第二部 第三章「女王陛下と大怪盗」(7)


「で、まんまと逃したってわけ?」


 寝不足の目をこすりながらトーストを食べる僕に、ユキが言ってきた。

 起きるのが遅かったので、みんなより遅めの朝ごはんだ。


「逃したんじゃないよ。放流だよ放流」

「またまたぁ、負け惜しみ言っちゃってぇ」


 僕のほっぺをツンツンしながら、ユキがにやにやと笑う。


 そんな僕のテーブルに、レオさんがさりげなく紅茶が入ったティーカップを置いた。

 今日も燕尾服がビシっと決まっている。


「あれ、屋敷の管理以外は……」


 昨日僕が言ったセリフを、ミスティ先輩が言った。


「気が変わりました。今日から、ベルゲングリューン家の執事としてお仕えさせていただきます」


 呆気に取られるミスティ先輩に恭しく一礼すると、レオさんはトレイを持って厨房に戻ろうとする。

 そんなレオさんに、メアリーが声を掛けた。


「レオさぁん、私、あったかいココアが飲みたぁ〜い」

「ご自分でどうぞ」


 レオさんは一言そう言って、厨房に帰って行った。


 さすが執事。

 早くもメアリーの扱いを心得ている。


「な、な、な……なぬ、なぬ、ぬ……」


 メアリーがレオさんが去って行った方を指差しながら僕の方を向いた。


「ぬ、ぬあんなんですか、あの態度は!! 新入りのイケメンオヤジのクセにぃ!!」

「メアリー、ココア淹れて」

「はーい、ただいま……って、もう! 伯ッ!!!」


 メアリーにバシバシ肩を叩かれながら、僕はもう一つのことを思い出した。


「そうそう、メル」

「なぁに?」


 僕の隣で静かに紅茶を飲んでいたメルが顔を上げた。


「君の剣の技って、自己流?」

「そうよ」


 そう答えてから、軽く苦笑して言葉を続けた。


「って言っても、ある人の技を真似しただけなんだけど」

「ある人って?」


 僕がそう言うと、紅茶のカップに両手をそっと当てて、昔を懐かしむようにメルが言った。


「私、小さい頃からおばあちゃんの家に住んでいたの。当時のエスパダはまだ女王が即位されて民主化される直前の時代で、地方の貴族たちが好き放題やっていてね。エスパダの民衆はみんな、貴族たちの重税や圧政に苦しめられていたの」

「今みたいに活気がある国になったのは、女王陛下の御代みよになってかららしいからな」 


 いつの間にか僕の右隣でクッキーをもくもく食べながらヴェンツェルが言って、メルがそれに頷いた。


「それでね、私、ある日、外でお友達と遊んでいたら、たまたま馬車で通りかかった地方の貴族にさらわれてしまったの」


 ちょっと衝撃的な話に、僕たちは思わず息を飲んだ。


「でっぷりと太った、気持ち悪い男で……、屋敷に連れられて、これからはウチの娘になるんだとか言われて。最初は気持ち悪いぐらい優しかったんだけど、私がずっと抵抗していると怒り出して、お屋敷の牢屋に入れられてしまったの」

「ひどい……」


 アリサがつぶやき、ミスティ先輩がうなずき、ヒルダ先輩が腕を組んで厳しい表情をする。


「今思い出しても寒気がするような、ひどく汚くて、すごく臭い牢屋。私、そのまま、食事も何も貰えず何日も、たぶん一週間以上も過ごして……。格子窓から滴る雨水と、連れて行かれる前にポケットにしのばせていたクッキーでネズミをおびきよせて捕まえて、それを食べてなんとか生き延びたわ」

「……ぶっ殺す」


 顔も見たことがないその貴族に、僕は強烈な殺意を覚えた。

 幼いメルがどれだけ怖い思いをしたか、想像もつかない。 


 それにしても……。


「強い子だ」


 僕がそう言うと、メルが驚いたように顔を上げた。


「えらいね。クッキーを食べずに、ネズミをおびきよせるなんて」


 歴戦の冒険者ならともかく、年端も行かない女の子が生きたネズミを食べるなんて、なかなかできることじゃない。

 僕がそう言うと、メルがちょっと恥ずかしそうに顔を赤くした。


「……私、お腹がすくのだけは我慢できないの」

「そ、そう」

「俺と同じだな」

「バカじゃないの」


 キムの言葉にユキが最速でツッコんだ。


「全然おいしくなくて、何度か吐いちゃったけど、でも、衰弱だけはしなくて済んだ。そんな、ある時にね、その人に出会ったの」


 メルが言った。


「最初は幽霊かと思った。何の物音もなく、突然牢屋の前に、目の周りだけ隠した仮面を付けた男の人が現れて、私の顔をじっと見て。それから、横に落ちていた骨だけになったネズミを見て、フッ、って笑ったの。表情はわからないけど、悲しいような、優しいような、そんな瞳だった」


 メルは紅茶を飲んで一息ついてから、言葉を続ける。


「私の他にもそうやって牢屋に入れられた女の子がたくさんいたみたいでね、みんな死んじゃってたの。すごい臭いの原因はそれだったのね。それで、その男の人がね、さっきのベルと同じ言葉を言ったの。『強い子だ』って」

「……」


 いつの間にか、みんなが静かに、メルの話に聞き入っていた。


「君はきっと、強い戦士になる。とても強くて、誇り高い戦士にね」


 男はそう言って、メルの牢屋に近付いたらしい。


「でも、そのためには、もっと強くならなくちゃいけない。君をこんな目に遭わせた奴に負けないぐらい強くて、君のような目に遭う人を助けてあげられるぐらいに」


 男はメルを真っ直ぐ見て、尋ねた。


「君に、それができると思うかい?」


 男の言葉に、メルは強くうなずいたらしい。


「フッ、どうやら、このお城の一番のお宝は君のようだ」


 男はそう言うと、まるで錠前など最初から存在しないかのように一瞬で牢屋を解錠して、メルを外に連れ出した。


「私の動きをよく見ておくんだ。……幼い君にはちょっと刺激が強いかもしれないがね」


 男はそう言って、駆けつけた門番を一瞬で切り伏せると、メルの手を取って城

に上がったらしい。


「逃げないの?」


 メルが尋ねると、男は言った。


「普段ならそうするのだがね。あの貴族をそのままにしていたら、また君がさらわれてしまうかもしれないし、他の女の子が同じ目に合うかもしれないだろう?」


 男は目を細めて、豪華な階段の上を見上げてから、言葉を続けた。


「……それに、こんな悪趣味を放置しておけるほど、私は大人ではないのだよ」


 なぜか屋敷の中は厳重警戒態勢で、兵士で溢れかえっていた。

 にもかかわらず、男は身を隠すようなことは一切しなかった。

 かといって、蛮勇をふるうわけでもない。


 幼いメルと手をつなぎながら、まるでダンスでも踊るように広間を軽やかにステップすると、不思議なことに兵士たちは二人にまったく気付かないのだった。


「どうして、兵隊さんたちは私たちに気付かないの?」


 長い回廊の曲がり角に出て、兵士がいないことを確認してから、幼いメルが男に尋ねると、男は言った。


「人間はね、『意識しているものしか見えない』のさ」

「……目があるのに?」

「目があるからこそ、さ」


 その時のメルは、男が何を言っているのか、わからなかったそうだ。

 

 やがて男は、貴族のいる部屋にたどり着く。

 二人を見た醜い貴族の男は慌てて護衛を呼ぼうとするが、すでに近くに駆けつけるべき護衛たちはすべて男が気絶させていた。


 貴族はそのでっぷりと太った体型からは想像もつかない機敏さで枕元にあった軍刀サーベルを抜き、男に斬りかかる。


 男はそんな状況にそぐわないような、ゆったりとした動作で鞘から細剣エスパダ・ロペラを抜くと、流星のように美しい三連撃を放ち、初撃で左肩を刺して相手の突進を止め、二撃目で相手の手の甲を刺して攻撃力を奪い……、三撃目は早すぎて見えなかった。

 

 でっぷりと太った貴族の男は恐れをなして後ろに下がって、男に向かって吠えた。

 大貴族であるこの私を殺せば、お前もその娘もこの国では生きていけないぞ。

 ……メルの記憶によれば、そんな風なことを言ったのだという。


「フッ、もっと早くにそれを聞いていればよかったかもしれんな」


 男は貴族に背を向けて、そう言った。

 

「すでに討ち取っている」


 男がそう言うが早いか、でっぷりと太った貴族の男は驚愕の表情を浮かべたまま、ずるり、とその首を床に転がらせた。

 

 そのあまりの光景にメルは気を失い、気がつくと、老朽化して管理者がいなくなった、現在のように復旧する前の、メルのおばあちゃんの家の近所にある時計台の管理人室のベッドで目を覚ましたのだという。

 

「その時に私は決意したの。私を助けてくれた人との約束を守るために、冒険者になろうって」


 メルがそう言って、少し冷めた、メルにとっては適温の紅茶をゆっくり飲んだ。

 メルの話を食い入るように聞いていたみんなは、どっと疲れたようにソファに深く座り込んで深呼吸をした。


「レオさーん、ちょっといいですか?」

「はい、あるじ様」


 ものすごく呼ばれ慣れない呼ばれ方をして、レオさんが戻ってきた。


「メル。……その助けてくた人、たぶんこの人だよ」

「「「「「「えええええええええええ!!!」」」」」」


 メアリーやユキといった普段からやかましい連中を中心に、みんなが大声を上げた。

 昨日の流星剣を見ていなければ、僕も同じ反応をしただろう。


 みんなの反応に軽く首を傾げるレオさんに僕が説明をすると、レオさんは驚いたようにメルを見た。


「あなたが……、あの時の……?」

「私は信仰というものを持ち合わせていないのだが……。これが神の巡り合わせと言わず、なんと言うのだろうか……」


 レオさんがぽつりと言った。


「伯です! 伯の巡り合わせです! つまりは伯こそが神!! 現人神あらひとがみなのです!!!」

「メアリー、うるさい」


 今めちゃくちゃいいところなんだから。


「ラララ〜!! 幼き少女を救いし心優しき大怪盗〜!! やがて少女は美しい剣士へと成長し〜」

「おえええええええぇぇっ!! きゅ、急に超絶イケメンが美声で歌わないで!!!!」

「メアリー、うっさい!」

「伯、ひどい!! なぜ超絶イケメンには怒らないですか!!」

「ラララ〜!! それはハニーの僕への愛〜!!」

「うっぷ……、も、もうだめ……、ちょっとおトイレに……」


 バルトロメウとメアリーのせいで、せっかくの雰囲気が台無しになってしまった。


「そうか……、本当に、強くて誇り高い戦士になったのだな、君は」

「私はまだまだ未熟ですが……。何の力もなかった私がここまで生きてこれたのは、あなたのおかげです。レオさん」

「フッ、コソ泥の分際でずいぶんな高説を叩いたものだと後で自嘲じちょうしたものだが、君の今の姿を見て、少し救われたよ」

「あー!!!」


 その時のレオさんの笑い方を見て、僕は唐突にあることを思い出した。


「思い出した!!! 士官学校の入学の時の!! ゴブリンリーダーをメルが討伐した時!!」


 僕がそう言うと、メルがあっ、と小さく声を上げた。


「めっちゃドヤ顔で、たしかこう言ったんだよ。『フッ、すでに討ち取っている』って!! あれってもしかして!!」

「そ、そう……。レオさんのセリフ。一度、言ってみたくて……つい」


 メルがめちゃくちゃ顔を赤くしてうつむきながら言った。

 とっくに紅茶は冷えているはずなのに、銀縁シルバーフレームのメガネが湯気で曇っている。


「その後、メルと同じクラスになって、ぜんぜん人格が違うから、おかしいなぁと思ってたんだよね……、なるほどなるほど……」

「も、もうやめて……、黒歴史だから……」


 メルが小声で僕に言った。


「ベル、レオ殿に稽古をつけてもらえ。早く貴様もレオ殿のような男になるのだ。私がレオ殿に惚れてしまう前にな」

「ヒルダ、無茶いわないで」


 メルの師匠なんだから、なおさら稽古はつけてもらうつもりだったけど、僕が何をどうやっても、こんな激シブ男になれるわけがない。

 足の長さからして違う。

 どんなに修行しても僕の足の長さは変わらないんだぞ。

 

「ところで主様、昨夜の少女の処遇はどうされるのですか? 放置していては、また必ず現れると思いますが」


 話が一段落ついたところで、レオさんが言った。


「盗みを働くならともかく、相当の恨みを買われたはず。あれほどの手練てだれとなると、暗殺者アサシンと変わりません。早急に手を打つべきだと思うのですが」


 レオさんが言った。

 たしかに、あの少女が僕に剣を突きつけた時には死を覚悟した。

 というか、あの子を殺さなければ、自分が死ぬな、と思った。


 だから、レオさんが助けてくれて本当に助かったんだ。

 あんな少女をボコボコにしてグサグサ刺しまくってひどいと思っちゃうけど、あの子が強すぎて、レオさんレベルでもあのぐらいしか手加減ができなかったらしい。


 ましてや僕だったら、手加減なんてできるはずもなかった。


「その前に一つ確認したいんだけど、あの子がレオさんの隠し子だったりとか、どこかで誰かに産ませた子供だったりっていう可能性はある?」

「ありません」


 レオさんはきっぱりと答えた。


「私が愛した女性は一人だけです。その女性はすでに死別しており、私には伴侶も子供もおりません」

「……なにこのイケメン……、生き様までイケメンなんだけど……」


 ミスティ先輩がつぶやいた。


「お兄様も、レオ様の生き様を少しは見習ってはいかがですか」


 テレサがそうつぶやくと、ユキと、なぜかアーデルハイドがうんうんと頷き、それを見てアリサがけらけらと笑いながら、こっちを見ている。

 

 ちなみに、ゾフィアは気に入ったのか、さっきから、「フッ、すでに討ち取っている」って小さい声で言いながら剣を振り回すしぐさを花京院と何度もやっていて、メルが二人を必死にやめさせようとしている。


 ルッ君は、いつものようにイケメンに嫉妬することなく、むしろ目を輝かせて「すげぇな……、レオさんすげぇな……」を連呼していて、ジョセフィーヌは「素敵……オジサマ素敵すぎる……」を連呼していて、ミヤザワくんが二人にすごいね、って何度もうなずいてあげていた。


 ジルベールはギルサナスとキムと、


「メル女史の剣技の冴えは、そういうことであったのか……」 

「私は過去から目をそむけて生きてきたが、メルさんは過去の記憶やイメージを研ぎ澄ませて、あの剣技を完成させたんだね」

「お前だってもう、ちゃんと過去と向き合ったじゃねぇか」


 なんて話をしているようだ。

 バルトロメウは新曲をひらめいたらしく、万年筆でさらさらと紙に何かを一生懸命に書いていた。


「あ、それで、あの子をどうするかって話だっけ」


 僕はレオさんの方を向いた。


「主様は、私ですら貴方からは逃げられないとおっしゃいましたが、あれほどの手練れであれば、今から痕跡を辿っても、アジトを突き止めることは難しいでしょう」

「うん」

「何か考えがおありなのですか?」


 レオさんは無表情だけど、同じく無表情なベルンハルト帝国元帥閣下と接してきたから、僕にはわかる。

 レオさんの目に宿る、ワクワクを抑えきれない感情を。

 僕が何をしでかすのか、興味があるのだ。

 マテラッツィ・マッツォーネですら逃れられないと豪語する僕の自信の根拠を。


「……考えがあるっていうか、物理的に無理なんだ。僕から逃げるのは」


 僕はそう言ってレオさんに微笑んでから、言葉を続けた。


「それじゃ、今からこの大天才伯爵ベルゲングリューンが大怪盗マテラッツィ・マッツォーネ三世とやらを捕らえてしんぜよう!!」

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