樹洞
朝。いつも通り内務省にロンを送り届けてから塔に向かう。しかし今日は登らずに下る。地下で作業のある日だった。ロンには塔の地下の話はしていない。単に職務上の機密事項だから、という理由もあれば、この手の汚れをロンに知られたくない気持ちもあった。知ったらロンは何というだろうか。真面目な彼女は怒るかもしれないし、軽蔑するかもしれない。聡い彼女だから理解を示すかもしれない。どう転ぶにせよ、幼い彼女の悩みの種になるようなことを知らせたくなかった。
「アデール、検体の様子はどう?」
「今のところ大人しくしているわ。ただ時折眼球の動きが見られるから油断はしないで。鎖も弱めないほうが良さそうよ」
エメは手を動かしながら小さく頷く。私たちのしていることは論理的に言えば完全にアウトだろう。しかし彼らの犠牲により(尊い、などとは口が裂けても言えないけれど)克服された病や怪我が多いのも事実だし、他の省庁、特に保健省などはここでの実験の結果を踏まえて手洗いうがいなどの衛生観念マニュアルを作成している。この国の基幹に関わる人物で"塔の地下"を否定できる人物などいないだろう。
人間の病気や怪我は、私みたいな魔法使いが杖を振るえば一瞬で治るものが多い。しかしそれではダメなのだ。何故なら魔法使いは絶対的に人数が少ない。ちょっとした怪我くらいであれば人間は自分の力で治せる。そのことを我々は地下で発見し、治す方法を確立して保健省および各省庁と共有する。そうすることで国全体の死亡率を下げ、国力の上昇に貢献するのだ。
手を汚しているのが我々、技術省の一部の人間だけであることを不満に思う人はたぶんあまりいない。まず技術省以外の人間はおこぼれをちょうだいするだけだし、技術省の中でだって、そういうことに不満を持つタイプの職員は地下での仕事を任されないからだ。手を汚すことを厭わず、将来の国の礎となる。たとえばガスパルなんかはそういうことに興奮するタイプの変態だし、エメは仕事だと割り切り、かつ手当てがしっかり出れば問題なし、の良くも悪くも大人のお姉さんなのでこのようにキビキビ職務に当たっている。
では私はどうだろうか。私は元々魔法を汎用性のある技術に変換するために雇われている。そのジャンルを問わないだけだ。まあ給料もいいし、生活は仕事と併せて保証されているし、不満を言える立場ではない、ということもある。一応エティエンヌ王の友人という名目のもと王宮内に部屋をもらっているので、私が不平を漏らすとややこしいことになる、ということもあり待遇はなかなか良い。故に多少の汚れ仕事くらいは我慢する所存である。
それに私が地下で働く利点の一つに人間と魔族の共存の基礎ができる、という点もある。今まで病気や怪我の悪化は魔族による呪いだなんだと言われていた。しかしそうではないことが徐々にわかってきている。魔族が関わろうが関わるまいが、人間は熱を出したり病に侵されたり、転んで怪我をしたりするのだ。それを発見できて、かつ正しい情報を市民に共有できるのは私だからできることだと思っている。問題は教会に嫌われたことくらいだが、それで困ることはないので放っておく。
「エメ、様子はどうかしら」
「うーん、いまいち。思ったより効き目がなさそうね」
「残念だわ。でも確かに眼球の動きが弱まってきたようね。……ここまでかしら」
検体が息を引き取り今日の実験は終了だ。地下にも入浴施設を設置してあるのでエメと汚れを落とし今後の予定を決めてから地上に戻った。
ロンは今日は図書館に行くと言っていたのでそちらに向かう。今日の失敗の原因を考えながら歩いていると中庭にエロワ王子が座っていた。
「アデール」
「こんにちは、エロワ王子。こんなところでどうしたの」
エロワ王子はきまり悪そうにそっぽを向いている。その手元に見覚えのある栞があった。
「あれ、それ。ロンがくれた栞?」
「え?」
「私も同じものをロンにもらったのよ」
そう言って持っていた栞を見せると彼は困惑したような少し泣きそうな顔になった。
「……。俺にもヴェロニクがくれたんです。でもどうしていいかわからなくて」
「どうっていうのは?」
「俺、あいつに嫌なことばっか言ってるのになんで、何でもない風にしてくるんだろとか。これもくれたけど、そのことを俺はなんにも言えてないし。向こうも言ってこないし」
エロワ王子が何を言いたいのかはさっぱりわからないけど、分かったのはロンが彼よりも落ち着いた態度を見せていることと、それで彼が余計に困惑していることだ。あとはあれか、たぶんお礼を言えていないのが育ちの良い彼としては気になるのね。
「今は無理でもその内言えばいいんじゃない」
「そう、かな」
「別にロンはあなたがお礼を言うかどうかは気にしないでしょうし。でもあなたは言わないでいるのが嫌なのでしょう。それなら言えそうなときに言うか、手紙でも書くのね」
エロワ王子は困った顔のまま頷いた。結局のところ彼の問題は彼がどうにかするしかないのだ。私はそれでは、と別れを告げて再び図書室に向かう。彼の寂しそうな視線は気付かなかった。
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