第29話 波乱②

「悟……!」


 彼の姿を見るなり、梓が涙目となり、駆け寄って抱き着いた。

 梓の華奢な腕は震えていた。


 最初は悟もそんな梓の行動に驚いたが、彼の胸の中でなく彼女の姿がどうも愛おしくて、ため息をつきながら「大丈夫だよ」とその頭を撫でる。

 幾分かその状況であり、その空気に居ずらくなったのか、恵がコホンと咳をした。

その咳払いに2人は正気に戻り、顔を赤らめながらお互いの体を離した。


「お帰り悟。私たちも途中までライブでみてたわよ。途中でライブが切れたから心配したけど、怪我がなくてよかった」

「ははは、悟はなんだかんだで丈夫だからな」


 慎之介は恵の心配をよそに大声で笑った。

 誘拐事件後だというのに呑気な奴らだと悟も笑ったが、ふと目線を映すと、一人だ け青い顔をして落ち込んでいる香奈の姿があった。


 その姿はとても居心地の悪そうな雰囲気を醸し出していて、バツの悪い顔をしている。

 それを見かねた悟はため息をつく。


「なぁ、北条。いつまでそうしてるんだ?」

 香奈はビクンと体を震わせる。


「いつまでって……わからないわよ」

「わからないってなんだ」

「しょうがないじゃない、わからないんだもん」

 相変わらずに悟と香奈の間には見えぬ壁があった。


「まぁまぁ、悟。とりあえずさ、ここでいがみ合って立ってしょうがないんだから落ち着きなよ。千葉刑事にも色々言われて反省してるみたいなんだからそれ以上責めないで上げて?」


 恵が悟を宥める。

 悟もまた千葉から話は聞いていたために、それ以上事の追及をすることはなかった。


 そんな空気の中、ガチャリと待合室の扉が開く。

 そこには千葉の姿があったが、その後ろにはそこには少し疲れた顔をした詩が立っていた。


「おねぇちゃん……!」

 梓は詩の顔を見るなり涙目となり、千葉の体の横を無理やり通って、後ろにいる詩へと抱き着いた。


 それから梓はわんわんと泣いた。

 詩もつられてわんわんと泣く。


 過去に縛られ錆びたた鎖がお互いの愛の涙で溶けていく。

 ただ普通の姉妹でありたいと願った2人の姿がそこにはあった。

 微笑ましく見守る悟であったが、まだ大きな鎖が一つ繋がっていることが気がかりとなっていた。


 最も太くて硬い鎖。

 それがゆらゆらと動き始めたかと思うと、ぴんと緊張するように張っていく。


「おい、悟。お前の出番だ」

 誰かがやさしく耳元で囁いた気がした。

 待合室の外へみんなが出ると、正面入り口から大人のシルエットと思える2人の姿が見えた。


「お父さん……お母さん……」


 詩がぼそりと呟く。悟は唾をのんだ。

 これらの騒動が本質、すべての元凶となるものが、この鎖の先、つまり彼女らの両親にあった。


 父親は高そうなスーツ姿に眼鏡をかけていて、同じく母親もスーツ姿であった。

 どちらも仕事が終わってから駆け付けたらしく、すでに時刻は23時を過ぎようとしている。


 その2人は距離が近づくにつれ、小走りとなっていく。

 そしてその勢いのままに詩へと抱き着いた。

「怪我がなくてよかった、本当に良かった」と涙ながらに詩の母親と父親は彼女を抱きしめる。


 一見、微笑ましい場面ではあるが、悟にはおぞましい醜悪が映っていた。

 その姿を悟の後ろに隠れながら梓は指を震わせながら見ていた。

 すると、父親が立ち上がり2歩3歩と進んだかと思うと、悟の前に立ち、彼を見下ろす。


 悟の身長も173センチほどあるが、彼女らの父親は180センチほどもあった。

 その威圧は、悟の心臓をぎゅっと冷たく掴む。


「お前か、詩をこんなことに巻き込んだのは。それに梓、お前にはつくづく失望したよ」


 そう吐き捨てるなり、手を振り上げた。

 そのままそれが勢いよく振り下ろされたかと思うと、バチンという音を立て、悟の頬に痛みを走らせた。


 だが、それに怯みもせず、悟は梓を庇う。

 梓は悟の後ろで「ごめんなさい、ごめんなさい」と呟きながら泣いていた。


 あまりの唐突な光景に、皆の動きが止まる。

 ただ一人、悟だけは違った。

 その目はただ真実を見つめていた。


「おい、なにやってんだ!」

 千葉がその様子に驚き悟に駆け寄ろうとするが、悟は手を出し制止させる。


「いいんだ、千葉さん」

 悟は叩かれた頬を気にすることなく、痛みを奥歯で噛み締める。


「お前が……、娘たちを誑かして……!」

 父親は、もう一度手を振り上げたかと思うと、それを思いきりまた振り下ろす。

 バチンという鈍い音だけが、通路に反響した。


「おい、気は済んだか」

 悟は赤く腫れあがった頬を気にすることなく、父親を睨みつける。

 悟が一歩前へを踏み出すと、その一歩にたじろいだのか、父親は一歩後ろへと下がった。


「自分より力がないやつをいじめて何が楽しいんだ」

「いじめてなんてないだろう!」


「あんた、本当に父親なのか?なんでもかんでも他人のせいにして、挙句の果てに自分の娘のせいにまでするのか。見てて呆れるよ」

「なんだとこのガキ……!」


 父親の怒りは頂点に達し、もう一度手を振り上げる。

 その手は平手などではなく、拳を握っているのが見え、悟は思わず目を瞑った。


 拳が飛んでくると悟は覚悟したが、一向に痛みが来ない。

 ゆっくりと目を開けると、その拳は振り下ろされる前に千葉に止められていた。


「おいおい、警察署内で暴力沙汰なんて、お前さんいい度胸してるな。それに聞いてりゃ、児童虐待の線もあるじゃねぇか?ええ?」

 今まで悟や慎之介の前では見せることのなかった千葉の鬼のような形相に思わず悟は身震いをする。


「いや、そんなつもりでは……」

「本来なら悟をぶっ叩いた時点でお咎めだが、悟がそれを許してるんだ。頭でも下げて感謝するんだな」


「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだ!そもそもこいつのせいで……!」

「ふざけるな!」

悟の感情の沸点がついてに頂点に達する。


「どれだけ梓と詩が怖い思いをしたと思ってるんだ!それになんだ!子供を物みたいに扱って!何が親だ!」

「なにを……!」


「あんたらのもとにいるぐらいなら、俺が梓と詩を連れていく!俺がお金稼いでなんとしてでも養っていく!あんたらのところにいたら、いつまで経ったって梓と詩が不幸なままだ!」


 悟は唾を飛ばしなら大声を上げる。

 もはやそこに格好をつけた思春期の彼の姿はない。

 ただ好きな人のために愛することを突き通した男の姿がそこにはあった。


「もう……いいよ、悟。私が全部悪いんだって。だから、ね?もう、十分だよ……」

 悟はその声に冷静となり、後ろを振り向くと、そこには涙を流しながら笑う梓の姿があった。


 彼女の姿が悟の記憶を走馬灯させる。

 その記憶が彼女の笑顔を嘘だと叫んだ。

 悟の中で、黒い感情がどろどろと蠢いていく。


 好意という理性だけではもはやそれは抑えきれないほどに成長し、それが体中に駆け巡っていく感触を悟は覚えた。


 手のひらを強く握りすぎたせいか、皮がめくれ、血が滴る。

 もはや悟に痛みなど感じる余裕すら残ってなどいなかった。


 彼の理性の最後の一線が切れようとした瞬間、するりとポケットからスマホが滑り、大きな音を立てて床に落ちた。

 画面が明るく表示されると、そこには以前、梓と詩が家に来た時に隠し撮りしたソファーで2人が仲良く眠っている写真が待ち受けとして表示された。


 その画像が目に映った瞬間、悟の中のドロドロとした黒い感情が一気に吹き飛ぶ。

 たった今、ここで暴れたところで、きっと誰も助からないし、誰も救えない。

 きっと、「こんなことになるんだったら好きにならなきゃよかった」と思ってしまう。


 そんなお粗末な最期は誰も期待などしていない。

 自分が守りたいと想った人のためなら、自分の誇りなど天秤にかけている場合ではないのだ。


 悟は顔を上げ、ゆっくりと片膝を床につける。

 そして、もう一方の片膝をも床につけ、最後に両手をつけた。


 彼の手のひらに、冷たい感触と埃のざらざらとした感触が触る。

 悟は覚悟を決め、大きく深呼吸をした。


「俺は、詩と梓を幸せにしたいんだ。だから……これ以上彼女たちを傷つけないでほしい」


 震える口で言葉を紡ぎ、そして地面に頭を擦り付けた。

 悟が土下座をしたことに、思わず父親が後ずさる。


 悟はひたすら「お願いします」と大声で叫んだ。

 すると、彼の横に慎之介が歩いていき、そして同じくして土下座の姿勢を取る。


「俺も悟も命がけで2人を助けました。あんた親でしょう……俺たちみたいなクソガキがあんたの娘を助けて、なんであんたらが感謝の一つもできないんだ。だけどそれでも腐ってもただ1人の親なんだ。だから……彼女たちから未来を奪わないでくれ」


 慎之助は深々と土下座した。

 その様子に詩は母親の手を振り解き、梓の元へと向かう。


「お父さん、お母さん。私、梓といられないならもうあの家に帰らない。もう私は親の人形じゃない」

 詩ははっきりとした口調で両親に告げた。


「詩……そんなこと言わないで……」

 母親がその様子にしくしくと泣いている。

 詩は態度を変えることなく、ただ毅然としていた。


「いいのか?こんなガキどもにここまでさせて。俺は赤の他人だからどうこう言わねぇけど、同じ大人として情けねぇぞ。俺たちはガキを守る仕事してんだ。よっぽどこいつらのほうが大人だぜ?守られてんのはどっちなんだかな」


 千葉は腕を組みながら呟いた。

 そのため息は、夜の淀みへと溶け込み、じんわりと空気を重くした。

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