第3話 いつもの日常と淡い期待
次の授業は数学で、小テストがあるということもあり、予習をしなければととっとと彼は自分の机に戻る。
ふと隣を見ると、詩は綺麗な姿勢で本を読んでいた。
小テストの予習もしなければいけないのだが、ついその姿が気になり、悟は教科書を広げながらも横目でちらちらと覗いた。
「あ、有栖川さん」
悟は緊張気味に呼びかける。
「どうしたのですか?」
詩は優しく微笑んだ。
「本……読んでるんだね。なんの本読んでるの?」
「これですか?」
そういうと、彼女は自分の読んでいる本の白い革製のブックカバーを外し、ぺろりと表紙を見せる。
そこには"羊と鋼と森"というタイトルが書かれていた。
「それ何の本?」
小説を読まない悟にとって、未知の本であるそれに疑問符が浮かぶ。
「調律師の話ですよ」
「調律師?」
「ピアノの調律……つまりピアノの音階とか弦の張りとかを調整する職人のかたたちのことです。その方々を描いた小説ですよ」
「ふーん」
悟はうんうんと頷きながらも、これっぽっちも興味が湧いてこなかった。
何分彼には、文学的な感性や、美的センスというものは未熟であり、それを嗜めるほどの精神年齢に至っていないせいか、面白そうという言葉が口から出てくることはなかった。
すると、キンコンカンコンとお昼休みの終わるチャイムの合図がした。
悟は結局小テストの予習も出来ないままに、数学の授業を受けることとなった。
幸い、さほど難しいテストではなかったために安堵はしたものの、これらのテストの正答率は成績に関係する。
悟は大学進学を考えているが、自身の家庭に金銭的余裕がないことも知っていたため、一般受験を視野に入れながらも、高校での進学推薦枠も考えていたため、評定平均を落とさずに上げておく必要があった。
それというのも、悟はもともと公立高校の受験を考えていたが、幼馴染の恵と慎之介がそろって私立高校の進学を決めるものだから、それにつられて受験をし、合格した。
進学校とまでは言わないものの、偏差値も60近くあり、それなりに県内でも有名な高校であったため、悟の両親は渋々了解をした。
だが、大学進学となると話は別で、受験にあたって多額の費用が掛かることから、予備校には通えるほどのお金はないから推薦もきちんと視野に入れなさいと彼は両親から釘を刺されていた。
4限目の数学が終わり、5限目は現代社会も悟は眠たい目を擦りながらもなんとか授業を終えた。
ホームルーム後、特に予定がない悟は帰り支度を素早く済ませ、机から立ち上がる。
すると、「遠野くん」と呼び止める声が聞こえた。
「ノート……明日返します。今日は借りててもいいですか?」
そこにはもじもじと俯きながら顔を斜め下に逸らす詩が立っていた。
その可愛さのあまり、悟は硬直する。
緊張のあまり声が裏返りそうになるが、それをなんとか理性で抑えた。
「だ、大丈夫だよ。気にしないで」
「ありがとう!」
詩は俯いた顔を上にあげ、きらきらとした表情で微笑んだ。
悟は思わず詩から顔を逸らす。
決して嫌いとかそういうわけではなく、恥ずかしさのあまり直視できないのだ。
それほどまでに美少女の笑顔の破壊力はすさまじく、一瞬にして彼の恥ずかしさはピークに達した。
それからというもの、悟はすぐに校舎を出て、駐輪場に止めてある自転車に乗ると、とっとと帰路についた。
家の鍵を開け「ただいま」と呟くが返答はない。
いつも通りの光景に何も感じることはないが、誰もいない薄暗い家の中というのは少しだけ寂しさと不気味さを覚える。
悟は靴を綺麗に脱ぎそろえ、そのまま2階の自室へと上がった。
カバンを机のわきに置き、制服姿のままゴロンとベッドに横になる。
「はぁ」と息を漏らし、白い天井を見つめると、ふと詩の顔が思い浮かんだ。
『女子の間だとあんまりいい噂聞かないよ?』
恵が言った言葉が耳にこびりついて離れない。
男というのは馬鹿な生き物で、女子の容姿や性格を表面でしか見て取れない。
だから、簡単にころりと騙されてしまう。それが男だ。
悟は詩と二言三言しか話をしていないが、とても「評判が悪い」などと囁かれるような人格には到底感じることが出来なかった。
彼の頭に疑問符がわく。
恵は友人の話を聞いてそういっているわけだし、その友人が嘘をついているとも思えない。
事実、詩はお昼休みを毎日一人で過ごしているし、登校も下校も一人である。
たまたまなのかもしれないが、入学して1ヶ月の間、彼女が誰かと仲良く話す姿を悟は見たことがないために、恵の友人の北条 香奈が言っていることもあながち間違ってはいない。
悟は溜息を漏らした。
どこかのお姫様のような容姿の詩と話せたことについ浮かれてしまったが、それにつきまとう影というものが本当か否かという事実の靄が、いっそう悟の好奇心を掻き立てた。
まずは詩と友達になろう。
悟はそう決心すると、ベッドの上で目をつむり、すうすうと寝息を立て始めた。
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