49 夜の家族会議
「ただいま」
まるで戦場から帰還した日本兵のような気持ちだった。疲労困憊で笑うことさえ厳しかったが努めて平静を装う。隆行は長い間笑うことさえ忘れていた。笑顔を作る頬がこの上なく重い。
リビングに入ると家族は唖然としていた。まるで、お化けでも見たかのような様子で言葉を発しない。そんな中、即座に由美子が走りよって隆行の頭をぎゅっと抱き締めた。
「おかえりなさい」
貼り付けた笑みが由美子の腕の中で段々下がっていく。口元が震えて目頭が熱くなった、それを何とか堪える。紛らわすように疲れた疲れたといいながら由美子の腕から抜け出すとリビングのソファへと腰かけた。リビングには皆揃っていた。
珍しくモモが傍によって尻尾を振っている。隆行の帰宅をこれほど歓迎するなどないことだった。
「忘れてなかったか、モモ」
そういってモモを抱き上げた。小さな背を撫でて、柔らかな毛に触れる。荒んだ気持ちが癒されていくのを感じた。いつまでもそうしていたかったが、疲れている。何より家族で話さなければならないことが山積していた。
家族との再会の喜びを分かち合ってトイレに入った。静かに佇む真っ白な便器を見つめる。この無垢な個体が脇田家をこの世界へと押し流した。恨む気持ち半分、でもそれと裏腹に清潔な便器に安堵する気持ち半分。ホッと息を吐くと転移と書かれつつも今は機能していない小ボタンを押した。
それから早めの風呂を浴びて、本題に入ったのは夕食の席でのことだった。話の大筋は聡司から聞いた。イファックスに電話して、色々と問いただしたことも。話を聞いて隆行に一番に浮かんだ疑問がある。
「便器はあったよな」
隆行の問いかけに皆一瞬考えた様子だった。
「あるよ。さっき使ったでしょ、どうして?」
問いかけてきたのは聡司だった。
「いや、ウチの便器がこちらに一緒に来ているのなら、今あちらの土地には本来ないはずだろうと思って」
「たぶん、ウチが転移した後イファックス側が勝手に設置したんじゃないかな」
「なるほど」
隆行は再び考える。自身が知り得た情報を家族にどうやって説明すべきか。深谷村のこと。あちらの世界のゴミがここへと流れついていること。世界の腐敗が人魔を生み出しているということ。そして、ジェスの言葉を思い出す。
――おまえのせいだ。
隆行はぶるぶると否定するように首を振った。それを家族が不審そうに見た。
「ああ、いや。何でもない」
取り繕うことも出来ずに黙り込む。ジェスは誰に向けてあの言葉を発したのだろう。
隆行は鬱屈した気持ちを紛らわせるように刺身へと手を伸ばした。それにしても美味い刺身だ。
「もう、眠たいからおばあちゃんは寝るよ。おやすみ」
9時ごろ君江が空気を読まずに寝た。まあ、お年寄りだから仕方がない。泰山も眠そうにしていたので、由美子に促した。2人が去り、リビングには隆行一家とモモだけ残される。
「私、モモ寝かしてくる」
麗奈が毛布の上でうずくまっていたモモを抱いて2階へと上がった。
沈黙が落ちて、誰も見ていなかったつけっぱなしのテレビが虚しく鳴っている。隆行はリモコンでテレビを消した。浪費家の隆行には珍しいことだ。
隆行は頭の中で整理しきれずにいたことを由美子と聡司に話し始めた。
「人魔は死人の魂と腐敗から生まれる。人魔を祓うには黄泉の国を清掃しなければならないんだ」
思いつめて話すと聡司が「何をいっているの」と珍しく強い口調で問いかけた。やはり寝耳に水の出来事だったらしい。
「だから、人魔は腐敗から生まれるんだ。ヨミの国には深谷村から流れ着いた汚物が堆積している。昔は排泄物を川に流していたんだ」
「だから、そうじゃなくて」
聡司が遮って話を続けた。
「オレたち帰るんだよ? 一番にすることって帰る方法を探すことじゃないの」
鮮やかな言葉に思わず目が覚める思いがした。自身は知らないうちに人魔とヨミの国にとらわれ過ぎていた。
「明日、起きたら皆揃ってイファックスと電話する。目的は何なのか、どうやったら帰れるのか。それを一番に聞かなきゃいけないんだろ」
隆行は我が子の成長に思わず心を打たれそうになった。何としっかりとした子に成長したことか。
「そうだな、そうだ」
隆行は噛みしめるように頷く。息子に気づかされた。一家の長として自分は最もしっかりしていなければいけなかった。グラスの酒を口へと運ぶ。飲んだことのない酒だがこれも美味い。少し酔ってはいるが思考はしっかりしていた。
明日皆で電話をすることをしっかりと確認して、話を終える。テレビを再びつけるとバラエティ番組がやっていたが何の興味も持てず、その日はもう疲れていたので早めに就寝することにした。
久々の温かな布団は万感の思いだった。病院のベッドは固くて、それ以前の軍の布団は薄くて。隆行は布団に潜り込むと隣の布団で眠る由美子に話しかける。
「由美子、ありがとう」
留守を懸命に守ってくれた妻への感謝だった。たった一言だけれど、いなかった月日の想いを込めた。由美子はそっと呟く。
「おかえりなさい」
端的な返事が由美子らしくてほっとする。それから5分も経たないうちに寝息が聞こえてきた。
◇
翌早朝、イファックス本社にて社長室を出発する人影が2つ。
「では行こうか水野さん」
「はい、社長」
社長の桐島礼二と秘書の水野だ。2人は今日の日のために着々と準備を進めてきた。手荷物は各々のスーツケースと小さなバッグと覚悟だけ。大事なものは全て詰めた。スーツケースを占める膨大な資料は全て、脇田家プロジェクトに関するものだ。このために10年以上を費やした。多くの人員の汗と涙の結晶だ。これから2人で空港へと向かい、飛行機で移動後、タクシーを利用して脇田家の土地を目指す。所要時間は全部で5時間ほどだ。何があってもスーツケースだけは手放してはならない。中には何より大事なトイレットペーパーが入っているのだから。
エントランスに行くと大勢の総合研究所職員が待っていた。2人の旅立ちを見送るために集ってくれたようだ。次第に拍手が始まる。2人は颯爽と自動ドアへ向けて歩く。振り返り礼二は拳を握りしめて突き上げた。
「やるぞ!」
礼二の声により一層拍手が大きくなる。隣で水野が深々と礼をした。
背に拍手を受けながら2人はタクシーへと向かう。いよいよ失敗してはならない一世一代のプロジェクトが始まる。
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