第8話 見えない糸

手術当日。渡された服に着替え、手術室近くでストレッチャーに横になる。


「行ってきます。」


心配そうに見送る父と母。わたしに向けられたふたりの強い眼差しと緊張感を躱し、いたって冷静を装って事を進めた。わたしの顔は明らかに強張っていた。


しかし、いざ手術室の入り口に差し掛かると、怖いというより、なかなか入ることのできない場所に入る好奇心の方が優っていた。


手術室の中には何があるのだろう...。隈なく眺めたい期待とは裏腹に、白いライトが眩し過ぎて何も見えない。


看護師さんに「どの味がいい?」と聞かれてリクエストしておいたチョコレート風味の麻酔をされ、教えられた通り羊の数を3つくらい数えたところから記憶がない。ちなみに、麻酔はチョコレートの他に、イチゴとバナナの香りが選べた。実際にチョコレートの香りがしたのかさえ分からない。ただ、手術は上手くいった。


麻酔が切れて目が覚めたわたしの第一声は「103」だった。目を開けるとベッドの横には安堵した母の笑顔があった。


「よく頑張ったねー。いきなり数を言うもんだから、まだ羊を数えているのかと思ったよ。」


今でも鮮明に覚えている目覚める直前の映像。一匹ずつ漫画チックな羊が現れては、軽いおもちゃみたいに遠くへポーンと飛んでいく。そしてまた次の羊が現れてはそれを繰り返す。わたしの頭の中は素直に羊を数え続けていた。


幸運にも、その後兄への移植も全て成功した。


ひとつ問題があったとすれば、術後からしばらくわたしの腰が90度折れ曲がったことくらいだ。元に戻るまでの1ヶ月は歩くのに苦労したけれど、その格好で元気に走り回るわたしを見て看護師さんが笑ってくれるのをわたしも面白がった。老人のような格好でも中身は元気いっぱいの幼稚園児。


退院まで毎日院内をあちこち歩き回き、ビニール越しにしか会えない兄の無菌室にも度々お邪魔した。兄は横になりながらパックマンやマリオのファミコンで遊んでいて少し羨ましかった。



退院して数週間の自宅療養を終え、久しぶりに幼稚園に登園した初日。楽しみにしていた縄跳び大会が催された。園長先生も担任の先生も心配して見学するように勧めたけれど、わたしは有り余るエネルギーで優勝した。わたしの健康体は以前と何も変わらなかった。


かなり健康な骨髄を移植したことで、兄の調子は安定した。わたしの一部が今や兄の一部になった。家族、兄妹以上、一心同体未満の感覚。


それからは不思議なことに、たまにわたしが風邪を引くと兄も決まって熱を出した。わたしが遠くに出かけると、絶好調だったはずの兄が病院に引き戻されてしまうことが度々起こった。わたしと兄は見えない何かで繋がった。

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