第71話 【誘惑のホムンクルス】
1月下旬の早朝。
寒さもより一層厳しくなる。
昨晩から降り続いている雪も、しばらくは解けそうにない。エスティは工房の窓から外を眺めながら、そんな冬の蓼科の趣を堪能していた。
庵の《高度な追加機能》の中に、室温の調整機能は無かった。その時々の自然を存分に味わえという、《魔女の庵》の制作者の粋な計らいなのかもしれない。
「――眠れないのか、エス」
ロゼがひょいっと机の上に乗る。
物音で起きたのかもしれない。
「よく寝れていますよ。ただ、少し眠りが浅いだけです」
「悩みでもあるのか?」
悩みはある。
あと235日。
「無いですよ」
エスティは穏やかに微笑み、机の上に開かれた魔術書に目を通し始めた。机の上に取り付けられた小さな間接照明の光だけが、部屋を照らしていた。
ロゼは窓際に置かれた猫用のベッドに移動する。窓から冷気が伝っており、冷たいベッドになっていた。
「強いていうなら、昼夜逆転の聖女が失恋で落ち込みまくってる事でしょうか」
「あぁ、あれは……やや鬱陶しいな」
マチコデが帰還してから3日が経った。
エスティの庵にも日常が戻って来たが、ミアは時折タブレットを開き、アヘアヘな顔のマチコデを見てはウルっと目を潤ませていた。
「顔を弄るアプリがあるじゃないですか。あれでマチコデ様の顔を毎日少しずつひょっとこに近付けてるんですけど、ミアはまったく気付く様子がありません」
「……エスは相変わらずだ」
「いえ、最後まで気づかなかったらヤバいですよ……さて、ん~!」
エスティは大きく伸びをした。
ロゼと会話して目が冴えてきた。
丁度その時、ガチャリと玄関の扉が開く音が聞こえてきた。ムラカが帰ってきたようだ。
雨が降ろうと雪が降ろうと、ムラカは関係なく山に登っている。その後に露天風呂に浸かるのが、何よりも幸せなのだという。
「私も一緒に茹で上がってきましょうかね」
「我はもうひと眠りするとしよう」
◆ ◆ ◆
冬でも露天風呂は温かい。
「雪見風呂に雪見酒とは、最高ですねぇ」
エスティは朝から一杯やっていた。
「お前、今日の予定は大丈夫なのか?」
「今日も【弁当箱】作りですよ。中身は全部水なので手間もかかりません」
「そうか」
ムラカはそう言って目を閉じた。
マチコデが帰ってから、ムラカは心ここに在らずといった顔をするようになった。何かに思い悩んでいる節があるが、自分から言おうとはしない。
「……良い事を話してましたね、マチコデ様」
「そうだな」
「一杯どうです?」
「遠慮する。というか朝から飲むな」
生真面目なムラカは、夜以外で飲みたがらない。ミアとは真逆の性格だ。
「なぁエスティ、私に出来る事はあるか?」
「ぐびぐび……ん、何か言いました?」
「……私に出来る事はあるか?」
「そうですねぇ……そういえば、マチコデ様が野菜を育てたらどうだと言っていたのを覚えていますか?」
「覚えているが、それが何だ?」
マチコデが置いていった植物の種。
エスティは2日かけて調べ尽くしたが、結局よく分からなかった。触れたら簡単に粉々になるし、魔法が込められている感じもしない。何の種かすら、読み取れなかった。
だが、何かヒントはあるかもしれない。
「折角なので、野菜を作ってみようかと思って。この《魔女の庵》の範囲内で野菜を育てたら、何か普通とは違うものが生まれないかなぁと。それで、この庵の《高度な追加機能》の中に丁度使えそうな機能があったんですよ」
「使えそうな機能?」
「《植物の生育速度調整》です」
《植物の生育速度調整》。
この機能についての具体的な内容は書かれていない。だが名前から察するに、そういう効果があるとは予想できる。機能を追加する事で、《魔女の庵》の範囲内にある植物の管理ができるかもしれない。
しかし、そのために必要な素材は蓼科には無いものであった。
「ネクロマリアの素材で
「オスオー?」
「えぇ。聞いた事が無くて……ブクブク」
エスティは湯舟に口を付け、泡を吐き出した。顔はポワっと赤く染まっており、ほろ酔いだ。
「私も知らないな。汚いから止めろ」
「っぷはぁ……それを取ってきて欲しいんです。多分まだ見ぬ魔族の討伐素材か、どこかに眠っている財宝だと思うんですよねぇ」
「ふ、宝探しか」
ムラカの口角が上がった。宝探しという言葉が琴線に触れたようだ。
「ふふ、まさか『飛剣のムラカ』にトレジャーハントが出来ないというわけでは」
「ないさ、いくらでも見つけてやる」
そう言うと、ムラカは立ち上がった。
湯舟の水面がザパァっと揺れる。
「魔族との生存競争の中での宝探しは、多少の罪悪感はあるがな」
「それ、私は深く考え無い事にしました」
「ほう?」
エスティも続いて立ち上がる。気温は相当低いが、温泉で温まった身体には寒さが心地良いぐらいだ。
「多分、ネクロマリアを必死に助けて回っていたら体がもたないですよ。私は英雄ではありません。好きな事をしながら、自分の速度でのんびり進むと決めました」
「エスティらしいな。お前もミアの背中も押してやってくれ」
「ふふ。そういえば、丁度ミアが元気になる魔道具を作りましたよ」
◆ ◆ ◆
二人がリビングに戻ると、ミアが炬燵から顔を出してうつ伏せで寝そべっていた。頭の上にはロゼが器用に丸まっている。何だかんだで仲は良い。
「おはようございますミア。朝ご飯は何ですか?」
「………………決めたわ」
「ん?」
ミアが炬燵から抜け出し、立ち上がった。
運動不足のロゼがぼてっと転げ落ちる。
「私はもう聖女を引退したの。戦闘能力も無いの。この家を拠点にして、落ち込んでいるネクロマリアの人々の心を癒すために、蓼科の文化を学ぶのよ!!」
ミアが斜め上を見上げて拳を掲げた。ようやくマチコデ様さみしい事件から気持ちが回復したようだ。
「戦闘力が無いって、あの人助けの勇者がタックルで吹っ飛んでましたよ」
「そうだミア、それでいいぞ……!」
ムラカはその決意表明に感動していた。
「……ロゼ、文化って多分漫画とかの事ですよ。この場合、どうしましょうか?」
「どうしようもない。黙っておけ」
「元気になったのは良い事ですけどね」
するとミアは【弁当箱】から鹿の生肉を取り出した。調理途中なのか、ラップで包まれて血が滲んでいる。
「みんな、好きなだけ食べて!」
「……ロゼ、この世界ではカニ漁船に乗ると心が綺麗になるそうです。ミアの名前で応募してもいいですか?」
「駄目だな、奴は
エスティは炬燵にのそのそと入った。目の前に置かれた鹿肉から、血の匂いが漂ってくる。風呂上りの爽快な気分が台無しだ。
「心配かけたわね、エスティ。私はようやく雑念を断ち切ったわ」
「良かったです。ミアが元気になる魔道具を作ったんですが、不要でしたね」
「欲しい欲しい!!」
ミアが食いついてきた。
エスティは炬燵から抜け出て工房へと向かい、新聞に包まれた大きな物を持ってリビングに戻って来た。エスティが片手で持てるぐらいに軽い物だ。炬燵机の上にある鹿肉を空間に収納し、それを置いた。
新聞を開いていくと、裸の男が現れた。
「何これ……」
「【誘惑のホムンクルス】です。ミアが寂しそうなので、喋るラブドールを作ってみました。これといって特殊な効果はありませんが、抱きしめると少しだけ魔力が回復します」
エスティが陽子に頼んでネットで仕入れてもらった、女性向けのラブドールだ。ミアが欲しがっていると伝えたら、悲しげな表情で購入してくれた。
そのお値段は、なんと20万円。
「死体みたいね」
「抱いて寝るといいですよ。マチコデ様を思い出して寂しさが紛れます」
「もっと寂しくなるわよ」
顔だけはキマッているが、裸だ。
むしろ不気味に笑っている。
「エス、これはどうやって喋るのだ」
「流石はロゼ! いい質問ですねぇ。実はこれ、かなりの自信作なんです。いやぁ魔法陣でレコーダーを再現するのがかなり大変でしたよ。画期的な発明です!」
エスティはラブドールの右乳首を押した。
すると、マチコデの声がラブドールの口から流れ出した。
「ワガツマ、ドロシー! ワガツマ、ドロシー! ワガツマ」
「やめろおおおぉ!!!」
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