第28話 波乱①
悟が目を覚ますと、眩い白い蛍光灯の光が差し込んだ。
いつの間にここに運ばれたのか、記憶がぼやけていて鮮明に思い出すことが出来ない。
ふと、自分の手に残る微かな詩の香りが、悟の朦朧とした意識を引き戻した。
「―――詩!」
悟はベッドから飛び起き、素足のままカーテンの外へと出た。
外へ出ると、まず目が合ったのは白衣を着た保健師であった。
「あら、起きるのが早いのね。男の子って元気でいね」
「あ、あの、詩は……」
「あぁ、彼女?安心して、彼女ならまだ寝てるわよ。相当精神的に参ってたみたいね。まだ寝てるみたいだからそっとしておいてあげなさい」
そういうと、保健師はコーヒーを口につけ、机の上でまた書き物を始めた。
あたりをよく見渡すと、悟にはこの場所に覚えがあった。
小綺麗に改装されていたせいで最初はわからなかったが、どうもここは警察署の中にある医務室であった。
悟がここに見覚えがあるのには理由があった。
2年ほど前に、悟をいじめていた空手部の先輩を慎之介がボコボコにした際も、ここへ運ばれたのだ。悟も慎之介もお互い怪我をし、ここで軽い治療を受け、事情聴取されたことがあった。
懐かしい記憶に浸っていると、ガチャリと医務室の扉を開ける音がした。
「おぉ、遠野!目が覚めたか!」
入ってくるなり、でかい声を上げた千葉を保健師が小突く。
「すまんすまん、体は大丈夫か?」
「はい、なんとか……」
「早速で悪いんだけど、事情聴取だけさせてくれないか?やらねぇと仕事が終わんないんだわ」
「あ、あの!」
「なんだ?」
「あの後どうなったんですか!それに慎之介は!」
「それも含めて話するからよ、ちょっとついてこい」
そういうと千葉は悟に肩をつかみ、そのまま医務室の外へと出た。
途中、千葉が自動販売機の前で止まり、「何か飲むか?」と聞くので、悟は甘ったるいカフェオレを選択し、千葉はブラックコーヒーを買った。
缶の中を空にし、悟たちはベンチから立ち上がると3階にある取調室へと向かった。
取調室は、真ん中に対面できる大きな机と椅子が置かれており、非常に簡素なつくりとなっている。
悟と千葉はそこにゆっくりと腰を下ろした。
「運がよかったな、ギリギリ間に合ってよかったよ」
「今何時ですか?」
「今は……おっともう10時30分だな」
「俺、結構寝てたんですね」
「しょうがないだろ。まぁ、お前から聞くことは状況のことだけだから安心しな」
それから悟は千葉にホテルへの突入化から脱出までのことを事細かく話した。
実際、慎之介と悟は別の側面から見れば加害者となる。
友人を助けるためだとしても、他人の骨を折る重傷を負わせているのだから、本来何らかのお咎めがあるはずなのだが、相手は相手でナイフを持っていたこと、明確に怪我を負わせる意思があったことが状況と取り調べで分かったため、千葉が正当防衛として処理してくれていた。
「ま、厳重注意ってことで学校には連絡しておくよ。ただ問題なのは……」
「問題?」
「あぁ、今回の発端となった出来事についてだ。あらかた聞いてるか?」
「いえ……それについては……」
「じゃあ俺の口から話してやる」
千葉は煙草を一本取り出し、「ふぅ」と煙を吐き出し、淡々とこれまでの経緯と時系列は話し始めた。
発端は梓に売春を持ち掛けた50代の男であった。
ホテルに連れ去られる直前、悟がその場面に出くわし間一髪で連れ出したのだが、問題はここからであった。
連れ去られる梓と手を引く悟の様子が、偶然にも2枚撮られたのだ。
1枚目は例の男。2枚目は北条 香奈であった。
男が撮ったであろう写真を見せてもらったが、悟と梓の走り去る後姿が写っていて、それは不鮮明であり、少しばかり姿もぶれていた。
これは男が慌ててシャッターを切ったせいだろう。
そして2枚目の北条香奈が撮った写真は、教室の黒板に貼りだされた写真であった。
それは無法区を出た直後に立ち止まる2人の姿で、顔と服装が鮮明に映っていた。
男は売春を断られたことに腹を立て、ネット上に写真を掲載し、「この写真に写る人物を教えてくれ」という旨の投稿をした。
それを偶然見つけた北条 香奈がそれが「遠野 悟と有栖川 詩」であると返信し、自分の撮った写真も添付したのだ。
それを知った男は、その写真を仕事依頼という名目でこの辺りを根城としている不良グループに裏掲示板で持ち掛け、今回の誘拐騒動となったらしい。
ざっくりとした経緯ではあったが、大体は裏が取れているということを千葉はいい、あと残っているのは事情聴取だけだといった。
例の仕事依頼をした男は暴行教唆、不良たちは誘拐・監禁の容疑が下されているため、処分は言わずもがなだが、千葉が対応に困っていたのは北条 香奈であった。
「うちにはサイバー課なんてものはないから、どうしたらいいかわからんのだよ。個人情報の流出という点ではそこを詰められるかもしれないが、特段大きく物事をしでかしたわけでもないから、こういう場合は厳重注意だけでいいものなのか……」
千葉は困った顔で「ふぅ」と天井に煙を漏らした。
悟の思考は意外にも冷静だった。
以前の悟であれば、今回の騒動の元凶は北条香奈にあると騒ぎ立てていただろう。
だが、彼の思考は経験によるものなのか、俯瞰的な視点で見下ろすことができた。
北条香奈がどういった経緯で詩を嫌っているのかを悟は知らない。
確かに原因の一部ではある。それに、真に悪いには実行犯である不良と売春を持ち掛けた男である。
それら事件は、表面上、法律によって裁くことは出来るが、それらを取り除いたところで、また同じ過ちが起こらないとも限らない。
悟は原因はもっと根深いところにあるんだと感じていた。
恵と慎之介の事情聴取もある程度済んでいたようで、あとは詩の回復を待つだけであった。
すると、千葉のスーツポケットの中で携帯が鳴りだした。
「ちょっと待っててくれ」
そういうと、千葉は「もしもし」と言いながら、取調室の外へと出た。
無機質な静寂に包まれた密室で、悟は今日の出来事を思い出していた。
あまりにも自分が自分でないような感覚、自分という人間を主人公に投影した漫画を読んでいる感覚が最も近いと言えばよいのだろうか。
そんな例えをしてしまうほどに、悟は自分の起こした行動が未だに信じることができなかった。
今まで慎之介の背中しか見たことがなかったのに、まさか背中を合わせる日が来るなんて思ってもいなかったのだ。
悟は中学まで空手を習っていたので、決して弱くはなかった。
それは彼自身も知っていた。だが、心はそうではなかった。
悟は「傷をつける」ということを酷く恐れた。
それは彼の本質である優しさからくるものだから仕方ないと、彼はそれを納得してしまっていた。
「僕がいじめられるのは優しいから」、「僕が口答えできないのは優しいから」、「僕がやり返せないのは優しいから」
親にも学校の先生にも「優しくありなさい」と散々と言われた。
だが、彼に「優しさ」がなんであるかを教えてくれた人は誰一人としていなかった。
「優しさ」を履き違えた僕は、その「優しさ」によって自分の矜持が傷ついたことを他人のせいにしていた。
自分のその足でそれを踏みにじっていることから目を背けながら。
悟は今日初めて人を殴った。
たった一人の自分の好きな人を助けるために、自分の命など顧みずにその拳を振るった。
「これで……よかったんだな」
悟は天井に息を漏らすように、言葉を吐いた。
すると、取調室の扉がガチャリと開いた。
「おい、悟。外出ていいぞ」
千葉は手招きをした。
そのまま取調室を出て、3階からエレベーターに乗って下に降りていく。
1階まで行き、悟は待合室の前まで来た。
「ちょっとここで待っててくれ」
待合室の扉を開けると、そこには慎之介、恵、香奈、そして梓の姿があった。
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