2話:月下の邂逅

 

 ――果たして其処には、竜がいた。

 より正確に言うならばその亡骸だが。

 この世の何よりも強靭な生命力は、今は何処にもない。

 それでも年月は竜の屍を朽ちさせる事はなかったようだった。

 横たわる屍は、首を断たれた傷さえなければ眠っているのではと錯覚したかもしれない。

 

「…………」

 

 俺はそれを見ていた。

 驚き目を奪われたのは、竜の屍に対してではなかった。

 いや、それも確かに驚きはした。

 瓦礫の山を登ってみれば、その頂上にデカい竜が死んでいたのだ。

 頭の奥が少し痛む。夢で見たような景色が、脳裏を過る。

 

「……あれは」

 

 月の光だけに照らされた、夜の闇。

 其処に、一人の少女がいた。

 事切れた竜の首、その上にもたれかかるようにして。

 ズキリと、頭の奥が痛む。

 

「…………」

 

 誘われるように、足を踏み出す。

 幻覚か、まだ夢の中にいるのではと疑いながら。

 その少女はまるで眠っているようだった。

 年の頃は十代の半ばぐらいだろうか、竜の屍と比べれば余りにも小柄だ。

 肩の辺りで切り揃えた金色の髪。

 真っ白で汚れ一つない細い肢体。

 その顔は「美しい」という言葉以外での表現が難しい。

 身に着けた藍色のドレスは、華美過ぎないが相当に上等なものだろう。

 恰好も相まって、御伽噺に出てくるお姫様のようにも見えた。

 瞼を閉じて瞳の色は見えない。

 眠っているのか……とも、思ったが。

 

「……死んでる?」

 

 少女はピクリとも動かず、またその薄い胸も凪いだままだ。

 呼吸をしているようには見られない。

 ならばこの少女は、寝台代わりにしている竜と同様に屍なのか。

 

「眠ってるようにしか見えないが」

 

 何故か息をしていない少女に、魂とか生命力のようなものを感じる気がする。

 精巧な人形を見て「まるで生きているかのようだ」と例えるが、それと同じだろうか?

 そんな事を考えている間にも、足は一歩一歩と少女の元へ近づく。

 眠っている。死んでいる。

 その曖昧な境を越えようと、俺はそっと手を伸ばし――。

 

「……悪い男ね」

 

 その声は、冷たく転がる鈴の音によく似ていた。

 驚愕する。考えなかったわけではないが、それでも心臓が大きく跳ねた。

 少女の手。指は細く、此方の手首に絡みつく。

 無遠慮に伸ばされた俺の腕を、目覚めた少女が掴んでいた。

 開かれた瞼の奥にあったのは、紅玉の如き赤い瞳。

 これまでは秘されていたその眼差しは、鋭く俺の魂を貫いた気がした。

 

「眠っている女の胸元に、許可もなく手を伸ばすなんて」

「あ、いや」

「――お仕置きが必要かしら」

 

 その笑みは、ゾッとする程に美しかったが。

 同時に、途方もなく危険なものであると身体が覚えていた。

 絶対的な捕食者が、わざと牙を見せた時の表情。

 次の瞬間には、視界が大きく反転する。

 

「おおぉぉ……!?」

 

 情けない悲鳴の尾を引きながら、身体は派手に瓦礫の上を転がった。

 投げ飛ばされた――と、起こった事実を頭は理解している。

 だがそれを行ったのが少女の細腕などと、どうすれば信じられるか。

 此方も特別大柄なつもりはないが、それでも体重差は二倍どころではないはずだ。

 だというのに、少女の細腕は紙クズでも捨てるように此方を放り投げた。

 

「もう少し上手く出来ないの? あぁ、それとも寝起きで運動不足?」

 

 混乱から手足をばたつかせて立ち上がる俺を、少女は愉快げに見下ろしている。

 夜空を背負い、輝き照らす月と共に。

 ……ヤバい。

 酷くヤバいし、もの凄くヤバい。

 ヤバいという形容以外見つからないぐらいにはヤバい。

 この少女は、きっとこの廃城にいるどんな怪物よりもヤバい怪物だ。

 恐らくは其処に転がっている竜が生き返ったとしても、この少女には及ぶまい。

 目の前にあるものが竜の尾か否か、それを確かめる為に敢えて踏んづけた古い学者の話を思い出す。

 俺の状況は、どうやらそれに近しいようだ。

 

「…………」

 

 抗う手段は見つからず、せめて相手の出方を伺おうと。

 そうして下手に動けぬ此方に対し、少女の方もまた動かない。

 ただじっと、足下で這い蹲っている哀れな人間をその赤い瞳で見下ろすばかり。

 奇妙な沈黙が流れた。

 俺は竜に睨まれた蛙のように動けず、少女もまたそれを眺めるだけで動く様子はない。

 一体どういうつもりだろうか。

 怯え固まる獲物を嬲って楽しんでいるのとも、様子が違う気もするが……。

 

「……ねぇ」

「?」

 

 頭の上に落とされた声には、僅かに困惑の色があった。

 恐る恐る見上げれば、少女は不満そうな顔で首を傾げている。

 それは見た目通り、年相応に拗ねた子供そのものだ。

 本質とは乖離している事は重々承知だが、それでもウッカリ騙されてしまいそうだ。

 コツン、と。

 やはり子供が悪戯を仕掛けるように、爪先で此方の腰辺りを蹴ってくる。

 が、それも先ほどのような超人的な力は込められていない。

 

「ちょっと、何か言ったらどう? 呆けてばかりじゃこっちが困るのだけど」

「……あー」

 

 果たして、何をどう答えるのが正解なのか。

 何も分からない此方からして見れば、目隠しで逆鱗を探すに等しい。

 ちょっとした失敗が死に繋がりそうなお喋り――というのは、出来れば御免なのだが。

 

「ねぇ、聞いてるの?」

 

 少女は本当に困ったように、整った眉を僅かに八の字に歪めている。

 未だに言葉の迷子になっている此方に、苛立っているような空気はない。

 ……どちらかと言えば、泣き出す寸前の子供のような。

 

「……なぁ」

「! 何かしら?」

 

 慎重に言葉を発した此方に対して。

 それを受けた少女は、さながら獲物に食いつく獣の素早さで反応してきた。

 喜んでいるように見えるのが、錯覚ではないと思いたい。

 その感情の理由は分からないが、それを根拠に祈る他ないだろう。

 だから俺は迷わず、先ず一番の疑問を口に出した。

 

「……アンタは、誰だ?」

「――――」

 

 逆鱗を踏み抜いた。

 その問いを言葉にした瞬間に悟った。

 少女の表情から一気に色が抜け落ちて、赤い瞳がキュッと細まる。

 ……ヤバい。

 もうこれ以上ないぐらいにヤバい気がする。

 明らかに相手の様子が変わった事に、どうしようもない焦りが沸き立つ。

 一目散に逃げ出すか、いっそ抵抗を試みるべきか。

 生死の境を設定し、それに此方が判断を下すよりも早く。

 

「本当に?」

 

 伸びてきた手が、俺の顔を――正確には、それを覆う兜を掴んでいた。

 有無を言わせぬ力。

 彼我の距離は、互いの吐息を感じられる程に近い。

 文字通り、目の前にある赤い瞳が此方を覗き込んでくる。

 

「本当に、私が誰だか分からないの?」

 

 冗談だったら許さない。

 強烈な怒りが、言葉にせずその意思を刻み込んでくる。

 まったく生きた心地がしないが、こっちも別に嘘を吐いてるわけじゃない。

 開き直って両手を広げ、降伏のポーズを取った上で。

 

「あぁ、むしろ自分の事も何一つ分からないぐらいだ。

 俺は誰で、此処は何処だか知らないか?」

「…………」

 

 再びの沈黙。

 体勢は変わらないまま、少女は黙り込んでしまった。

 痛い程の静寂は、どれだけの時を数えたか。

 下手に動くのはヤバい気がして、また竜に睨まれた蛙に徹していたが……。

 

「……ごめんなさい」

「んっ?」

 

 何故か、謝られてしまった。

 理由が分からないし、当たり前だが心当たりもない。

 だから、それについて聞き返そうとして。

 

「やっと、上手く行ったと思ったのに」

 

 少女は泣いていた。

 ポロポロと、その目から大粒の涙が零れ落ちる。

 身を裂くような怒りは、もう何処にも残っていなかった。

 ただどうしようもない悲哀に、少女は泣き出していた。

 

「やっと、やっと。ずっとずっと。

 何度も失敗したけど、それでも諦められなかったから」

「なぁ」

「それなのに、やっぱりダメだったの? 私は、全部この為に擲ったのに……!」

「…………」

 

 感情の爆発。

 ずっと溜め込んでいたものが、一気に爆ぜたのだろう。

 涙を流しながら支離滅裂に叫ぶ少女からは、先ほどまでの恐ろしさは微塵も感じられない。

 触れる手にも力はなく、今なら簡単に引き離せるだろう。

 だから。

 

「……とりあえず、落ち着けよ」

 

 伸ばした手で、頬を伝う雫を拭い。

 それから何とか落ち着かせようと、頭を撫でてみた。

 正直、女子の慰め方とかよく分からん。

 よく分からんが、落ち着いて貰わない事にはまともに話も出来ない。

 だから俺なりの精一杯で、ワシャワシャと少女の髪をかき混ぜる。

 

「…………」

 

 果たして、その蛮勇は功を奏したか。

 泣き続けていた少女は、驚きの表情で此方を見つめていた。

 ……冷静に考えると、余りにも無遠慮に過ぎた気もする。

 そも血やら埃やらで汚れた手で、女の髪や肌に触れるのは万死に値するのでは。

 しくじったら死ぬだけだ。正にその通り。

 この距離で腹パンされたら、内臓まで吹き飛ばされるのでは。

 せめて苦痛に耐えようと、可能な限り素早く覚悟を決める事にした、が。

 

「……忘れて」

 

 囁くような言葉。

 怒りに任せてブン殴られるという予想に反して、少女はそっと顔を伏せていた。

 更に片手で表情まで隠し、か細い声で続ける。

 

「忘れて。忘れなさい。いいから早く」

「いや、だから殆ど忘れて覚えてないんだが」

「そっちじゃなくって!」

 

 今度はパシリと兜を叩かれたが、力はさほど強くはない。

 が、二度三度と続けられると意識が揺れ出す。

 

「ちょっ、ヤバいヤバい。頭がグラグラしてきたんだけど」

「そんな穴の開いたバケツみたいな頭知らないわ。忘れたクセに。でもさっきのは忘れなさい」

「理不尽……!」

 

 この世にこんな暴虐が許されて良いのだろうか。

 しかし哀れな弱者おれに抗う術はなく、暴君のされるがままになる他ない。

 

「……本当に」

 

 虐待は、思いのほか早く止んだ。

 叩いていた手はそのまま、此方の背に回っていた。

 強く、けれど害意はない。

 ただ縋るように、少女は俺の胸元に身を寄せてくる。

 不安がる幼子がそうするように。

 

「本当に、覚えていないのね?」

 

 確認する声に、黙って頷く。

 か細い吐息。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。

 

「謝るべきか?」

「謝ったらねじ切るわよ」

 

 一体何をと、恐ろしくてとても聞けない。

 せめてもと、丸まっている小さな背を軽く撫でてみた。

 これぐらいでご機嫌取りになるかは分からないが。

 

「……良いわ、許してあげる」

 

 少なくとも怒らせる事はなかったようだ。

 

「事情とか状況とか、本当に何一つ分かってないが、感謝した方が良さそうだな」

「ええ、心の底から感謝して欲しいわ。私が、どれだけ大変だったか」

 

 何一つ、この頭の中にそれらしい記憶は残っていない。

 残ってはいないが、何処か落ち着いた気分になっている自分に気付く。

 頭の中身は覚えていなくとも、身体の方が覚えているのだろう。

 剣の振り方を覚えていたように、この体温が何処かに残っていたのかもしれない。

 

「……許してあげるわ、特別に」

 

 腕の中で、少女は囁く。

 其処にどれだけの感情が含まれているのかは、俺には分からない。

 

「貴方が、やっと目覚めてくれた――それだけで、ええ。特別に、全部許してあげるから」

 

 分からないが、一先ず落ち着いてはくれたようだ。

 恐らくこの少女は、俺の知りたい事……そして、俺が知らないだろう多くの事。

 口ぶりからして、それらの大半について知識があるはずだ。

 何処まで素直に話してくれるのか、それは分からない。

 分からないが、どんなトンデモナイ事実を吹き込まれようと、受け止める覚悟は必要だろう。

 どんな話だろうと、訳の分からないまま廃墟で野垂れ死ぬよりは良い。

 そう思いながら、少女が話を聞けるようになるまで、月を見上げて待つ事にした。

 

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