って身体が欲する水分を思い切り飲む。


一連の行動を、やはり何も言わずに見ていたソウダルフォンは、同じ水を買って一口飲んでから、少年の目を見て言った。


「早稲田戦士にならないか。」


少年は少しの間をあけて答えた。


「…考えておきます。」


まずは受からなくちゃ、と笑う少年の顔に「隠し事」は無かった。



「早稲田で待っている。私はいないかもしれないが。」

「大丈夫です、今度は俺一人で行けますから。」

「良かった。見学した甲斐があったじゃないか。」

「ええ、本当に。」


耳に入れていたイヤホンを拭い、きちんとお礼を述べて、日暮里駅に向かっていった少年の背中を見送り、彼ならいい戦士になれるだろう、と思った。



託された使命を、次の世代に引き継いで。


命をつなぐために命がけで鳴く蝉の声はイヤホンを通り抜けて響いていた。


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