48 目覚めたジェスの……

 オーラン達は結局院内から脱出することが出来ずに捕まった。すぐ下の階だったと聞いている。今は日中でも病室の外に出してもらえず、以前以上に苦痛の生活を強いられている。木戸の前に行けば話くらい出来るがそれはしなかった。後ろめたくなるから。そして、彼らと会わなくなった代わりに隆行の生活にも変化が生じた。ジェスだ。


 ある日、テーブルへ行くと長い白髪と髭の仙人のような見目の老人が座っていた。天井を見つめたまま、ぽっかりと口を開けてどう見ても正常ではない。だが、外へ出られたということは彼なりの病状の回復が見られたということだろう。座っていたジェスに通りすがりの看護師が話しかけた。


「ジェス、タカユキだよ。挨拶はしたかい」

「…………」


 返事も返ってこなかったので看護師もそれ以上構うことなく歩き去った。隆行は興味を持ち、ジェスの対面に座った。


「ジェス」


 隆行は恐々と呼びかけてみた。返事はない。その代わりにジェスが天井を見ていた顔を下ろした。隆行をうつろな目で見ている。ジェスの口元が微かに動く。隆行は耳を傾けた。


「ああ、人々よ。…………人生を懸けて祈りなさい…………神はあなたを許します」


 隆行は機転を利かせてマガジンラックから本を探した。みんなで回し読みしたあの本だ。ページを繰ってその箇所を探す。開いたままジェスの前に差し出した。ジェスはゆっくりと手を伸ばし、本にそっと触れた。何度も何度も指でその箇所を指の腹で撫でている。


 5分くらい続けただろうか。その間隆行はじっと黙って彼の仕草を見ていた。不意に彼の指が止まる。指から目を離し彼の口の動きに注目する。ぼそぼそとか細く何かをいっている。隆行は席を立ちあがるとジェスの傍に耳を寄せた。


「腐敗を……断ち切らなくては……いけない」

「腐敗」


 隆行は復唱するように問いかえす。


「ヨミの腐敗から……生まれくる……者たち」

 人魔だと思ったがそれは口にしない。


「かの国の……腐敗を取り去り……魂を浄化せよ」

「浄化とはどうやるんだ」


 探るような言葉にジェスが初めて反応を示す。顔を少し、隆行の方に向けると耳にそっと囁いた。


「汚れを取り去り、綺麗な国にするんだよ」


 ジェスの顔を見ると目に色が戻ったような表情をしていた。一瞬可愛らしくにっこりと笑ったかと思うと眩暈に襲われたのか頭を押さえくらくらと前向きに倒れた。


 隆行は看護師を慌てて呼びに行った。看護師はジェスに駆け寄ると「ジェス、部屋に戻ろうか」と背中を擦る。その後、車いすに乗せられてジェスは病室へと戻って行った。




 次にジェスと再会できたのは2日後の昼だった。ジェスは同じようにテーブルの前に座っていた。何もせずに開かれた本を見ている。確認すると同じ本だった。隆行はジェスの前に再び腰かけると今度は目を見て真剣に話しかけた。


「ヨミの腐敗を取り去るには土地を綺麗にしたらいいのだな」


 ジェスは返事をしなかった。相変わらずどこかをうつろに見つめたまま。


「アレを祓うだけでは事態が解決しない。土地ごと綺麗に清掃してアレが溢れない環境を作るということだな」


 ジェスは隆行の問いかけには答えない。話しているうちに隆行は自身が何をしているのかよく分からなくなってきた。自身にヨミの国を救うという目的は全くない。恐らく問いかけてジェスが何かを返してくるのを面白がって望んでいるだけなのだ。それでもどうしても聞かなければならない1つのことがあった。


「ヨミにはどうして腐敗が流れつくんだ」


 この問いにもジェスは答えないだろうと思った。諦めかけた時ジェスの指がゆっくりと持ち上がり、隆行の胸を指さす。


「おまえの……せい……だ」


 隆行は一瞬何を言われてか分からず、目を丸くした。ジェスはそのまま脱力したように指を下ろすと放心状態になった様子で以後何も話すことはなかった。


 隆行はジェスの言葉を反復する。ヨミにゴミが流れつくのがどうして隆行のせいになるのか、おそらくそれは違うと判断する。ジェスが朦朧とした意識の中で呟いた妄言だ。ジェスは隆行のことを何1つ知らないし、認識もしていないだろう。もしかすると他の誰かへ向けて発したメッセージかもしれない。田吾作のことをいっているのだろうか。




 結局ジェスの発した言葉の意味を理解できないまま隆行は退院した。入院してからひと月半が経過していた。身1つで連れていかれ帰る時も身1つ。見送る者は誰もいなかった。隆行ほどスピード退院できる人は稀らしく周囲は驚いていた。オーラン達と言葉を交わせなかったことは心残りで、でもそれよりも家族に会いたい気持ちが勝った。


 地理情報があやふやなので、町のどこへ向かって歩けばいいかも分からない。そのうち迷子になってしまったような気持ちが溢れ、心細さが心を覆いつくす。足取りは早くなり、息も上がって、ぜえぜえと呼吸を繰り返しながら早足で歩く。連れ去られたのは確かどこかの広場だった。消えかけそうな記憶を手繰り寄せる。何度か後退を繰り返し、中心部へ向けて歩いているとようやく我が家が見えた。西洋文化の景観をぶち壊しの2階建ての日本家屋が。ちゃんとまだあった、待っていてくれたと安堵する。いなくなっている可能性も少し考えたのだ。ドアを引く前にひと呼吸だけ置く。笑顔でただいまと言おう。それが精いっぱいの強がりだ。


 隆行は笑顔でそっとドアノブを引いた。

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