5話:黎明に旅立つ
ぐぅ、と。
腹の虫は思ったより大きい音で鳴いた。
一つ間を置いて、腕の中でもぞりと動きを感じる。
「……便利な目覚ましね?」
「悪いな。そういえば目覚めてからまだ呑まず食わずだったわ」
まだ少し眠気が残る少女の声。
それに応じながら、軽く頭を撫でてみた。
夜は明けていないが、月の位置はそれなりに傾いている。
少女は小さく伸びをして、ほっと吐息を漏らした。
「ちょっとは休めたか?」
「……ええ、少しは。悪くないわ、ええ」
何故か目線を逸らしつつ、少女は頷く。
それからスルリと、魔法のように此方の腕から抜け出して軽やかに地に下りる。
「……こんなに眠ってしまうとか、昔なら考えられないわね」
「ちゃんと寝るのも大事だろ」
「
確かに此方は人間なので、それ以外の基準というのは良く分からないが。
そう言葉を交わしている間に、少女は手の中に何か小さな物を取り出した。
明らかに何もない場所から出したように見えたが、それも恐らく魔法か何かだろう。
見れば、それは掌で掴める程度の陶器の瓶だった。
「はい、これ」
「おぉ」
無造作に投げて寄越されたそれを、何とかキャッチする。
「とりあえずは水ね。足りなければ言って頂戴」
「水も出せるんだな」
「当たり前でしょう?」
まぁ確かに、竜殺しの剣や呪いの鎧を用意するよりは余程簡単そうではある。
瓶の口を開き、中の水を一気に流し込む。
……五臓六腑に染みる、と言えば良いのだろうか。
中身は何の変哲もない水のはずだが、久々に口にしたそれはやけに美味く感じた。
「はー、生き返るわ」
「実際に生き返ったものね」
「そういやそうだ」
いや、生き返ったという自覚はちょっと曖昧だが。
ともあれ、瓶の水を飲み干せば何となく活力も沸いて来た気がする。
後は空っぽの腹を満たす事が出来れば言う事はない。
「まぁ勿論、食べ物も魔法で出そうと思えば出せるけど」
「けど?」
「美味しくないわよ?」
「美味しくないのか」
それはちょっと残念な情報ではあった。
「一日に必要な栄養とか、そういうのは補えるけど。味はしないわね、まったく」
「まぁ食えるだけありがたいから、それでも文句はないぞ」
「ええ。けど、それはあくまで他に食べる物がない場合の緊急用だから」
それはそうだろうな、と頷く。
栄養が取れる粘土を好んで食べたがる奴はそういないだろう。
今はその緊急時という奴であろうし、此方も贅沢は言わないつもりだ。
が、少女は何故か意味ありげな笑みを見せる。
「あるじゃない、食料」
「ん?」
一瞬、言われている事の意味が理解出来なかった。
まさかそこらを偶にうろついてる魔物の事を言っているのか。
「違うわよ、そっちじゃなくて」
此方の思考を読んだように、少女は否定をする。
それからその指先を、ひょいっとある一点の方へと向けた。
釣られて視線をそちらの方へと向ければ……。
「……マジ?」
「腐ってないし、大丈夫だと思うけど?」
竜だ。
《北の王》と呼ばれていたらしい、竜の屍。
横たわるその巨体を指差しながら、少女は悪戯っぽく笑っていた。
確かに、大昔に死んだはずのその身体は何処も腐敗した様子は見られない。
しかし竜の肉を食べる、という発想はなかった。
「食えるのか? コレ」
「そりゃ肉だもの。食べた事ないから、味とかは流石に分からないけど」
「そうかぁ」
仕留めた獲物の肉を食べる、と考えれば狩猟とそう大差はないのか。
竜を殺した記憶が曖昧なのだが。
「まぁこれ以外だと、さっき言った味無しの栄養食しかないから。どっちにする?」
「肉は肉だよな」
それに竜の肉がどんなものか、興味がないではない。
とりあえず、小さな山にも見える巨大な竜の屍に改めて近づく。
デカ過ぎて何処の肉を切り取れば良いやら。
「そういえば火とか通るのか? 流石に生のまま食うのはヤバい気がするんだが」
「普通の火じゃ通らないかもしれないわね。焼くなら私が魔法でやってあげるけど」
「そうしてくれると助かるな」
「生は――どうでしょうね。私が貴方を食べた時は、生で十分美味しかったけど」
「………うん?」
何か今、かなり恐ろしい発言が聞こえたような。
「? なぁに?」
思わずそちらを振り向いたが、可愛らしく微笑み返されてしまった。
うん、深く突っ込むのは止めよう。
知らないでおいた方が良い事もきっとあるはずだ。
「これだけ大きければ、幾らか保存食にしてしまっても良いかもしれないわね」
「先ず食べて問題ないのを確認してからだな」
「それは勿論、貴方の仕事だけど」
貴方が食べる物だしね?と少女は楽し気に笑ってみせた。
……そして結論から言えば、残念ながらそう美味い物でもなかった。
適当に切り取った肉を焼いて食べてはみたが、やはり硬いし味もなかなか表現し難い。
とりあえず牛とか豚とか、あの辺の家畜の肉とは明らかに異なるものだった。
「微妙だな」
「食用に飼育された動物と比べたらそうでしょうね」
その言葉が真理だろう。
味はイマイチだったが、分厚い肉で腹を満たせたのは素直に嬉しい。
一人分と切り分けた肉を食べ終えたら、軽く一息。
「これなら、そこらをうろついてるグロい獣を狩った方が美味かったかもな」
「……かもしれないわね」
冗談のつもりだったが、何故か微妙な反応を返されてしまった。
少女の様子をチラっと見るが、それ以上は何も言わず残った竜肉を幾つか魔法で加工していた。
今の会話の何処が、彼女の心に引っ掛かったのか。
現状はまだ、深く突っ込まない事にする。
「で、持ってくのか? それ」
「一応、保存食代わりにね。必要でしょう?」
「食わなきゃ動けんしなぁ」
「ええ、補給は軽視すべきじゃないわ」
そう言う少女は、結局竜の肉には口を付けていないようだが。
「私? 私はいいわ。食事も睡眠も、本来なら余り必要じゃないの」
「さっきは割と気持ちよさそうに寝てたな」
「疲れてたから仕方ないのよ」
うむ、疲れていたなら仕方ない。
さっきので多少なりとも休めたのなら何よりだ。
それから少女は出来た干し竜肉を布袋に包み、先ほどの水とは違う瓶も何本か取り出す。
「それは?」
「賦活剤。傷や疲労を癒すけど、呑み過ぎると命が縮まるから気を付けて」
「効き過ぎる良薬も考え物だな」
必要なら、多少危険だろうがガブ飲みする事もあるだろうが。
ぐいぐいと懐に押し込んでくる少女の視線が微妙に痛いので、口には出さないでおく。
「後はこれね」
続いて手渡して来たのは、黒鉄の鞘。
それを見てようやく、剣が未だに抜き身のままである事を思い出した。
「鞘か。そりゃ必要だな。抜いたままぶら下げてるわけにもいかんし」
「ホントに危ないからやめて頂戴。鞘自体は頑丈な造りだけど、無茶したら壊れるから注意してね」
特別な品で直すのは少し大変だから、と。
そう言い添えて渡された鞘に、剥き出しの剣を納める。
キンッ、と軽く響く金属音。
それを確認してから、剣を納めた鞘を改めて腰に佩いた。
「こんなもんか?」
「ええ、一先ずこんなところかしら」
確認の言葉に、少女は小さく頷いた。
それからそっと、その細い指先を俺の方へと向けてくる。
「……貴方は」
「?」
「まだ、殆ど思い出せていないのよね?」
「あぁ」
頷く。記憶は未だに欠けたままだ。
少女の表情には、僅かながら落胆の色が見えた。
それも直ぐに、首を軽く振って払い落とす。
「過去を何も覚えてなくて、いっそ何も分からないまま、それでも貴方はこの手を取るの?」
「…………」
今さらと言えば、酷く今さらな問いかけではあった。
彼女が何を思い、再度の確認としてその言葉を向けてきたのか。
そんな相手の心の内など分かるはずもないが、自分の答えぐらいは分かっていた。
差し出された手を、俺は躊躇わずに掴んだ。
「今さら聞く事じゃないだろ」
「貴方は」
「確かに忘れたし、分かってない事ばかりだけどな」
何もかもが曖昧であやふやだが、それでも確かに言える事は。
「俺を生き返らせたのがアンタで、それは間違いなく事実なんだろ?
だったら、俺はアンタに付き合うさ。そのぐらいの義理は、当然果たさなきゃな」
それだけが理由ではないが、それも確実に理由の一つだ。
「……そう」
俺の答えを聞いて、少女は困ったように微笑んだ。
握っている此方の手を、彼女はそっと握り返してくる。
「一度死んでも、馬鹿は治らないみたいね。新発見だわ」
「そうだろ?」
「何で自慢げなの。……まぁ、少し安心もしたわ。多くを忘れても、貴方は貴方のままで」
変わらないものがあった事を、少女は喜んでいるようだった。
それは今の俺には分かりようのない話だが。
彼女が喜んでいるのなら、それで良いのだろう。
「……そういえば」
「あら、なに?」
「いや、ぶっちゃけ一番最初に聞いておくべき事だったんだが」
何故か失念していた、恐らく一番大事な質問。
「名前、なんて言うんだ?」
「……それ、ホントに今聞くの? このタイミングでやっと?」
「いやホントに何でか抜けてた。それで気付いたけど、そっちは俺の名前も知ってるんじゃないか?」
可能性として直ぐに考えるべきだったかもしれないが。
短時間に色々あり過ぎたせいか、完全に頭からすっぽ抜けていた。
そんな余りにも間抜けな言葉を、少女はからかうように笑い飛ばす。
「私としては、以前に一度名乗ってるんですけどね?」
「むっ」
「それに人の名前を忘れるなんて、それこそ酷い話だと思わない?」
「まぁ確かに」
「だから、それは自力で思い出して? それまでは、教えて上げないから」
自分で思い出したら、教えるも何もないのではなかろうか。
とはいえ、何時までも「アンタ」呼びで通すのもどうかと思うわけで。
「まぁ、真名は教えないにしても仮の呼び名は必要よね」
「あと俺の名前は?」
「そっちもちゃんと自分で思い出して?」
実にスパルタな返答だった。
だが、日常として互いに呼び合う名前の必要性は認められたらしい。
少女は可愛らしく首を捻って、暫し考え込む。
そして。
「……レックス」
「ん?」
「レックス。そう、私は貴方をレックスと呼ぶ事にするわ。文句ないわね?」
「文句を言える立場でもないしな」
問題ない、と頷いておく。
レックス。仮の呼び名としては少々カッコ良すぎる気もする。
あと聞いた覚えのある単語だったが、さてどういう意味だったか。
穴開きの多い記憶を掘り返している間に、少女はニッコリと微笑んで。
「じゃあ、今度はそっち」
「俺??」
「そうよ。特別に、私の仮の呼び名を貴方に決めさせてあげるわ」
それはまた、責任重大な無茶振りが飛んできた。
安易に決めれば殴られそうだが、洒落た名付けというのも難しい。
少女は悪戯っぽい笑みを見せ、此方がどんな名前を出してくるのか待つ構えだ。
果たしてどんな名が、彼女を呼ぶのに相応しいか……。
「……
「嫌」
「はい」
あっさり拒否された。
名は体を表すでぴったりだと思ったのだが、やはり難しい。
「さて……」
一応期待はされているようだし、何とか応えたいところだ。
そう思いながら、何気なく空を見上げた。
月は地に沈んで、やがて日が昇る空。
その間際の輝きをどう呼んだか。
「……
「え?」
「アウローラ。我ながら思い付きにしては洒落てると思うんだが」
目覚めを連れてきた、金色の少女。
そういう意味でも「夜明け」という呼び名は相応しい気もする。
微妙にこっ恥ずかしいので、其処までは口に出さないが。
「
「あー、お気に召さないか?」
「いいえ、思ったより真っ当な呼び名が出て来て驚いただけよ?」
「やったぜ」
どう聞いても誉め言葉だったので、素直に喜んでみた。
何故か少女――アウローラは頬を染めて不満顔だが、きっと気のせいだろう。
「ホント、何処まで真面目で何処まで冗談なのか、偶に分からなくなるんだけど」
「きっと今も昔も、俺はずっと真面目だけどな」
その台詞こそ冗談みたいじゃない、と。
アウローラは、その仮の名を表すような朝の陽ざしの中で笑う。
夜が明ける。短く、永かった夜が。
「さ――行きましょうか」
彼女がそう言うと、身体がふわりと浮き上がった。
両足は地を離れ、ゆっくりと空へ。
「目的地とかは決まっているのか?」
「無いわ。私だって、今の世界がどうなってるかは分からないもの」
それは何とも頼りない発言だったが。
彼女は心底愉快そうに微笑む。
「――三千年」
呟く年月の長さは、完全に理解の外だ。
「それだけの時間を、この荒れ野で過ごして来た。
もう外側にある世界は、私が知っている物なんて殆ど残ってないでしょうね」
「なかなかの冒険になりそうだな」
「ええ、心が躍るでしょう?」
頷く。
彼女が知っている世界が無いように、俺の中に残された世界も其処には無いだろう。
やるべき事は、前に進む事だけ。
見知らぬ世界を一歩ずつ。
それは間違いなく、他に誰も経験した事のない旅路だ。
「先ずはこの地を出て、一番近い都市を探しましょうか。
今の世界がどうなっているのか、直接確かめないと」
「そっからは?」
「後で考えましょう。やる事自体はシンプルだもの」
竜を殺す。
成る程、確かにやるべき事は単純だった。
「……高いな」
アウローラの魔法に身を任せつつ、ふと足下に視線をやる。
既にかなりの高い位置まで上っており、廃城も《北の王》の屍も遥か下だ。
あれだけ広く大きかった物が、今はもうかざした手のひらに隠れてしまいそうな程に小さい。
「――世界は広大で、私達のいるこの大陸すら、より高い場所から見下ろせば同じように小さく見える」
金色の髪を陽光に靡かせながら、彼女は歌う。
「先ずは近くを、それから遠くへ。知らないモノを見て、知らない場所へ行きましょう。
竜を殺して、剣を鍛えて。――私に付き合ってくれると、そう言ったわよね?」
「あぁ、勿論だ」
今さら否とは言うまい。
応じながら、アウローラの手を少し強めに握り返した。
「行くか」
「ええ、行きましょう」
そういう事になった。
遠く、けれど今はまだ近い何処かへ。
朝焼けの光の中を、俺達は鳥よりも早く飛んでいた。
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