第一章 廃城で目覚める

1話:暗闇での覚醒


 ……夢を見ていた気がした。

 それは遠い昔のようで、つい最近の事のようにも思える。

 現実と夢想の境界は酷く曖昧で、頭の芯をキリキリと締め上げてくる。

 頭痛。眩暈。吐き気。その他諸々。

 悪い酒をしこたま呑んだ次の日の朝のようだ。

 

「ッ、ぇ……」

 

 余りの気分の悪さに嘔吐しようとしたが、駄目だった。

 そもそも腹の中に吐き出すものが何もないようで、ただ苦し気にえずくばかり。

 何度かそれを繰り返し、半ば無意識に身体を起こそうとするが……上手く行かない。

 手や足に力を入れる。骨と肉が軋みを上げた。

 

「痛ッ……!」

 

 嗚呼、一体なんだというのか。

 ボキとかゴキとか、身体のいたるところから異音が響く。

 こんな事は今までになかった……いや、そもそも。

 

「……っ?」

 

 此処は何処で、一体どういう状況だ?

 曖昧な意識は、ようやっと目の前の現実に注意を向ける。

 暗い――が、何も見えない程ではない。

 最初は視界もほぼゼロだったが、僅かに差し込む明かりが少しずつ慣らしてくれたようだ。

 其処は、何処か荒れ果てた廃墟のように思えた。

 自分が転がっていたのは硬い石畳。

 元々は上等な石材を使っていたのだろうが、今は見る影もなく劣化している。

 壁や天井は半ば崩れ落ちており、夜空に輝く月の光が淡く注がれていた。

 果たしてこの場所が、以前はどんな用途で使われていたのか。

 それを読み取るような痕跡は殆どなく、ただ寂寥感だけが夜風と共に流れていく。

 

「……此処は……」

 

 一体、何処なのか。

 そう疑問を一人口にするよりも早く、また別の疑問が生まれる。

 ……見覚えは、あるような気がする。

 ハッキリとは口に出来ないが、自分はこの場所を知っているはずだ、と。

 それは根拠のない思い付きに等しく、本当に重要なのは別の事だ。

 この場所は何処なのか?

 思い出せない。

 何故、自分は此処にいるのか?

 思い出せない。

 そして、そもそも。

 

「……俺は、誰だ?」

 

 酷い記憶の欠落を、此処でようやく自覚した。



 ……混乱しているばかりでは埒が明かない。

 一先ず状況と、分かる範囲で確認出来るものは確認してみる事にした。

 未だに身体は軋んでいるが、慣れれば何とか立ち上がる事は出来た。

 そうしてから、改めて観察する。

 今いる場所は殆ど朽ち果てた廃墟の中。

 外がどうなっているかは直接確かめるとして、先ずは何も分からない自分自身だ。

 いや、何一つ分からないわけではない。

 目覚める前に見ていた夢。

 既に朧気になってしまっているが、アレが過去の記憶だった事は何となく理解出来る。

 俺は此処で戦い――そして、死んだのだろうか。

 

「……死んだんなら、生きてるはずはないんだよなぁ」

 

 そんなごく当たり前の事を口にしながら、視線は自分自身へと向けた。

 光源は月明りだけで何とも頼りないが、それでもうっすらと見る事は出来る。

 身に着けているのは、古びてボロボロになった鋼の甲冑。

 ただの経年劣化だけでなく、戦いで得ただろう破壊の痕跡が目立つ。

 恐らく鎧下も相応にボロボロだろうが、今の状況で甲冑を外して確認したくはない。

 懐を漁っても、特に何も持ち合わせてはいなかった。

 当然のように水や食料の類も無い事に若干戦慄したが、まぁ外へ探しに出れば何とかなるだろう。

 何ともならなければ死ぬだけだ。

 

「さて……」

 

 路銀もない。水も食料もない。

 身に着けているのは壊れかけた鎧だけ。

 それと最後に、もう一つ。

 

「……剣だな」

 

 一振りの剣。

 鞘はなく、眠っている間もそれはずっとこの手で握っていたようだった。

 流石に薄汚れてはいたが、鎧と比べれば無傷も同然。

 華美な装飾はなく、けれど機能的な美しさは感じさせる一本の長剣ロングソード

 刀身には錆び一つ浮いておらず、月光を呼吸しているかのように鈍い輝きを宿している。

 試しに、それを振ってみる。

 身体はまだ余り言う事を聞いてはくれないが、それでも剣を振る事は出来た。

 ぎこちない。とても華麗にとは言えない。

 だがそれでも、その剣はこの手に酷く馴染んでいた。

 何百、何千――それこそ、何万を超える数。

 この剣を振るったのだろうという肉体の記憶だけは、初めて確信を持つ事が出来た。

 ……そうだ。あの夢でも、俺はこの剣で戦っていたはずだ。

 自分が何と戦い、何を理由に戦っていたのか。

 それはまだ濃い霧の向こう側だが。

 

 「覚悟を決めるか」

 

 呟く。応える者など誰もいないが、自然と声は口から出ていた。

 もしかしたら、以前は応じる誰かがいたのかもしれない。

 頭の方は忘れても、身体の方は覚えている事もある。

 それを実感したばかりだが、このままずっとボケ老人では困る。

 ボロボロの鎧が脱落してしまわないか、もう一度確認。

 一振りだけの剣の柄を握り直す。

 

「行くか」

 

 何も分からない。

 何も分からないなら、その何かを探す他ない。

 徒手空拳でないなら上等だろうと、俺はその場から一歩踏み出す。

 この廃墟の外に何があるのか、先ずはそれを確かめねば。

 

「……化け物の類とか、うろついてたりしてな」

 

 それは夢の内容を引き摺り過ぎだろうと、思わず笑ってしまった。

 

 

 

 まぁ結果的に、その想像は大当たりしてしまうわけだが。

 

「畜生……!」

 

 言う事を聞かない関節を無理やり動かし、大きく地を蹴る。

 派手に地面を転がれば、一瞬遅れて背後を黒い何かが跳ね飛んだ。

 痛む身体を鞭打って、可能な限り素早く身を起こす。

 剣を片手で構え、視線は真っ直ぐ正面に。

 月だけが照らす薄闇の中、「ソレ」は醜くのた打っていた。

 

『あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛あ゛ぁ゛』

 

 不気味な唸り声を上げる「ソレ」は、少なくともどんな生き物とも似ていなかった。

 かろうじて分かるのは四足歩行である事と、サイズは大柄な犬ぐらいである事。

 それから全身にドス黒い触手のようなものを生やし、裂けた口には無数の牙が並んでいる事。

 まるで酔っ払いが殴り描いた悪夢の絵画そのもの。

 こんなものがまともな生き物なわけがない。

 

「クソッタレ」

 

 毒を吐き出し、他に同じような怪物がいないか周りにも注意を向ける。

 この場所の探索を初めて、これで三匹目だ。

 形状は異なるが、似たような怪物にもう三度も襲われている。

 まったく、運命とやらは本当にクソッタレだ。

 

「…………」

 

 警戒は怠らず、同時に威嚇音を漏らす怪物からも意識を外さない。

 そうだ、これで三度目だ。

 つまり此処までに二匹は殺している。

 形が殺した奴らとは異なる以上、此方がまだ知らない事をしてくる可能性もあるが。

 

「しくじったら、死ぬだけか」

 

 自然とそう呟いていた。

 そして、終わりは夜風と共に来る。

 

『が゛ぁ゛っ!!』

 

 耳障りな咆哮、怪物が大きく飛んだ。

 全身から生えた触手が夜闇で不気味に蠢いている。

 アレに絡まれたら引き剥がせはするが、それで一瞬動きを阻まれる。

 其処を鋭い牙で噛みつかれたら良くて重傷、悪ければ致命傷だ。

 初見でそれを喰らった時、たまたま鎧の無事な部分が阻んでくれたのは幸運だった。

 

「ふっ……!」

 

 だから二度目以降は、運ではなく自力でそれを凌ぐ。

 必要以上に高く飛び上がった怪物、その腹の下を素早く潜り抜ける。

 余りギリギリでは触手に掴まれかねない。

 故に地を舐めるように体勢を低くし、それから頭上を見た。

 死線の上で集中した意識は、宙を飛ぶ怪物の動きを緩やかに捉える。

 頭で考えるまでもなく、身体は動いていた。

 無防備に晒された怪物の胴へと、剣の切っ先を捻じ込む。

 

『ぎっ!?』

 

 金属を擦り合わせたような悲鳴。

 鋭い刃は不安定な状態にも関わらず、容易く怪物の腹を貫いていた。

 そのまま飛んだ勢いと自重により、勝手に怪物は縦に裂ける。

 ドス黒い血が撒き散らされ、その腐った臭気が鼻につく。

 毒気でも帯びていたら最悪だったが、幸いにも不快な気分になる以上の害はなかった。

 

「大人しく、くたばれ……!」

 

 自分の血に溺れる怪物の頭に、トドメの一撃を振り下ろす。

 刃に今度は頭蓋を叩き割られて、ようやくそれは屍となった。

 大きく息を吐き出し、ゆっくりと吸う。

 冷えた夜気は心地いいが、怪物の血臭で台無しだった。

 

「……よし」

 

 動かない。改めてそれを確認する。

 ――この手の怪物の中には、頭や心臓を潰しただけでは簡単に死なないものもいる。

 記憶を失っているはずなのに、何故かそんな知識が自然と浮かび上がっていた。

 それは自身の経験則か、或いは誰かの受け売りか。

 

「まぁ、どちらでも良いか」

 

 大事なのは目の前にある現実の方だ。

 あっさりとそう結論づけてから、ようやく死んだ怪物から視線を外した。

 薄暗い周囲に、他にそれらしい影はない。

 少なくともこの近くに怪物の仲間はいないようだった。

 今はまだ、という但し書きは付くが。

 

「このままじゃジリ貧だな」

 

 自分が何者かも分からず、身体もまだ本調子ではない。

 死地でも動く事が出来ると分かったのは僥倖だが、それだけでは到底足りない。

 持ち物は壊れかけた鎧に、出来の良い剣が一本。

 それ以外には水や食料もまったくないという有様だ。

 せめて使える井戸の一つもないかと彷徨い歩いてはみたが……。

 

「……何もないな、此処」

 

 呟く。再び月夜の下を歩き出しながら。

 一体此処は、どれ程の年月に晒されたのだろうか。

 無駄に広い敷地内の大半は瓦礫の山で、過去の痕跡はほぼ完全に風化してしまっていた。

 僅かに推測できる事と言えば。

 

「元は城か何かだったのかねぇ」

 

 残骸ばかりで見る影もないが、辛うじて城の土台らしきものはある。

 後は殆ど原型を留めていないが、元は城壁だったろう石壁の一部を見つける事は出来た。

 無事だった頃はさぞや立派だったんだろうが、今は土と埃に塗れたゴミ山だ。

 何もない。此処には恐らく、もう何もない。

 

「いや、それじゃ困るんだがな」

 

 本当に何もないのであれば、自分は此処で干上がるしかない。

 一応、敷地を囲う城壁だった物の向こう――この廃城の外も見てはみたが。

 

「一面荒れ野で何も無しだったよなぁ……」

 

 人里を思わせる明かりもなく、闇夜が塊となって横たわる無人の荒野。

 もしかしたら何処かに集落か何かあるかもしれないが、生きて辿り着ける自信は皆無だ。

 何やかんやと、此処までの状況を纏めると……。

 

「……詰んだのでは?」

 

 そう考える他なくなってしまった。

 いやいや、そんな馬鹿な。こっちは何も分かっていないんだが。

 何か分からない状況のまま放り出され、何か分からないまま死ぬのは御免だ。

 せめて、何故自分がこの廃城にいるのか。

 それだけでも確かめないと、死んでも死にきれない。

 

「そうなると……」

 

 視線を向けた先は、月を背負って聳える瓦礫の山。

 恐らくは、昔は此処にあった城塞の名残り。

 月明りだけを頼りに登るのは危険だろうと、一先ず後回しにしていた場所だ。

 朝まで待つ事も考えたが、怪物がうろついている以上は悠長にもしていられないだろう。

 

「行くか」

 

 其処に何があるのか。

 何もない可能性の方が遥かに大きい。

 それでも他に道もないなら、とりあえず進んでみるべきだろう。

 

「しくじったら、死ぬだけだな」

 

 記憶はなくとも、その言葉は酷く馴染んでいた。

 きっと以前の自分もそんな生き方をして来たのだろうと、確信出来るぐらいに。

 

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