序章 銀の少女の死 その2
バチカンがくれた車に乗る。乱暴にドアを開けて、大司教殿からの賜りモノであるこの車に敬意を払うこともなく。
オレを飼いならすために、バチカンはオレにもくれたんだよ。お前のよりも、ずっと新しく。より速く走り……お前を追いかける真っ黒な猟犬だ。エンジンを始動させて、走るよ。ガソリン喰いながら黒い煙を吐き散らしつつ、こいつは獣じみて震えてうなった。
病院から離れていく。来た時は土砂降りに紛れるはずだと理解しつつも、エンジン音をふかせたりはしなかった。気を使ったよ。死者が毎日生まれる場所に敬意を払ったんだが―――今は、もう余裕はない。ぬかるみを蹴散らしつつ、危なげな運転をする。問題ない。
見える。
見ているぞ。
この大雨だ。主要な街道は封鎖されてしまう。そいつを知っているお前は、猟犬に終われる気持ちになりながらも、安全な道しか選べない。お前の古い車のタイヤと老眼では、限界というものがあるんだ。
土砂降りに紛れる?
闇に紛れる?
見事だったな。病院に忍び込み、エリーゼを連れ去るまでは。
だが。グルカ兵から教わったというお前の傭兵戦術も、年老いたお前じゃ完全には使いこなせない。装備も、技術も、体力も、まだ若いオレの方が上だ。経験値の差も、以前ほどではない。ベテランぶるなよ、マルコ。かつて師匠だった男よ。
お前の戦術はオレに全て引き継がれているんだ。
お前は、オレからエリーゼを誘拐することなど出来ない。
邪悪なまやかしに、オレの娘を捧げることはさせん―――。
ただただひたすらに、土砂降りに曇るフロントガラスの先をにらんだ。瞬きを忘れる。怒りのせいで。
……マルコがこんなことをしたのは。オレが君のことを守れなかったからだろうか。だから、オレからエリーゼを奪ったのだろうか。悲しみを共有できていたと感じていたが、それは間違いだったのかもしれないな。
邪悪なことをしている。
オレから娘を誘拐した時点で、すでに悪党もいいところだが、もっと深みのある邪悪をヤツは選ぼうとしているはずだ。歪んでしまった正義や善意、とっくの昔に邪悪と評価され糾弾すべきモノにまで堕ちた行為を……マルコはやろうとしているんだろう。
「……ふざけるな……ッ」
許さんぞ。オレたちの不幸を、これ以上、冒涜するな。
怒りながらも、訓練された運転技術を体は実行する。最善な動きを組み立てて、車を使いこなすのだ。それでいい。ここから国境越えの道など、一つだけ。機能で上回り続けておけば、曲がり角を通過する度に追いつく。
……何十分も。
何時間も。
追いかけ続けるぞ。お前のポンコツは給油しなくちゃならないだろうが。こちらは給油する前に、追いつけるぞ。ついさっき、ガソリンを流し込んでやったばかりだ。
ドルルル!とうなり声をあげてエンジンは強さを示してくれる。心強いな。お前の車はどうだ?……整備して部品を交換したところで。お前の犬は老いているんだぞ。
走る。
走った。
追いつき、奪い返すために。
こんな寒い雨の夜に、うちの娘を誘拐したバカの車は―――闇の中で真っ黒だった。
でも、見えたよ。
病院から二時間と二十分の追跡。予想よりは早く追いつけた。給油所で店員とモメてしまったのか。包帯面は、あまりにも怪しいし、イタリアなまりのしわがれ声は聞き取りにくい。
……クラクションを鳴らす。
何度も、闇を揺らして……ライトのなかで走り続けるマルコの車を威嚇した。命令しているんだ。
「とっとと止まれ、包帯野郎。逃げられるはずがないだろうが……ッ」
あきらめが良い男ではないが、焦った運転の果てに事故ってしまう気もないようだった。マルコの車は、やがて林に囲まれたまっすぐな道の途中で止まる。路肩に寄せてな。丁寧な紳士的な運転者であるかのように。
なるほど。
誘拐犯よ。お前にとっても、オレのエリーゼは大切らしい。良いコトだ。その子に傷をつけるな。その子は長い間、苦しみ続けているんだから。
ドアが開いた。包帯顔の老人が現れる。久しぶりに見た姿は、また一段と小さくなったように見えた。こちらを見る。老いた瞳だ。だとしても鋭さまでは欠けちゃいない。
「逃げはせんぞ。アレク・レッドウッド!……そこから出て来い!!ワシは、自分のすべきことを成し遂げる!!」
ククリナイフ。狂暴なグルカどもが使うインド産の曲がったナイフ。それをスーツの下に忍ばせていたか。いつもの装備だな。古臭いが、お前らしい。靴も靴下も脱ぎ捨てて、老いた指で地面を掴むか。それも、いかにもなことだ。
車から降りたよ。土砂降りを浴びる。冷たいな。ちょうどいい。殺し合うんだ。かつて世界屈指のナイフの使い手だった男とな。体は熱を帯びることになる。今よりもずっと。
「……ワシを殺す気だな、アレク」
「当然だ。アンタから獲物を奪い返すには、言葉では足りないだろう」
「ワシにとってあの子は獲物か。うむ、そうだな。そう考え込むがいい。父親らしく、大切に扱え」
「言われるまでもないさ」
「そうだろうかな。ならば、どうして……闇に堕ちん。その覚悟に二の足を踏む」
「邪悪な道を歩むべきではないからだ」
「邪悪であろうとも、道ではある」
「いいや。偽りだ。アンタがしようとしていることは、邪悪な上に、偽りだ」
「マリアの娘だ。可能性はある。マリアをも超える、すさまじい才能を持つ霊媒体質なんだぞ」
「可能性?……ないな。無意味に動くだけの、しかばねに過ぎんモノに、アンタはオレの娘を変えちまおうとしているだけだ」
「完全な死よりはいい」
「力と狂気を抱いた全ての者が、その道を選び。全員が失敗した」
「ワシたちがそうなるとは限らん。いや……それでも、今にも死にそうなあの子を―――」
「―――バケモノにすることを。助けるなどとのたまうなよ、死にぞこないのクソジジイがッッッ!!!」
動いた。どちらが早いかが分からないほどには同時にな。
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