251話:天に墜ちる


 思考が凍り付いた。

 何かをすべきだと、理性はそう判断している。

 けど、何もできることはないことも分かっていた。

 分かっていて、けれど。

 

「……あぁ、クソ」

 

 状況は止まらない。

 時間は常に平等で残酷だ。

 アッシュの奴は、抱えられた状態で腕を広げていた。

 そして何発かの結晶弾が、肩や胸の辺りに食い込んでいる。

 本来なら、オレに当たるはずの分だ。

 鋭い先端は容赦なく肉を抉り、完全に貫いている。

 

「おい、アッシュ……!」

「気にするなよ。俺も、気にしない。

 ――まぁ、好きでやったことだから」

 

 名前を呼んで、それでどうしたかったか。

 分からない。

 思考は相変わらず鈍いまま。

 アッシュの奴は、むしろ穏やかなぐらいで。

 笑う顔は、何故か申し訳なさそうな空気を醸していた。

 なんで、そんな顔を。

 

「無理か」

「悪い、もう良いわ」

「そうか」

 

 オレが二の句を告げなくなってる間。

 ボレアスは淡々と、アッシュに対して言葉を向ける。

 アッシュの方も、表情は変えないままに応じた。

 その声は、擦れてはいても常と変わらない。

 軽口を語る時と、何一つ。

 

「っ、ンなことより、早く治療を……!」

「いやダメだ、流石にこれはちょっとな。

 だから、まぁここまでだ」

 

 笑う。

 アッシュは笑っている。

 悪いことをしたと、そんな風に言ってるような笑みだった。

 オレは――オレは何を言えば良いのか。

 所詮は行きずりで、付き合いもホントに短いモンだ。

 特別な感情も、これといって特にない。

 利害が一致したから協力して、少しの間だけ一緒に行動しただけ。

 それだけだ。

 それだけなのは間違いない――けど。

 

「お別れだ、イーリス。幸運を、祈ってる。

 ――あぁ、ウン。君と一緒に行動するのは、意外と楽しかった。

 ホント、我ながら意外だったけど、ね」

 

 アッシュは、それだけ言って。

 自分の意思で、抱えていたボレアスの手から離れた。

 再び飛んで来た結晶弾の幾つかを、落ちる身体で受けながら。

 赤い血の軌跡だけを、宙に残して。

 その姿は地上へと落ち、そのまま黒い泥で見えなくなった。

 

「ッ……勝手に、人に命を押し付けて行くなよ……!!」

 

 血反吐をブチ撒けるように、オレは叫んでいた。

 涙は出なかった。

 泣くほど感傷的な間柄じゃない。

 けど、それでも。

 短くとも、同じ時間は共有した仲だ。

 こんな死に方して良いと、思ったことは一度もない。

 クソッタレ。

 

「イーリス……!」

「前見てくれ、姉さん!」

 

 叫ぶ。

 姉さんがオレを気遣ってくれてるのは、分かる。

 けど、今は良い。

 慰めは求めていない。

 必要なのは、前に進むことだけだ。

 触腕も黒い泥も、オレ達を呑み込もうと一層激しさを増してる。

 大穴から感じる気配も、どんどんデカくなるばかりだ。

 破滅はもう、すぐそこまで来ている。

 

「仮にあの穴に飛び込んだとして、それはあの泥に頭から突っ込むのと変わらんな」

「だろうな」

 

 笑みを含んだボレアスの声に、オレは小さく頷く。

 あの黒い泥もまた、バビロンの一部だとして。

 発生源はあの大穴の底だろう。

 地の底で未だに横たわっている、大いなるバビロン。

 きっと、レックス達も《聖櫃》を通じてあの穴の底に呑まれたんだ。

 ……勝手に飛び出して来ねーかな。

 一瞬だけ、そんなことを期待してしまった。

 

「ならばどうする? このままあの男の後を追うか?」

「くだらねーこと言ってんじゃねェよ」

 

 面白くもない冗談に、唸る声で返す。

 言ってるボレアスだって、そんなことする気もないクセに。

 多分、考えがあってオレを試してるな。

 

「何かあるなら言えよ、グダグダやってる時間もねェだろ」

「このまま無策に突っ込んだところで、獣の口の中に飛び込むも同然。

 それは理解しているな?」

「あぁ、それで?」

「仮にだが、竜殺しと長子殿――あとはあの寝坊助か。

 奴らが既にバビロンの腹に呑まれているのなら。

 これを外側から引き裂くのが、この場における最善であろう」

「最善かどうかは分かんねーけど」

 

 ただ、取れる手立てとしてはそれぐらいだ。

 溢れ出す黒い泥に、成長を続ける触腕。

 これすらも、大穴に眠る本体の余波に過ぎないのだろう。

 現時点で、オレ達にこれを根本的にどうにかする手段はない。

 だから、あるとするならば――。

 

「出来んのか?」

「力が足らぬ。

 今の状態で《吐息》を放ったところで、地の底までは届くまい」

 

 言葉を交わしながら、ボレアスは伸びて来た触腕を叩き潰す。

 姉さんも奮闘しちゃいるが、限界は近い。

 結晶弾の方は回避するしかなく、それで足はますます鈍る。

 大穴はもう、すぐそこまで見えているのに。

 

「……どうすりゃ良いんだ?」

 

 ボレアスは、極めて端的にそれを言って来た。

 

「魔力の供給が足らぬ以上、どこからか持ってくる他ない。

 ならば――」

「良いぜ」

 

 迷う必要はなかった。

 姉さんの方は、度重なる魔法の行使でギリギリだ。

 こっちの話を聞いてる余裕すらない。

 そうなればまぁ、選択肢なんて一つしかない。

 

「一応聞いとくけど、死ぬか? ソレ」

「死なん程度には加減してやるつもりだ。

 が、そうなると足りるかどうか分からんがな」

「だったら、ギリギリまではやってくれよ」

 

 別に死にたいワケじゃない。

 むしろ、ここで死んでたまるかと思っている。

 だからこそ、命惜しさに躊躇したら足りませんでした――なんて。

 そんな間抜けを晒すのだけは御免だった。

 オレの言葉に、ボレアスは笑みを深くする。

 その横顔は、まさに強大で傲慢な竜そのものだった。

 

「良い度胸だ。流石にここまで来ただけの事はあるな」

「そういうのは良いから、さっさとやってくれよ。

 姉さんの方だってヤバいんだからな」

「良かろう。

 少々痛いが、なに。直ぐに痛がる余裕もなくなる」

 

 すげェ物騒なことを言いながら。

 ボレアスは躊躇なく、オレの首筋辺りに噛み付いて来た。

 贅沢言うなら、せめて何をするかの一言ぐらいは欲しかった。

 が、ボレアス自身が言う通り、確かにそんな余裕は直ぐになくなった。

 痛い、とか。

 苦しい、とか。

 そんな感覚は、遥か遠くに置き去りにされていく。

 生命を――魂そのものを、「啜られている」感触。

 喰われている。

 生きたまま、より大きな獣に貪られる。

 多分、まともに生きてる限りは絶対に味わえない感覚だ。

 嬉しくもなんともねェけど。

 

「ッ――ぁ……!」

 

 口から漏れる声が、自分のモノかすら分からない。

 時間は一秒しか経過してないようにも、一時間が過ぎたようにも感じる。

 分からない、多くの事が曖昧になっていく。

 自分という境界線が解けて、より大きな何かに呑まれていく。

 ……あの、黒い泥や触腕に取り込まれたら、同じような感じなのか。

 知りたくもない疑問が、頭の中で弾けて消える。

 っつーか、ヤバい……ギリギリまで良い、とは言ったけど。

 これは、本当に――。

 

「……イーリスっ!!」

「ッ、ぁ……?」

 

 暗いどこかに沈みかけた意識。

 それを、力強い声が引き戻してくれた。

 誰――あぁ、いや……。

 

「姉さん……?」

「無茶をし過ぎだ、馬鹿者……!」

 

 さっきまでは、ボレアスに思いっ切り噛み付かれてたはずだけど。

 今は何故か、泣きそうな顔の姉さんに抱えられていた。

 ヤバい、時間の感覚とかがマジで消し飛んでる。

 意識も殆ど途切れていたせいで、状況がまったく……。

 

「――成る程、これは予想以上だ」

 

 笑う声がした。

 どこまでも傲慢で、どこまでも強大な。

 隔絶した力で、自分以外の全てを蹂躙する暴君の声。

 霞んでいた視界でも、ハッキリと見える。

 王冠のような角を生やし、その背に燃える炎にも似た翼を広げて。

 総身に強大な力を漲らせたボレアスの姿が。

 ……相変わらず全裸痴女なのは、この際置いておこう。

 

「良い餌だった。一時的ではあれ、これならば十分であろう」

 

 満足げに言いながら、ボレアスは笑う。

 太く長い尻尾が、オレと抱えている姉さんの周りを囲っている。

 不思議な浮遊感が身体を包むのは、ボレアスの力で守られているからか。

 先ほどと変わらず、触腕や結晶弾が押し寄せて来てるが――。

 

「邪魔だ」

 

 今のボレアスは、それを意に介さない。

 片手で払っただけで、触腕は文字通り木の枝みたいに纏めて薙ぎ払われる。

 結晶弾は、そもそも身体に触れる前に砕け散る。

 ――圧倒的だ。

 もしかしたら、いつものボレアスよりも強いのでは……?

 

「さて、呆けてる暇などないぞ?

 先ほど言った通り、この力も一時的なものに過ぎん」

 

 言いながら、ボレアスは一息に加速した。

 オレと姉さんを尻尾で捕まえた状態で。

 速度はとんでもないが、衝撃の方も驚くほどに少なかった。

 やっぱこれ、守ってくれてるんだよな?

 突っ込むと藪蛇な気がするので、それについては何も言わないでおくが。

 

「ボレアス殿! 一体どうする気で――」

「お前の妹の考えていることと同じだ。

 予定通り、と言った方がいいか?」

 

 やや焦り気味の姉さんの言葉に、ボレアスは余裕の笑みだ。

 あぁ、そうだ。

 ここまで来たのは、そうするためなのだから。

 今さら迷う理由なんて、一つもない。

 だから――。

 

「このまま、真っ直ぐ突っ込め」

「――良かろう。

 供物を捧げたことへの対価だ、正しく応えてやろう」

 

 言うが早いか、ボレアスは更に速度を上げた。

 もう風よりも――いや、下手すると音よりも速いかもしれない。

 人間の理解の外に至るほどの速さで、ボレアスはオレ達を連れて空を駆ける。

 闇が渦を巻いていた。

 触腕が大きく広がり、黒い泥は大穴から津波の如くに溢れ出そうとしている。

 並みの人間ならば、目にしただけで心が潰れそうな光景。

 オレだって、仮にこれの前に一人で放り出されたらどうしようもない。

 恐れ、泣いて許しを請う以外にないかもしれない。

 けれど、今は違う。

 オレ自身にはもう、何もできない。

 できる唯一のことは、もうやった後だ。

 力の入らない身体、それを抱き締めてくれてる姉さんに任せる。

 そうして、震える声を何とか絞り出した。

 

「頼むぜ、ホント……!」

「ハハハ! 誰にモノを言ってるんだ、小娘!」

 

 笑うボレアスの声が、今は何より頼もしい。

 眩く輝く炎。

 それを周囲に纏いながら、ボレアスは真っ直ぐに飛び続ける。

 触腕も黒い泥も、全てを焼き切って進む。

 きっと、傍から見た姿は地に落ちる流星みたいだろうな。

 誰かがそれを見てるかどうか、それはオレも知らないけれど。

 向かう先は闇の底。

 黒く黒く渦を巻く、大いなるバビロンの胎の中。

 そこに、レックス達が本当にいるかどうかは分からないが――。

 

「……とりあえず、一発ブン殴ってやらないとな」

 

 ここまで、無駄に苦労させやがって。

 その前に無事であることは、胸の奥で密かに祈りながら。

 オレ達は、闇が溢れ出す寸前の大穴へと飛び込んだ。

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