第3話 彼女の都合
「ジル様」
ジルが今日のマサトへの教育を終え、部屋に戻る途中。彼女に話しかけてくる者がいた。
「あら。どうしたのリィ?」
彼女にとっては見知った相手である。いつも雑務を任せている小悪魔のリィであった。長い紺色の髪と先っぽがハート型になっている悪魔の尻尾をゆらゆらと揺らしながら、ジルの方へと近づいてくる。
耳の上の辺りには小さめの蝙蝠の翼のようなものが生えており、ジルからの返事にぴょこっと反応した。
「その、お聞きしたいのですが……何故あんな異世界の人間を教育するような手間を? ジル様も夜魔なんですし、洗脳なり魅惑なりで意のままにしてしまえば早いのでは?」
夜魔とは、魔族の中でも洗脳や魅惑といった生き物の意識を惑わせる術を得意とする魔族だ。リィのような小悪魔の上位種といった存在でもある。
リィはジルがあの異世界から呼び寄せた人間にそういった手っ取り早い手段を使わず、わざわざ教育するという手間をかけていることに疑問を持っていた。
「そうできたらいいんだけどね……あの人間、魔王様の魔力の素であるオドを引き継いだままなのよ。おかげでこちらの魔法やそういった術が効かなくてね」
「そ、そうだったんですか!?」
驚いたリィは開いた口元に手をやる。オドとは生物の体内に流れる、魔力の素のことだ。魔族は皆、このオドを魔力に変換して魔法を行使している。
「全く効いていないことはないと思うんだけど、あんまり効果なさそうなのよ。あの人間が起きる前に色々試したんだけど、無駄だったわ。逃げないように監視用の首輪もつけてるけど、あれも油断したら壊されそうだし。
最悪、前魔王様が扱っていた黒炎すら使える可能性が……とりあえず、このことは秘密にしておいて頂戴。周りや、特に本人に悟られるといろいろと面倒だから」
「わ、わかりました……」
人間が魔王の力を振るえるなんて知られたらとんでもないことだ。
これでそれを自覚したあの人間が、人国側につかれでもしたら……という恐れの気持ちが、リィの心の内に湧き上がってくる。
こうした秘密事項を共有してくれる上司が自分を信頼してくれていることは解るのであるが、少しばかりこの秘密は重過ぎやしないかと、リィは感じた。
「だからこそ、その力に気づかれないように必要以上に厳しくして、こちらを恐れてもらうようにしてるんだけど……まあ、今は怯えてキチンと勉強してくれてるし。割りかし物覚えのいいタイプの人間だったから、まだマシね……今後、貴女にお願いすることもあると思うから、その時はよろしくね」
「わ、わかりました……でも、一般の魔族の方々への説明はどうしましょうか。一時的とはいえ、まさか人間が魔族を従えているなんて言えませんし……」
「そこは隠しておきましょう。どうせそのうち魔族になるんだから……」
どうせそのうち魔族になるんだから、という言葉に、リィはピクッと反応した。
その際にふと、ジルのスーツの袖口から黒い痣のようなものが見えて、芽生えた疑惑は確信へと変わっていく。
リィは内心でそうだと解りつつも、まさか、とも思っていた。
「……人間を魔族に変える禁呪まで使ったんですか?」
「そうよ。いつまでも人間が魔王って訳にもいかないでしょう? なら、人間を魔族に変えてしまえばいい。種族を変異させる禁呪が早く進行するように定期的に薬も入れてるし、その内に終わるでしょう。
禁呪の進行で身体に深刻なダメージがあるみたいだけど、その辺も適当に誤魔化しておいたし……」
ふう、とジルはここで一息をついた。
「意味は解るのですが、だとしたらその痣……」
「そうよ……くっ!」
すると突然、ジルはうずくまった。自分自身を抱きしめるように手を回し、ジルは苦しみもがいている。
「あ、あああ……っ!」
「ジル様っ!?」
慌てて駆け寄ったリィが見たのは、先ほどチラリと見えたジルのスーツの袖口から覗く黒い痣が、まるで生きているかのように蠢いている様子であった。
「はーっ、はーっ、はー……だ、大丈夫、よ……」
汗だくになり、今にも死にそうなくらい青白い顔をしながら、ジルはそう呟いた。
「わ、私の魔力で強引に抑え込んでやれば、このくらい……っ!」
ジルの身体が緑色に光り、まるで血管が浮き出てきたかのような模様が顔や手に現れる。
魔族が血液と一緒に身体中に運んでいるオドを魔力に変換して意識的に動かし、痣の侵食を食い止めようとしていた。
「はーっ、はーっ……」
「じ、ジル様ぁ……」
少しして、乱れていた呼吸も整ってきたジルは、再び立ち上がった。
顔や手に出ていた魔力の流れも見えなくなり、彼女は額に伝う汗を袖口で拭っている。
「……大丈夫、抑えたわ」
「……本当に大丈夫なんですか?」
禁呪と呼ばれる魔法はその効果こそ絶大だが、使用者に大きな代償がかかるデメリットもある。だからこその、禁じられた呪いだ。
リィは先ほどのジルの様子を見ても、その代償がとんでもないものであることがありありと解った。
「……今のところはね。ただ、少しでも隙を見せると、さっきみたいに痣に食い殺されそうよ。ただでさえ異世界召喚とか言う大禁呪の補佐までしたってのに、また禁呪に手を出す羽目になるなんて……流石に、もうこれ以上は使えないわね……」
そんな禁呪を、一度目は補佐だけだったとはいえ、ジルは二回も使用しているのだ。
流石に心配になってきたリィは、おずおずと声をかける。
「……その痣って、解呪したりとかは……」
「出来たら禁呪なんて呼ばれてないわよ。ホント、いい迷惑だわ……」
ふう、とため息をつく上司を見て、リィは少しでも気を紛らわそうと、笑い話をすることにした。
身体はどうにもできないかもしれないが、せめて気分だけでも良くなってもらいたい、という思いだ。
「……そ、そうだ! 聞いてくださいよジルさん! この前彼がですねー……」
「……なあに。また彼氏の愚痴?」
いつもの話か、とジルも顔に笑みを浮かべる。仕事からプライベートまで付き合いのある彼女たちの、鉄板ネタである。
笑ってくれた上司に安堵しつつ、リィは話を続けた。
「そうなんですよ! この前彼とベッドインした時なんですけど、彼がなんか変なプレイを……」
「はあ!? 何言ってんのよ!?」
冗談で笑ってもらおうと気を使ったつもりのリィだったが、何故か怒鳴られてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
反射的に謝るリィだが、今のところ何故怒られたのかが解らない。
いつものように愚痴るつもりだったのだが、言い方が悪かったのだろうかと考えていた時に、ジルが声を上げた。
「あなた付き合っている彼ともうシテる訳!? 信じられない! 結婚もしてないのに肉体関係なんて破廉恥じゃない!」
(……この人、結構いい年なんだけどなぁ……)
そこかよ、とリィは内心で突っ込んだ。
「いい! 貴女は何となく付き合い始めたかもしれないけど、普通はちゃんと文通からやり取りを始めて、お互いのことをよく知ってから直接会うのよ! いきなり二人きりなんてダメよ! 男はオオカミなんだから! 共通の知り合いと一緒に会って、徐々に仲を深めていってから……」
(……この人。夜を司る夜魔の一族なのに……行き遅れそうとか陰で言われてる理由が心で理解できた気がする……)
自分の上司の恋愛観がおおよそ夜魔の一族の方とは思えないリィは、最近職場で耳にした評価が現実であったことを理解した。特に理解したくはなかったが。
「……ちょっとリィ! 聞いてるの!?」
「ハイ、ソーデスネー」
延々と上司から奥ゆかしく迂遠な恋愛ステップを聞かされ、身体よりもこの方の頭の方を心配するリィであった。
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