第十七部:楔の玉座で竜を殺す

456話:天秤の均衡


 その竜は、常に戦火の上に舞い降りる。

 

 愚かにして偉大なる《造物主》。

 かつてあった世界を滅ぼし、無謬なる永遠を夢見た邪悪なる偽神。

 彼の者は、自らを滅ぼそうとした大地の化身を参考に古き竜を創造した。

 《古き王オールドキング》と呼ばれる超越種。

 例外たる白蛇を除いて、《最強最古》の黄金から始まって二十柱。

 創造された全ての竜たちは、完璧であるが故に例外なく動くことはなかった。

 完全であれば、欠ける事なく満たされているのであれば。

 生命は活動する理由がない。

 《造物主》はその一点を見誤っていた。

 己が真なる全知全能からは、少しだけ遠いことを自覚していなかったのだ。

 その事実に絶望したが故に、神たる者は自らを殺めた。

 完璧であるはずだった父の自死。

 それをきっかけに、全ての古竜たちが活動を始めたのは皮肉極まりない話だった。

 ……多くの竜は、《造物主》の死によって「完璧な生命」から変質した。

 だからこそ、彼らは動き出したのだが。



 その竜だけは、極めて異質な存在だった。

 お決まりの台詞――そして、厄災の合図でもある文句を口にして。

 いっそ美しさすら感じさせる輝きと共に、それは天から舞い降りた。

 竜とは言っても、姿は殆ど人型に近い。

 最も近いイメージは、白銀の甲冑を纏った騎士だろう。

 その背に輝くのは、十字架の形をした光。

 これこそが彼の竜にとっての翼であり、《正十字》の異名の元だ。

 ――《古き王》の一柱にして、《五大》の一角。

 《正十字》、《天秤狂い》、或いは《均衡の竜王》。

 単純な力の規模で言えば、《最強最古》に次ぐ恐るべき竜。

 その名はヤルダバオト。

 この竜は、常は唯一の領域である山の頂上に佇んでいる。

 まるで、完全で欠ける事なく満たされていたかつての時代のように。

 特に何をするでもなく、さながら石のように立ち尽くすのみ。

 その状態が永遠に続くのであれば、彼は何の脅威としても語られなかっただろう。

 しかしヤルダバオトは、竜の時代における最大の厄災だ。


『排除します』


 多くの場合、彼は戦場に現れる。

 戦う者が誰であるとか、その争いの理由が何であるのかとか。

 そんなものは一切関係がない。

 嵐が訪れたのに対し、嵐に向けて「何故来たのか」と問う者はいない。

 ヤルダバオトについても同じことだ。

 

 その「均衡」とやらが、一体何を示しているのか。

 それについて、勇気ある知恵者が領域に足を踏み入れて直接問うた事もあった。

 動かぬ時のヤルダバオトは、自ら攻撃を仕掛けない限りは無害だ。

 そして驚くべき事に、語りかければ答えを返しもする。

 だが、その答えに意味を見いだせるかどうかはまた別問題だった。


『天秤は揺れて、均衡が乱れた。

 正しい位置に戻さなければなりません』


 概ね、ヤルダバオトの回答はこのようなものだった。

 意味が分からない。

 何を持って「均衡」が乱れたと語るのか。

 彼が言うところの「天秤」とは如何なるモノか。

 正しい位置とは、一体何をどういう基準で示しているのか。

 どんな賢者にも理解できなかった。

 戸惑う質問者たちに、ヤルダバオトは必ずこう答える。


『理解は求めていませんが?』


 ――断絶。

 ヤルダバオトが頻繁に口にする「均衡」、「天秤」。

 結局、それらは彼の竜王の中にしか存在しない幻想だ。

 他の誰も理解できない。

 ヤルダバオト自身も、他者に理解を求めていない。

 完璧で、欠けたる事のない無謬の存在。

 そのようなものは、究極的には他者からの共感など必要としない。

 だからこそ、恐るべき厄災は顕現する。

 戦場に現れた《天秤狂い》は、多くの場合は優勢な側に攻撃を仕掛ける。

 理由は語らない――それはもう口にしているから。

 意味は見いだせない――それは狂人の夢に等しいから。

 《五大》最強の暴力を前に、抗える者など皆無。

 時折、奇跡に近い奮戦を見せる勇者もいるが、結末はいつも同じだ。

 排除すると、ヤルダバオトが口にした通り。

 あっという間に、見渡す限りの屍が晒される事になる。

 ……これで終われば、彼の竜王は災厄ではあるが「弱者の味方」だったろう。

 場合によっては、これを崇拝する者も出てきたかもしれない。

 だが、ヤルダバオトは《天秤狂い》だ。

 均衡バランスを失っている天秤から、片側の皿の上を排除した。

 しかしそうなれば、天秤はどのように動くだろう。

 答えは単純シンプルで、故にヤルダバオトが次に行うことも明快シンプルだ。


『均衡が乱れていますね』


 もう一度、同じ言葉を口にして。

 《天秤狂い》の竜王は、これまで背にしていた者たちを振り返る。


『排除します』


 天秤が揺れている。

 均衡が乱れている。

 だから、ヤルダバオトは全てを排除する。

 語る言葉に不足はない。

 ヤルダバオトに虚偽はなく、あるのは常に真実のみ。

 ただ、その狂気を誰も理解することができないだけで。


「…………本当に、理解できないわね」


 誰も動く者のいなくなった戦場――いや、戦場跡。

 数千年ほど前に、一度だけ。

 たった一度だけ、少女の姿をした《最強最古》はその場に姿を見せた。

 これもまた、絶対の頂点が起こした気まぐれ。

 普段は遠巻きにしていた相手に、彼女は興味本位で近付いてみたのだ。

 何もなくなった地に、ヤルダバオトはただ一柱で立ち尽くしている。

 石のように動かぬ竜の前に、偉大なる長子が降り立つ。

 ……ヤルダバオトが災厄であれば、《最強最古》はそれを上回る破滅の化身。

 関わってはいけないし、敵と見られたら最後だ。

 古き竜、その理不尽と暴威の究極系とも呼ぶべき存在。

 同胞である《古き王》も、その殆どが彼女に対して恐怖と畏怖を抱いている。

 如何に《五大》が強大でも、《最強最古》には及ばない。

 しかし。


「……ヤルダバオト?」


 動かない。

 最強の竜王が、自らの前に立った。

 本来なら、動揺の一つも見せるところだ。

 けれど、《天秤狂い》は揺るがない。

 それはまるで、完璧に停滞した天秤のように。


「ちょっと、ヤルダバオト」


 無視された。

 少なくとも、《最強最古》たる彼女はそう認識した。

 竜の頂点にして大陸に君臨する絶対王者。

 そんな自分を無視するなど、決してあり得てはならない事だ。

 精々が「イラッとした」程度だが、天秤に向けて軽い敵意を抱く。

 それを受けた事で、初めて反応が起こった。


『――――あぁ。貴方でしたか』


 ようやく気が付いたと。

 そう言わんばかりの態度に、また《最強最古》は苛立った。

 苛立ちはしたが、それはギリギリで喉の奥に呑み込む。

 今日は別に喧嘩を売りに来たワケではない。

 偶々見かけた偶然と、ほんの少しの疑問を解消したいという気まぐれ。

 そんな事のために、わざわざ火傷をするなど損だ。

 《最強最古》の中には、そう判断する程度の理性が存在していた。


『何か御用ですか?』

「用もなくお前に話しかけるほど、私は狂ってないわよ」

『貴方が正気と狂気を秤にかけるとは驚きですね』

「……お前に正気だの狂気だの言われるのは、非常に心外なんだけど」


 笑う。

 笑ったが、それは少し引き攣っていないか。

 ――相変わらず、良く分からないわね。

 言葉を交わしながら、《最強最古》は目の前の相手を観察する。

 バビロンやヘカーティア、それにメトシェラ。

 自らが良く知る《五大》を思い浮かべ、それらとヤルダバオトを比較してみる。

 それらの竜たちの行動原理は、概ね分かりやすい。

 理解できるものならば、特に恐れる必要は感じない。

 自分を脅かすもの、恐怖させるものなど皆無であると彼女は自負している。

 驕って当然の《最強最古》。

 彼女は別段、ヤルダバオトのことを「脅威」と思った事はなかった。

 ただどうしても、理解できない部分があるのは気になっていた。


「結局、お前は何がしたいワケ?」

『質問の意図を明確にして貰いたいですね』

「この惨状よ。天秤がどうだの均衡がどうだの。

 そんな理由で大陸を荒らし回って、誰も彼もがお前を敵視してる。

 バビロンの警戒ぶりは知ってるでしょう?

 お前がやりすぎるせいで、アイツの《王国マルクト》はいつも小火ぼや騒ぎだものね」

『そうですか』


 天秤は揺れない。

 完璧な均衡を保つ静謐さ。

 ――脅威ではない。

 恐怖を感じているワケではない。

 それなのに、何故だろう。

 お互い、理解可能な言葉を交わしているはずなのに。

 奇妙な断絶があった。

 不可思議な不快感が、腹の底に溜まる感覚。

 分からない。

 《最強最古》でさえも、この《天秤狂い》の行動原理が読み取れない。

 だからこうして、直接問いかける事にしたのだが――。


「……何?」

『貴方の質問への答えです』


 《最強最古》はヤルダバオトを見ていた。

 ヤルダバオトは、彼女を見ていなかった。

 視線は一切動かしていない。

 《均衡の竜王》の目に映っているのは、何もなくなった地平線だけだ。


『天秤は平らぎ、均衡が保たれている。

 正十字は整い、過不足なく満たされている。

 ――美しいじゃないですか。

 私はただ、それを見ていたいだけなのです』

「………………」


 一体、コイツは何を言っている?

 全てを薙ぎ払い、滅ぼしたいだけなのか?

 それならば理解できる。

 愚かしいが、単なる破滅衝動の発露でしかない。

 けど――何か。

 違う、違和感がある。

 そんな単純な理屈では、説明のつかない何かが。


『かつては、何もかもが美しかった。

 天秤は決して揺れず、均衡は永遠のものでした』

「…………」

『ですが今は、天秤は揺れ、それ故に均衡は乱れてしまう。

 私はただ、美しいものが見たい。

 私が行っているのは、ただそれだけの事です』

「…………理解できないわね」

『理解は求めていません。

 それは貴方に対しても同じですよ、《最強最古》』


 ……語る言葉は、酷く穏やかで。

 相手が何者かを知らなければ、聖者とさえ勘違いしたかもしれない。

 そして、それがただ一方的な意思の提示に過ぎないと知る。

 会話をしているようで、会話として成立していない。

 まるで揺れない天秤そのものだ。

 秤に何かを乗せる事はできても、変化を示さなければ意味がない。

 均衡。美しさ。

 相変わらず、それはヤルダバオトの中でのみ成立している概念だ。

 言語化したところで、やはり理解はできない。

 理解はできないが。


「……そう。まぁ、大体分かったわ。

 邪魔をして悪かったわね」

『気にはしません』


 本当に、気にも留めてすらいない声だった。

 下手に刺激しないよう――天秤を揺らしてしまわぬよう。

 《最強最古》は距離を取り、その場を後にする。

 最初から、これは気まぐれ故の行動だ。

 これ以上踏み込む必要はないと、そう彼女は判断した。


「……狂ってるわね」


 端的かつ、率直な感想だった。

 理解できない……理解できないが、《最強最古》は何となく察しはした。

 ヤルダバオトが語る、「均衡」が如何なるものか。

 二十柱の古き竜の王たちは、その全てが変質してしまった。

 無謬で完全なる石塊だった頃。

 生命として動く必要性すら無かった時とは、もう見る影もない程に。

 それはヤルダバオトとて例外ではない。

 だが、そう。

 《天秤狂い》の竜が、他の兄弟姉妹と異なる点があるとすれば。


「アイツはまだ、あの時と同じ世界が見えてるのね」


 呟く。

 完璧で、完全で、無謬で、欠けた事など何一つない。

 天秤は揺れず、美しい均衡が保たれていた世界。

 ヤルダバオトが見えているのは、もうこの世の何処にも存在しないものだ。

 かつてあり、今はもう無い。

 だから誰も理解できないし、それを「知っていた」からこそ不快に思う。


「……脅威ではないけど、関わるべきじゃないわね」


 結局、それが《最強最古》の結論だった。

 《天秤狂い》は、やはり狂っていた。

 そうと理解できただけ収穫だと、彼女は判断して思考の続きを切り捨てた。

 これ以上、あの狂気に触れる必要はないと。


「永遠に、ありもしない『天秤の均衡』とやらを追い求めていれば良いわ。

 ――過ぎ去ったモノなんて、何の価値もない。

 私は私の野望ユメのために。

 お前はただ、永遠の凪の中で朽ち果てなさい」


 《最古の悪》は嘲笑う。

 それは、数千年前に起こったただ一度切りの邂逅。

 ――恐らくもう二度と、この壊れた竜とまともに関わる事はないだろう。

 己の望みのため、恐るべき企みを既に開始していた彼女。

 少なくともその時は、そう考えていた。

 

 天秤は未だに揺れて、均衡の美しさは乱れ続けている。

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